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2020/02/26

岩佐美咲で考える歌のリアルとフィクション 〜 日本の演歌とアメリカのティン・パン・アリーに共通すること

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共通しているのは(特に歌詞が)非日常的で現実離れしているっていうこと。主旋律なんかもそうですね。だから妄想するにはちょうどいいんです。ティン・パン・アリーのラヴ・ソングについてこのことは以前書きました。日本の演歌、たとえばわさみんこと岩佐美咲の歌の世界だってそうなんですよ。あなたのためならこの命さしだすわとか、この手のセリフが多いですからね。これはわさみんだけじゃなく演歌全般について言えることです。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-48535c.html

 

わさみんの歌った曲なら、非現実性がもっとも激しいのは、たぶん「無人駅」「鞆の浦慕情」「佐渡の鬼太鼓」や、カヴァー曲だと「北の螢」(森進一)「風の盆恋唄」(石川さゆり)「旅愁」(西崎みどり)「恋の奴隷」(奥村チヨ)「飛んでイスタンブール」(庄野真代)「20歳のめぐり逢い」(シグナル)あたりでしょうか。

 

これらのうち最後の三曲は演歌とは言えないでしょう。でもあまりそこを区別しすぎても意味がないので、今日はとりあえずそれらも念頭に置くことにします。わさみんも歯の浮くような浮世離れした歌詞と抑揚の激しいドラマティックなメロディをわりとたくさん歌っているわけですよ。本人のブログや Twitter など見ていると、ふだんはきわめて卑近な日常生活感あふるる24歳(2020年1月27日時点)ですから、やはり仕事は仕事と割り切ってとりくんでいるのでしょう。

 

また、わさみんの歌う歌詞やメロディなど音楽的には現実離れしていますが、制作面から見れば、豪華な生演奏オーケストラなんかぜんぜん使わず(2016年のファースト・ソロ・コンサートで起用したその一回だけ)、すべて代用の鍵盤シンセサイザーやプログラミングでまかなうっていう、ライヴならカラオケっていう、とことん現実的な貧乏路線で行っていますけどね。そこはいかにも不況下の音楽業界らしいところなんです。

 

それはおいといて、演歌など歌の世界が歌詞面でもメロディ面でも非日常的で現実離れしていて、ときどきかなりドラマティックで夢のようである、激しい、というのは、しかしぼくのような人間にとっては楽しいことなんですよ。ぼくはいつも妄想していますからね。それでかなりいい気分にひたって、それでなんとか毎日生きているわけです。ぼくにとってはそういったフィクションが人生に必要なんです。

 

以前くわしく書きましたが、アスペルガー症候群という障害をぼくは持っています。現実の人生での人間関係はいっさいうまくいかないんです、ダメなんです。最近はすべてをあきらめるようになっていて、絶望、というとことばがあれですけど、まあそんな感じです。しょうがないんですよ、そういう人間に生まれついたんですから。アスペルガーの人間はたぶんみんなそうです。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-bc2c68.html

 

だけど、それじゃあ生きていけない。なにか人生における人間関係以外の癒しが必要です。それが激しく楽しくて、(現実がダメだから)出会うフィクション世界が現実離れしていればしているほど、しらけたりせず、楽しい気分というか妄想というか、それにひたって癒されるんですよね。ティン・パン・アリーや演歌の世界など、現実世界ではありえないような恋愛模様こそ、楽しいんです。それこそが(非現実だけど)ある意味ぼくにとっての「現実」「リアル」なんですね。

 

わかっていただけるでしょうか?いや、わかっていただけなくとも、ぼくはそうやって生きてきたし、今後もそういう人生を送るでしょう。2017年に出会ったわさみんこと岩佐美咲の歌の世界も、ぼくにとってはそういう非日常的なフィクションとして大きな救いになっているわけなんですね。しかもわさみんのばあいは「会いに行ける(元)アイドル」でしょう、ここも肝心な点です。非現実的な演歌世界を歌いこなすわさみん本人には、現実に会えて、握手したりおしゃべりできるっていう、ここがだから麻薬的なんですね。リアリティのないフィクションの担い手にはリアルで会えるっていう。

 

なんなんでしょうね、この構造。これがですね、日常の生活感覚満点のリアルな歌を歌う歌手たちにリアルで会えてもこんなうれしい気分にはたぶんならないと思うんですね。じゃあリアリティのない演歌世界を歌うわさみんにリアルで会えて、あたかもそのフィクションが実現したかのような、そんな心持ちにひたって満足しているのか?というとそれはまったく違います。会える本人は本人、歌の世界はそれでまた別だと、おしゃべりしながらも認識できています。

 

このあたりのちょっと複雑な二重システムが、ティン・パン・アリーや演歌界など、歌という虚構の世界の存立にかかわる重大時なんじゃないかと、ぼくはぼんやりと感じとっています。というかうっすらこころににじんできているだけで、中村とうようさんみたいにちゃんと論理の筋道を立ててわかりやすく説明することはまだできません。とにかく、リアリティや現実味の薄い、絵空事みたいな内容の歌は、リアリティがないんだけどだからこそ、フィクションとしてはリアルに成立するんじゃないですか。

 

わさみんこと岩佐美咲の歌(やティン・パン・アリーのソングブック)を聴いて、そんなことを考えました。

 

(written 2020.1.27)

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