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2021年1月

2021/01/31

日本歌謡界初のLGBTQソング「憧れて」

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(5 min read)

 

浜圭介 / 憧れて

https://open.spotify.com/album/5zGOmijcWZ0SQL1pAyzNaj?si=bR7WDjsWTx2trZqrQeZ8jw

 

2021年1月27日に発売された浜圭介のシングル「憧れて」。湯川れい子作詞、浜圭介作曲というベテラン・コンビの楽曲を、歌手でもある浜自身が歌っているんですが、これは日本歌謡史上初の鮮明で明快なLGBTQソングと言っていいでしょうね。

 

聴けばおわかりのように、「憧れて」は男性同性愛者に題材をとったゲイ・ソングです。作者の湯川さんご自身がトランスジェンダーの男の子のことを書いたとおっしゃっているのであれですけれども、ゲイ・ソングではないかとの指摘にも、微妙に違います、とおっしゃってはいますけど、これはどう聴いてもトランスではなくゲイの歌でしょう。

 

いままで日本歌謡界にLGBTQソングがなかったかというと、まったくなかったわけじゃないと思います。解釈次第でそういうふうに受けとれる歌はいくつもあったし、アメリカン・ポピュラー・ソングの世界なんかでは特にめずらしくもない領域になってきていますよね。

 

でもここまで作者自身もはっきり意識して、はじめからセクシャル・マイノリティの歌をそのつもりで歌詞にもはっきり出して書き、歌手もそれを理解して歌った、それが発売された、テレビ歌番組などでもそれを打ち出して堂々と披露されているというのは、日本歌謡界では正真正銘初の快挙でしょう。歓迎したいと思います。

 

思えば日本歌謡はセクシャル・マイノリティの世界にいままでずいぶん冷たかったでしょう。セクマイ歌手がいるにはいたものの、鮮明なセクマイ・ソングやそれをはっきり打ち出した共感歌と言えるものはほとんどなく、旧態依然で古色蒼然たるステレオタイプな男女間の恋愛や家族観ばかり扱われてきました。

 

歌謡曲やJ-POPもそうだけど、特に演歌の世界がひどかったなぁと思うんです。どうしてここまで?と思うほど演歌の世界は旧来的で、もはやそのままではいまの時代にあわないよ、これじゃあ廃れてしまうのも当然だと、演歌ファンでもあるだけにぼくは歯痒い思いをしてきたというのが事実。

 

今回の新曲「憧れて」を聴けば、男性が男性の先輩に恋焦がれているという点を除けば、全体的な内容はいままでにたくさん歌われてきた従来的な片想いソングの数々と大きく変わらないじゃないかということに気づくかたもいらっしゃるはず。そう、そうなんです、性別のいかんにかかわらず、異性愛であれ同性愛であれ、だれかを好きになって胸が苦しいという気持ちは同じなんですよね。

 

社会ではそれが同性間であるばあいにかぎって受け入れられずにきました。愛のかたちはなにも変わらないのに。でも21世紀になりセクシャル・マイノリティの存在や問題意識が共有されつつある現在、「憧れて」のようなハッキリした歌が誕生するのは当然の流れだったように思えます。同性間でもこういった切ない片想いの世界は日常的にあるんだということを、この歌を聴いた大勢のみなさんに受け入れてもらえればと、心から願っています。

 

ほんとうだったらセクマイ当事者の男性歌手とか、だれか若い新人男性歌手が歌うためにと、湯川さんご自身がいわゆる “詞先” だったとおっしゃるこの「憧れて」は当初そういう意図で書いて浜さんに託したんだそうです。それがなかなか実現せず、そりゃむずかしいのはわかりますよね。しかし曲を書いた浜さんが惚れ込んで、それなら自分で歌うよということになり、ようやくかたちになったんだそうですよ。

 

歌は、時代や社会のさきがけとなり、それを変えるきっかけにもなってきたという歴史の事実があると思います。歌謡界のみならず日本社会でもまだまだ肩身の狭い苦しい思いをしているLGBTQがすこしでも生きやすい日々がはやく来るといいなと、いままでこの問題に関心を持たず目を向けてこなかったみなさんにもぜひ聴いていただきたいなと、特にいままでセクマイ・ソングが一曲も存在しなかった演歌界に一石を投じたという意義は大きいと言えるでしょう。

 

LGBTQの権利拡大というか社会での平等化に向けて、この歌「憧れて」が新時代のブレイクスルーになってほしいと、ほんとうにそう願っています。

 

(written 2021.1.30)

2021/01/30

ロニー・バロン『ブルー・デリカシーズ Vol.1』のレコードを買ったころ

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(6 min read)

 

Ronnie Barron / Blue Delicacies Vol.1

https://open.spotify.com/album/2nYZXY1psaNXbXMxtpEjfi?si=1u82OaDbT4KWKmZ0FC12kQ

 

きのう書いたベターデイズでロニー・バロンのアルバムを聴きなおしたくなって、『ブルー・デリカシーズ Vol.1』(1979)をSpotifyでさがしたらありました。前はなかったよねえ、いつのまに?上に出したジャケットは1981年の日本盤のもの(ヴィヴィド盤)です。オリジナル・ジャケは下↓みたいですね。Spotifyもそれを使っています。

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しかしですね、このレコードは完璧にジャケ買いだったんですから、上のやつじゃないと個人的にピンと来ないんですよね。雰囲気が出ません、聴いたという気がしません。オリジナルじゃない日本盤のものであるとはいえ、こりゃどう見てもオリジナルよりいいですよねえ…、というのは惚れたひいき目かなあ。

 

ロニーの『ブルー・デリカシーズ Vol.1』のことは、以前二度くわしく書いたんですけれども、それはそれとして、いまの気分を記しておきましょう。このブログは決して新作紹介ブログじゃないですから、好きでたまらないものは、なんど書いてもいいんです。

 

ところでぼくが1981年にレコード・ショップ店頭でヴィヴィド盤『ブルー・デリカシーズ Vol.1』を手にとったとき、ジャケット・デザイン以外でちょっと目にとまったのは帯に書いてある字句でした。上掲画像を指でピンチ・アップしてみなさんもどうかごらんください。

 

久保田麻琴さんの推薦文で、「南カリフォルニアの最も重要な隠された秘密、それがロニー・バロンだ。このアルバムでは古典を取り上げているが、その表現のヴィヴィッドさはどうだろう。ライ・クーダーは嫉妬し、デヴィッド・バーンはよだれをたらすことだろう」とあります。

 

1981年当時のぼくはたぶんライ・クーダーもデイヴィッド・バーンも聴いたことなかったと思うんですけど(ライは名前だけ知っていたかも)、なんだかたいへんな推薦盤なんだな、中身がすごいんだなということは想像できますよね。もっとも、久保田麻琴という名前だって初見でしたけどね。

 

ジャケットの魅力に一発KOされたこととあいまって、それでレコードを買って、自宅へ帰って聴いてみたら、中身は最高でしたね。ニュー・オーリンズ・クラシックスといっても、当時はプロフェッサー・ロングヘアとドクター・ジョン(の『ガンボ』)くらいしか知りませんでしたから、そこはピンと来なかったんですけど。

 

でもロニー・バロンのピアノも歌もいいですよね。特に歌、というかヴォーカル表現、もっと言えば一曲ごとに、あるいは一つの曲のなかですら、チェインジしていく声色の多彩さです。ちょっとキザったらしくてわざとらしいというか、ケレン味たっぷりなんですけど、そこがぼくの気に入ったところだったんです。

 

そのへんのこと(このアルバムで聴けるロニーのヴォーカル・パフォーマンス)は、以前の記事でわりとくわしく書きましたので、ぜひご一読ください。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-1452.html

 

さて、たとえばドクター・ジョンの『ガンボ』もニュー・オーリンズ・クラシック集で、みんながこのアルバムを道案内にして同地の古典ナンバーの世界に分け入ったように、ぼくがロニー・バロンのこのアルバムでやはりニュー・オーリンズ・クラシックのまた違った古典の世界に入って行ったかというと、そうでもなかったんです。

 

だってね、久保田さんの書いた帯の文句に「古典」とあったからといってもぜんぜん気にしておらず、そもそもだれがオリジナルで、だれがやったいつごろの曲かなんてのもわからなかったですからね。買ったレコードに封入されていたライナーノーツも不親切でした。どこ見りゃわかるのよ?って感じだったかも。

 

ぼくのばあいは、もっと早くに聴いていたドクター・ジョンの『ガンボ』でも、やはり古典の世界には入っていかず、ただそのアルバムを楽しんでいただけでしたからね。ある時期以後、どんどん古いほうへ古いほうへ、オリジナルへ、という志向が強くなった人間なのに、あの当時はそうでもなかったんでしょうね。ジャズだけは例外でしたけど。

 

古典へ古典へと分け入っていくのはジャズの世界だけにしておかないと、教えてくれるひとも情報もない一介の大学生にとって、アメリカ音楽の世界だってあまりにも広大すぎるんだということを、なんとなくぼ〜っと感じとっていたのかもしれないですね。『ガンボ』にしろ『ブルー・デリカシーズ Vol.1』にしろ、収録曲のオリジナルまでちゃんとわかるようになったのは、ここ20年くらいのことです。

 

(written 2020.11.2)

2021/01/29

ベターデイズのライヴ・アルバムが99年に発売されたのがきっかけだった

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(5 min read)

 

Paul Butterfield’s Better Days / Live at Winterland Ballroom

https://open.spotify.com/album/7wiO9iB8r1QKbpnsbaVZIz?si=A3K7pJRfRBS8EPxi9AETGQ

 

1999年、突如発売されたポール・バタフィールズ・ベター・デイズのライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ウィンターランド・ボールルーム』。なにを隠そう、これがぼくのベターデイズ初体験となったものでした。1970年代前半のああいったスタジオ作品は、これをきっかけに踏み込んだものだったんですね。

 

いまでも鮮明に憶えていますが、1999年といえばぼくはNifty-Serveのパソコン通信に夢中だった時期。いりびたっていた音楽会議室で、この『ライヴ・アット・ウィンターランド・ボールルーム』の話題になったんですよね。そりゃあ発売されたばかりでしたから。

 

るーべん(佐野ひろし)さんはじめ話題にしていたみなさんは、間違いなく1970年代のベターデイズのオリジナル・アルバムから聴いていてずっとファンだったひとたちだったんでしょう。それではじめて世に出たベターデイズのライヴということで、パソ通の音楽会議室はおおいに盛り上がっていたんです。

 

そんなわけで会議室の一員だったぼくも意識することとなり、それでCDを買って聴いてみたというわけです。ジャケットの雰囲気もなかなかいいなあと思って。聴いてみたら、いきなり1曲目「カントリーサイド」の出だしでバタフィールドのハーモニカがぶわ〜っと炸裂するところで完全に参ってしまって。その勢いで最後まで聴いてしまいました。

 

バタフィールドのバンドなんだし、ハーモニカがいちばん目立つというのは当然ですよね。いま聴きかえすと、それ以上に印象に残るのはバンドの演奏力の高さです。これ、ライヴ後の処理やオーヴァー・ダブなんかもなしの、ライヴ一発一回性の演奏でしょう、それでこれだけ完成されているというのはすごいことですよ。そこにいまはビックリしています。1973年のライヴですからねえ。

 

特に6曲目「ハイウェイ 28」、7「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラヴ」、8「ヒーズ・ガット・オール・ザ・ウィスキー」の三連発はほんとうに強力。「ハイウェイ 28」終盤でのハーモニカ・ソロとリズム・セクションのうねりとか、「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラヴ」の必殺バラードとエイモス・ギャレットの絶品ギター、長尺「ヒーズ・ガット・オール・ザ・ウィスキー」の後半からのグルーヴ感とか、すごいものがありますよねえ。

 

バンドは全員うまいですが、なかでもぼくの印象に残るのはやっぱりロニー・バロンの鍵盤です。ロニーのことは大学生のころから自身のリーダー・アルバムで親しんでいたし、ドクター・ジョンなんかとも仲良しだとか参加しているアルバムもあったりとか、とにかくニュー・オーリンズの人間で、でも西海岸で活動していたっていうよくあるパターンのこととか、いちおう以前から知ってはいました。

 

ベターデイズはブルーズ・ロック・バンドと言っていいと思いますが、そんなサウンドのなかで躍動するロニー・バロンのピアノやオルガンを聴くのは格別な気持ちですね。一曲だけ、5「ブローク・マイ・ベイビーズ・ハート」でヴォーカルもとっていますが、やはりいい味ですね。そう、ぼくはロニーのことが大学生だったころから大好きなんですよね。

 

ロックを聴く多くのみなさんはたぶんベターデイズで(あるいはドクター・ジョンの『ガンボ』で)ロニー・バロンを知り、その後、ソロ・リーダー・アルバムもあるんだと順番に聴いていったと思うんですけど、ぼくのばあいはこの順序が逆だったわけですね。1999年にこのライヴ・アルバムを聴いたあとは、ベターデイズのスタジオ作もさかのぼって聴き、さらにその前のポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドへ行きました。

 

(written 2020.11.1)

2021/01/28

新幹線っていうこのブラジルのグループ、けっこうおもしろい

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(4 min read)

 

Shinkansen / Shinkansen

https://open.spotify.com/album/1kMca48ag4R1R7Qf8CGVlh?si=ly2Td74dRG-myVV97T48cw

 

シンカンセンっていう、これはブラジルの音楽グループですけど、トニーニョ・オルタ、ジャキス・モレレンバウム、マルコス・スザーノ、リミーニャの四名で編成されているというまさしくスーパー・グループ。

 

常時活動するというよりもこのアルバム『シンカンセン』(2020)を制作・録音するだけの臨時編成だったのでしょうけど、それにしてもジャケットに漢字で「新幹線」って書いてあるし、そのわりには写っているのがSL機関車っていう、なんかヘンなの。

 

新幹線っていうくらいだから、この四人がそれぞれ日本を訪れたときの印象を土台にアルバムを一つ製作しようとなったのは間違いないんでしょう。なかには2曲目「マコト」、8曲目「サヨナラ・エン・ナリタ」などはっきりした日本への言及だろうと推測できる曲名もあります。

 

がしかし、音楽的にどうか?というと、もちろん日本色などはなく、ブラジルのコンテンポラリーなインストルメンタルMPBであるっていう内容ですね。サンバやボサ・ノーヴァが基調になっていたりしますけど、なかにはアメリカ合衆国の西海岸フュージョンを思わせる曲があったり(ブランフォード・マルサリス参加の2曲目)、ジャジーなテイストだって強く香っています。

 

1曲目の「シンカンセン」はトニーニョの曲。爽快なミナスふうメロディで、ビートが入ってきてからはノリのいいMPBになりますね。聴きやすくてとてもいいです。ちょっとサンバっぽいフィーリングがありますかね。LAフュージョンな2曲目(でもちょっぴりサンバっぽいリズム)を経て、3曲目以後、ピアノで坂本龍一が参加したり、トランペットとフリューゲル・ホーンでジェシ・サドッキが参加したりなどしながら、いかにも現代的なブラジリアン・サウンドをつくりあげていますよね。

 

音楽の地域差も大きいブラジルですけれども、このアルバムではそれを感じさせない普遍性を表現しているように思います。5曲目「Mr. デズモンド・サンバ」のこの曲題はひょっとしてポール・デズモンドを意識したものなんでしょうか。音楽的にはあまり関係ないみたいですけど。マルコスのパンデイロが心地いいですね。

 

と思って聴いていると、6曲目でちょっと驚きます。「マラカトゥーズデイ」という、この Maracatu と英語の Tuesday をかけあわせた曲名で暗示されていますように、マラカトゥのリズムを土台にしたちょっと神秘的なナンバーなんですね。マラカトゥはペルナンブーコ州の伝統音楽。アルバム中この曲だけローカル色があるかも。

 

その後はまた汎ブラジル的なMPB路線に戻っているなと聴いていたら、10曲目「クレイジー・ラガ・コンビネイション」でふたたびオッ!となります。ロー・ファイな音像処理も施されたこれは、まったくかのラテン・プレイボーイズ(アメリカ合衆国、ロス・ロボスの別働隊)そのまんまな一曲。

 

ちょっとポップかつファンキーで野太いノリを持つ11曲目を経て、ラスト12曲目「アフリカン・パーティ」は曲名どおり鮮明なアフロ・ブラジリアン・ミュージックで、パーカッションのマルコスが八面六臂の大活躍。やや北東部っぽいかもと思います。

 

(written 2020.12.7)

2021/01/27

ポップでスムースなルイ・ジョーダン 〜 B.B. キング

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(7 min read)

 

B. B. King / Let the Good Times Roll: The Music of Louis Jordan

https://open.spotify.com/album/4ikYbM2TWojqVQzmBeQ31u?si=cUa_tVx_QTCQ17s8VAKVYw

 

たまたまふらりとSpotifyで偶然に出会ったB.B. キングのアルバム『レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール:ザ・ミュージック・オヴ・ルイ・ジョーダン』(1999)。BBにとってのルイ・ジョーダンはまさに憧れの存在で、最大の音楽的影響源。しばしばルイの曲をBBはやっていましたが、1999年になって本格的にトリビュート・アルバムをつくろうということになったのでしょう。

 

このアルバムでとりあげられているのは、やはりルイ・ジョーダンの書いたオリジナル・ナンバーが多いですけれども、そうでない他作曲もルイがやったものばかり。なんらかの意味でルイと関係のある楽曲をBBはカヴァーしたということですね。全盛期だった1940年代だけでなく、ルイの幅広い時期の録音からピック・アップされています。

 

尊敬するアイドルのルイ・ジョーダン曲集というにしては、このアルバムのBBは力が抜けているというか、ずいぶんリラックスして軽〜くやっているという印象です。ギターのほうはあまり弾かず、主にヴォーカルに専念しているのも特徴の一つ。ピアノとヴォーカルでドクター・ジョン、ドラムスでアール・パーマーといったニュー・オーリンズ勢がゲスト参加していたり、かつてのレイ・チャールズ・バンドのホーン・セクションがくわわっていたりするのも目立ちます。

 

アルバム1曲目の「エイント・ノーバディー・ヒア・バット・アス・チキンズ」から演唱は快調。大好きな曲なんで、1曲目に持ってきてくれてうれしいかぎり。それはそうと “Nobody Here But Us Chickens” という定型句、ルイ・ジョーダンのこの1946年のヒットで世間にひろまって定着したものじゃないですかね。表現じたいはもっと前からあったみたいですけど。

 

どの曲もそうなんですけど、BBはルイのジャイヴィ・ジャンプ・ミュージックの濃い味をかなり中和して、そのエグミとかコクみたいなものは薄め、もっとグッと聴きやすいポップ・ミュージックに仕立て上げているなというのが最大の印象です。だから、リスナーによってはこのアルバム、ちょっと物足りないと感じるんじゃないでしょうか。スムース・ブルーズとでもいったらいいか、そんなできあがりですよね。

 

ルイ・ジョーダンは1940年代における最大のヒット・メイカーでありながら、同時にかなり味の強い素っ頓狂な滑稽味みたいなものもあわせ持っていたんで、だからそれがあんなに大ヒットし続けたというのが意外に感じるほどですけど、ロック〜ファンク〜ヒップ・ホップも通過した1999年だったらそのままの濃いエグミを出したままでも通用したんじゃないかと思うんですけどね。

 

でもBBはそうせず、ぐっとアク抜きをしてイージーでスムースで聴きやすいルイ・ジョーダンに変貌させているのは、それが晩年のふだんからのBBの持ち味だったから、ということでしょう。経験と年輪を重ねて丸くなったといいますか、ギター・サウンドもヴォーカルも洗練されたフィーリングになりましたよね。そんなところ、このルイ・ジョーダン集にも表れているなと思います。

 

13曲目の「カルドニア」にしたって、ルイのオリジナルでは「きゃるど〜っにゃ!きゃるど〜っにゃ!」とスットンキョウな叫び声をあげるのが楽しかったのに、ここで聴けるBBヴァージョンではすんなりなめらかに歌うだけで、これじゃあつまんないなあ、ルイの持っていた若者感覚に根差したジャイヴィな味が消えちゃているよ、とか感じないでもなく。

 

そんなスムースなBBに比して、このアルバムで目立っているのは実はドクター・ジョンの活躍ぶりですね。2曲目ではヴォーカルもデュオで披露しているくらいですが、ほかの曲でのピアノ演奏ぶりも闊達。コロコロと鈴のように転がるニュー・オーリンズ・スタイル全開で、BBの歌だけ聴いていても自然と耳にとまってくる、ハッとする、そんなピアノをドクター・ジョンは弾いています。

 

やっぱり主役はBBですけど、脇役ながらメイン級の活躍をドクター・ジョンは聴かせてくれているなと、このピアニストの大ファンであるぼくなんかはうれしいところです。たとえば8曲目の「アーリー・イン・ザ・モーニング」。ルイ・ジョーダンのやったヴァージョンからしてかなりカリブ/ラテン風味が強かったものですが、BBはそれをやっぱりかなり薄めて、それでもちょっぴりラテン微香ただよわせるといった内容にしています。

 

ところがドクター・ジョンのピアノだけは完璧ニュー・オーリンズ・スタイルのシンコペイティッド・スタイルで弾いていて、この曲のカリビアン・テイストを強化する最大要因になっているんですね。思えばルイ・ジョーダンはキャリア初期から最後までカリブ音楽香味を得意としたひとでした。図らずもこのBBヴァージョンではドクター・ジョンがそれを受け継いでくれていますよね。さすがはニュー・オーリンズ人。

 

あれっ、BBの話なのかドクター・ジョンの話かわからなくなりましたが、アルバム全体はやっぱりポップでスムースで聴きやすく、悪く言えばまったく食い足りないルイ・ジョーダン集。ときどきBGMとしてイージーに流すにはグッド、といった程度のものかもしれません。ルイの書いた曲は楽しいし大好きだから、あっさり味でもじゅうぶん聴けるっていう、そういったものですかね。

 

(written 2020.10.31)

2021/01/26

スタンリー・タレンタインの「マイ・シップ」〜『ジュビリー・シャウト!!!』

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Stanley Turrentine / Jubilee Shout!!!

https://open.spotify.com/album/2CGSc6ZbHcGWjWYl07KCd4?si=Gt-qAciDRDmmWzPZbzRwPg

 

こないだなにかのきっかけでふらりと通り過ぎたスタンリー・タレンタインのアルバム『ジュビリー・シャウト!!!』。録音されたのは1962年ですが、当時は発売されず。日の目を見たのは1986年のことです。Spotifyので見る6曲目までがオリジナル・アルバム分。

 

ぼくが気になったのは、きっと2曲目で「マイ・シップ」をやっているからでしょうね。クルト・ワイルの書いたこの曲、もうほんとうに大好きで、そのきっかけはマイルズ・デイヴィス+ギル・エヴァンズの『マイルズ・アヘッド』(1957)に収録されているヴァージョン。ほんとうにすっごくきれいなんですよ。
https://open.spotify.com/track/7fDzQMMq9Y91UMvICmYNUK?si=9WPsWqJqQyOvs8w0UOXYJg

 

それで「マイ・シップ」という曲そのものが大好きになってしまったわけで、歌手やジャズ演奏家がやっていたりするともれなく聴いてしまうっていう、そんな愛聴曲だから、スタンリー・タレンタインがやるとどうなるのか?っていう興味で『ジュビリー・シャウト!!!』も聴いたと思います。

 

はたしてスタンリー・タレンタインのやる「マイ・シップ」は、というと、イントロとアウトロでやはりアレンジが付与されていますけど、これはピアノで参加しているソニー・クラークのペンになるものじゃないかという気がします。若干エキゾティックに響かないでもない雰囲気ですね。ギルも踏襲したオリジナル・ヴァージョンのそれを意識した感じがします。

 

冒頭それに続いて出るスタンリーのテナー・サックスは、フェイクせずストレートに「マイ・シップ」のメロディを歌っていますよね。好印象。こういった美しい旋律は手をくわえないほうがいいんですよね。それにしてもきれいなメロディだなあ、この曲。だれが演奏してもそう感じますから、やっぱりもとからいいんですね。いやあ。

 

スタンリーがワン・コーラスのメロディ吹奏をきれいに決めたあとは、ケニー・バレルのギター、トミー・タレンタインのミュート・トランペットと、短めのソロが続きますが、どこまでもこの雰囲気をこわさないようにと配慮しているのがうかがえますね。そのままふたたびスタンリーのテーマ吹奏となって、イントロと同様のアウトロになります。うん、このヴァージョンもきれいでした。

 

アルバムのほかの曲は、やっぱりスタンリーらしいファンキーで泥くさいブルーズ・チューンが中心になっているようです。1曲目「ジュビリー・シャウト」も一部ラテン・リズムを使い4ビートと行き来させているブルーズ・ナンバー。同じく10分以上もある5曲目「コットン・ウォーク」はダウン・ホームなスロー・ブルーズです。

 

大勢のリスナーのみなさんにとってはそれらこそこのアルバムでの聴きものということになりそうですね。そのほかの曲もふくめ、ファンキーなソウル・ジャズ・グルーヴと言っていい内容で、いかにも1960年代のスタンリー・タレンタインだけあるっていう作品です。

 

「マイ・シップ」以外で個人的に耳を惹かれるのは、オリジナル・アルバム・ラストだった6曲目のバラード「リトル・ガール・ブルー」。ロック歌手ジャニス・ジョップリンも歌ったかわいいスタンダードですが、ここでのスタンリーは都会のアダルトな夜の雰囲気満点でムーディーに吹いているのが印象的ですね。

 

(written 2020.10.30)

2021/01/25

ピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック

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Fleetwood Mac / Fleetwood Mac (1968)

https://open.spotify.com/album/4gJDG1h0eFxWeYIVJsT8ks?si=4bUjFScSTfCeJTijULfvjw

 

英国のロック・バンド、フリートウッド・マックにかんしては、ピーター・グリーンが在籍していたブルーズ・ロック・バンド時代のことにしか興味ないんですけど、そのころのフリートウッド・マックのことはほんとうに大好きなんですね。

 

なかでも最高だと思っているのがデビュー・アルバム『フリートウッド・マック』(1967年録音68年発売)。しかしこれもSpotifyにはオリジナル・アルバムどおりのがないんですね。拡大版だけ。もとのレコードは12曲目の「ガット・トゥ・ムーヴ」まで。上にジャケット写真を出したのはリイシューもの。

 

このアルバムのころのフリートウッド・マックはほんとうにストレートなブルーズ・ロック・バンドで、1968年の作品ですから、UKブルーズ・ロック・ムーヴメントにあってはちょっと先駆け的なポジションだったかもしれませんね。その後、ジェフ・ベック・グループやレッド・ツェッペリンなど有名バンドがいくつもデビューしました。

 

ご存知ないかたも聴いていただければそのサウンドで納得できると思いますが、この独特のザラっとした質感のギター・サウンド、それこそがピーター・グリーン時代のフリートウッド・マックの特徴です。鍵盤専門奏者がおらず、2ギター(ヴォーカル兼任)+ベース+ドラムスだけっていうシンプルさなんですが、ファットでリッチな響きをしているのもおもしろいところですね。

 

実際、このアルバムでもピアノなど鍵盤楽器はほとんどゼロに等しくて、もっぱらギター・サウンドで組み立てたブルーズ・ロックなのが大好きなんですね。レパートリーはアメリカ黒人ブルーズ歌手がやった有名曲とマックのオリジナルとが半々くらいかな、でもオリジナル・ソングもまったく米黒人ブルーズ・ソングそのまんまのスタイル。

 

オリジナルだって、聴けばハウリン・ウルフとかエルモア・ジェイムズとかオーティス・ラッシュを想起させる部分も大きいこのアルバム、じゃあマックのオリジナリティは?と問われると思わずちょっと口ごもっちゃいますけど、1967/68年当時、英国で、白人が、これだけ真摯にストレート・ブルーズを追求したんだっていうひとつの記録ではありますよね。やっぱりブルーズ・ミュージックとはならずにブルーズ・ロックになっているのは彼ららしいところ。ピーター・グリーンとジェレミー・スペンサーのツイン・ギター・サウンドが快感でしょう。

 

(written 2020.10.29)

2021/01/24

あのころのオリヴェッティはいまのiPhoneだった

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(8 min read)

 

オリヴェッティ(Olivetti)というイタリアのタイプライター・メーカー。いまはパソコンなどつくっているのかもしれませんが、よく知りません。ぼくのなかでは英文タイプライター機のイメージしかない会社です。

 

どうしてイタリアのメーカーが英文タイプライターをつくっていたのかも知らず。ただたんに中学生のときからこの会社のタイプライターを個人的にずっと愛用していたわけで、それで憶えているだけなんです。オリヴェッティのレッテラ・ブラックという手動式のポータブル機種を。

 

どうしてオリヴェッティのレッテラ・ブラックを使っていたのかというと、ぼくの世代の日本人は多くのばあい中学に進学すると同時に英語を習いはじめますけど、それでぼくがタイプライターをほしがったか、あるいは教育熱心だった父親がみずからすすんで買い与えたか、どっちかだったんでしょう。中学一年生か二年生のときだったはず。

 

ぼくは買いものにはついていかず、自宅にいたらある日突然、父がレッテラ・ブラックを抱えて帰ってきたんです。それにしても父は松山市街のどこで、どうして、イタリア製のタイプライターを買ったんでしょう?ブラザーなど日本のメーカーもタイプライターをつくっていましたのに。

 

そこらへんはもうなにもわかりませんが、オリヴェッティのポータブル・タイプライターは機能的に過不足ないばかりか、ルックスもスマートでおしゃれでした。いまもパソコンやスマホ、タプレットなどApple製品しか使わないっていう、マシンに対するぼくのデザイン重視志向は、中学生のころからオリヴェッティのタイプ愛用で養われたものだったかもしれません。1970年代のオリヴェッティは2010年代のiPhoneだったと言えるかもですね。

 

オリヴェッティのタイプライターが機能的にもデザイン的にもすぐれていたというのは、高校生になってESS(英会話部)の部室に頻繁に入りびたるようになって実感しはじめたことです。ESSの部室には三台か四台のメーカーの異なるタイプライターが常備されてあって、みんながヒマなときに打って遊んでいましたからね。

 

ぼくはといえば、中学のときから英文タイプライターを愛用していたおかげで、高校に上がるころにはQWERTY配列の英文字キーだったら見なくてもタッチ・タイピングできるようになっていました。ESSの部員(ぼくは部員じゃなくて、よく遊びに行っていただけ)のなかにはそういうひとがわりといましたね。

 

一定の英語の文章をどれだけ速くどれだけ正確にタイプライターで書写できるかを複数人で競ったりなどもESSの部室でよくやっていて、そんなこともあって、中学のころに基礎ができたぼくの英文タイプの腕前は、高校生のときにほぼ完成されたとして過言ではありません。

 

大学の英文学科に進学し、すると(どうしてだか)英文科では卒業論文を英語で書くんですけど(あれはホントなんで?仏文科がフランス語で、独文科がドイツ語で、なんて聞きませんけどねえ)、提出する卒論の完成品はタイプライターで書かなくちゃということになっていて、しかしぼくのばあいは、だからそれにはまったく手こずりませんでした。英文科でも学生みんながタイピングに習熟していたわけではなかったのですけど。

 

大学院に進学しての修士論文も、上京の際当然のように肌身離さず持参したオリヴェッティのレッテラ・ブラックで書き、そもそもぼくのばあい最初段階のメモや草稿からしてはじめからぜんぶタイプライターで書いていたんですね。英文にかんしては手書き感覚とほぼ違わないようになっていましたから。

 

以前書きましたように博士課程に進学したらワープロ機を買いましたから、それからはタイプライターの出番が徐々に減っていったんですけど、それでもディスプレイを見ながら打ち、確認してから印刷する、というプロセスを経ないで、タイプしたものがそのままダイレクトに紙に出てくるタイプライターのほうが感覚的にわかりやすいし使いやすいと思って、学生のころはまだときどき使っていました。

 

ワープロ機を買ってもパソコンを使うようになってからも、ぼくが英語はもちろん日本語もQWERTY配列のキーボードでローマ字入力する癖がはじめからすっかり身についていて、迅速&正確にタイピングできるのは、中高大生時代のオリヴェッティ体験のおかげです。記号類の並びがメーカーによって少し異なりますので、そこはあれですけども。MacとiPhoneとiPadでも違っているという、あれはなんでだ?Appleさん?

 

QWERTY配列のキーボードがあまりにも指になじみすぎて手書き感覚になっているせいで、スマホやタブレットなどでのソフトウェア・キーボードでもそれで入力している現在のぼく。スマホとかだと12キーによるフリック入力のほうが圧倒的にラクだし速いんだとみなさんに勧められ試してみたものの、ぼくのばあいQWERTY配列での入力のほうに親しみすぎていて。

 

人前にてiPhoneで日本語を入力していると、ときたま見ているかたにビックリされることもありますね。英文字、英文を入力する機会はいまでも多いので、同じ並びのキーボードを切り替えずそのまま使えるというのは、ぼくのなかでは、皮膚感覚的にとても大切なことです。

 

オリヴェッティのレッテラ・ブラックについては、都立大学英文学研究室の助手だったころ、(もとはシェイクスピアが専門で)アフリカ文学研究者の、当時は助教授だった福島富士男さんが、ワープロ機はめんどくさい、短い手紙程度だと(ダイレクトだから)タイプライターがいいんだけどもうあまり売ってなくて買いにくくなっている、戸嶋持ってないのか?とおっしゃるので、使用頻度激減だったぼくは躊躇なくさしあげました。

 

いまではもはや紙にアウトプットするということがなくなって、そもそも紙の使用は削減したい、なるべく紙類は使わないようにしたいというのが個人的感覚(社会的にもそうなりつつあるでしょう)ですから、一度もフィジカル出力せずデジタルのままで最後まで処理できるパソコンやスマホに頼りっきりです。

 

(written 2020.9.19)

2021/01/23

ギリシアのペニー・バルタッツィ、ソロ作ではバルカンふうながらも、ラテン・テイストがいい

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(3 min read)

 

Penny Baltatzi / Ena Fili

https://open.spotify.com/album/5kxTXI8L6LlnEN1k1VXACu?si=O404Ov4nRmqIXhnFqmSBag

 

ペニー・バルタッツィという読みでいいんでしょうか、Penny Baltatzi、ギリシアの歌手です。そのソロ・デビュー作『Ena Fili』(2019)がなかなかいいですよね。ペニーはペニー&スウィンギン・キャッツのリード・ヴォーカルとして活躍していた(いる?)歌手です。

 

ソロ作『Ena Fili』では、やっぱりオールド・タイミーなジャジー・ポップスを踏まえながらも、もっとグッとギリシア〜バルカン色をただよわせる音楽をやっているかなと思います。1曲目からそれはあきらかじゃないでしょうか。エレキ・ギターも使うものの、アクースティックな楽器を中心に、バルカン・ブラスふうなホーン・セクションも交えながら、独特の哀感をペニーがつづります。

 

それでもバルカン的情緒がさほど濃厚に出ているわけではなく、もっとポップな方向性のなかでそれはそこはかとなくただよっているっていうのがペニーらしいところなんでしょう。そんなところ、2〜6曲目でもわりとはっきり出ていると思います。3、5曲目あたりはホーン陣、特に低音の、これはチューバかスーザフォンか、を中心に進むアンサンブルがいかにもなバルカンふう。

 

しかしそんな雰囲気が7曲目のアルバム・タイトル・チューン「Ena Fili」で一変します。ここからラストまでの三曲にギリシア/バルカンふうなところはまったくなく、陽気でポップなラテン・ミュージックを展開しているんですよね。まるでアルバムがぷっつりと二分されていますけど、このラスト三曲のラテン音楽(いや、7曲目だけかもだけど)は、ぼく、大好きですね。

 

7曲目はチャチャチャ。ここでアンサンブルを聴かせているホーン・セクションはたぶん6曲目までと同じメンバーなんじゃないかと思いますけど、しかし雰囲気がもうぜんぜん違っていますよね。7曲目ではトランペット・ソロもキューバ音楽スタイルで、楽しいったら楽しいな。このチャチャチャのリズムがいいですよね。ペニーのヴォーカルも軽快。

 

8、9曲目にラテン・テイストはあまりありませんが、バルカンふうなところだってちっともなく、どっちかというとユニヴァーサルなポップスになっているかなと思います。ペニー&スウィンギン・キャッツでのああいった雰囲気を出しているのはこれら7〜9曲目で、6曲目までのバルカン路線と齟齬がある感じすらしますが、どっちもペニーの味なんでしょう。

 

(written 2020.12.2)

2021/01/22

ターキッシュ・サイケ・ジャズ・ファンク?〜 スヴェン・ワンダー

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(4 min read)

 

Sven Wunder / Eastern Flowers

https://open.spotify.com/album/1Z821RvawUQZ5ExkogGKCU?si=GcGiPzbNQTqrQgoueeodBA

 

スヴェン・ワンダー(Sven Wunder)はスウェーデンの音楽家らしいんですけど、なにしろネットで調べてもほとんど情報がない謎の存在なんですよね。そのファースト・アルバム『イースタン・フラワーズ』(2020)のめくるめく世界に幻惑されてしまいました。

 

『Eastern Flowers』は、スヴェンが地元スウェーデンで2019年にひっそりとリリースしていたデビュー作『Doğu Çiçekleri』を、そのまま世界デビューさせたものだとのこと。

 

ヨーロッパから見たときのイースタンということですからもちろんアジア地域のことで、アルバム『イースタン・フラワーズ』には、ジャズ・ファンクやサイケ・ロックを媒介に、中近東・西アジア地域を思わせるメロディがちりばめられています。

 

ところで、ヨーロッパから見て東だからイーストとかオリエントになるというわけですが、日本からしたら西方なんで、だから前段でも西アジアと言いましたが、このへんは相対的な表現でしかないので、ぼくら日本人がかならずしもイーストとか東方、中近東と言わなくてもいいよなぁと思わないでもありません。地球をぐるっとまわれば西も東もないわけで。西側諸国という表現だって実はおかしいでしょう。

 

それはいいとして。使用楽器も、モダンなジャズやロックで使われるドラムス、ベース、ギター、キーボードを軸としながらも、そこにウード、サズ、シタールなど、アジア系の弦楽器を混ぜ込んで、しかもそれら弦楽器はすべて強く電化アンプリファイドしてあるという具合です。

 

メインはサズみたいですね。だいたいどの曲でも旋律を奏でるのがサズで、しかもエレキ・サズ。ここまで電化してエフェクトもかけちゃうと、はっきりいってエレキ・ギターと区別つかないよ、とちょっと聴いていて思ってしまいますが、じっくり耳を傾けると、独特のエキゾ風味を感じられるでしょう。

 

そう、エキゾ。このことばこそこのアルバムの音楽やスヴェンの姿勢を的確に表現したものでしょう。特に電化サズをメインに使っているということでトルコ方面のテイストを中軸として音楽を組み立てているのかなと思いますが、スウェーデン人が感じるちょっとしたエキゾティック・テイスト、異国情緒をそのまま具現化した音楽のように思います。

 

だから、言ってみればモンド・ミュージックの世界っていうか、インチキ・ワールド・ミュージックとでもいうか、トルコとか西アジア地域の音楽がなんとなく魅惑的だなぁ異だなぁってスヴェンも感じているんでしょう、そのエキゾ感覚をそのまま活かして作品化しているように思えますね。

 

だからあまりマジな気分で聴かなくてもいいですし、なんとなくBGM的に部屋のなかで流して、それでたぶんぼくら日本人が聴いても(西東が逆になるけど)エキゾティックだなと感じる要素満載ですから、それであぁおもしろい〜って、そんな軽い気分にひたっていればそれでOKっていう、そんな音楽じゃないでしょうかね。

 

世のなかには「辺境」「辺境音楽」とかっていうことばを好んで使うひとたちが一定数いますよね。そんなメンタリティをぼくは心底軽蔑していますけど、スヴェン・ワンダーのこの『イースタン・フラワーズ』なんかはまさにそんな辺境テイストに満ち満ちた音楽だなあ、そっち方面でもてはやされそうだなあって、そう思います。

 

(written 2020.11.30)

2021/01/21

ファビオ・ペロンの2015年作、けっこう楽しい

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Fábio Peron / Fábio Peron e a Confraria do Som

https://open.spotify.com/album/3Z7XuPFsCr4qpYTRatgkZW?si=6bRjfIb0SEG749hecVLVZA

 

ブラジルのバンドリン奏者ファビオ・ペロン。以前、2016年の『Affinidades』について記事にしたことがありますが、その前作、2015年の『Fábio Peron e a Confraria do Som』のことがけっこう好きなんですよね。だれひとり話題にしていないというか、言及していてもイマイチな作品っていう見方ですけれども、なかなかどうして、楽しいアルバムだと感じています。

 

ショーロなのかジャズなのかよくわからない、ショーロ・バンドリン奏者にしてこの2015年作ではけっこうジャジーなアプローチも聴かせているということと、曲ごとにメンバーを替えて多彩なゲスト・ミュージシャンを招きすぎているというのと、この二つで印象がぼやけてしまうというのが、そういったイマイチ評価の原因じゃないかと思うんですが、ぼくに言わせたらその二点こそこのアルバムの楽しさです。

 

特に多彩なゲストをどんどん参加させているというところ。個人的にはこういった、なんというかごちゃごちゃのおもちゃ箱をひっくりかえしたようなアルバムがむかしから大好きで、ずっと前にLP二枚組偏愛主義ということを書きましたが、つまりそういうことなんです。ビートルズの『ワイト・アルバム』、ローリング・ストーンズの『エクサイル・オン・メイン・ストリート』、レッド・ツェッペリン『フィジカル・グラフィティ』、プリンス『サイン・オ・ザ・タイムズ』などなど、どれも雑多なごった煮状態で焦点が定まりませんが、そういうのが好きなんだからしょうがないです。

 

あっちこっちとひっくり返しながら聴ける、そのたびに違ったおもしろさがあるという、そんな楽しみかたができるなって思うんですね。ファビオ・ペロンのこの2015年作も収録時間一時間越えという長さ、レコードだったら二枚組ですよね。この曲はピアニスト、ここではフルート奏者、こっちではクラリネット、あそこでは7弦ギターリスト、はたまたエレベがフィーチャーされたり、あるいはドラムスが入ってジャズ・コンボみたいになったりと、楽しさ満載で飽きさせません。

 

ジャジーな演奏スタイルだってけっこう聴けますし、一曲だけミナスふうなヴォーカルが入るMPBっぽいものがあったりして。それでもぼくはやっぱりしっとりとメロディーを歌わせるショーロな演奏が好きですね。フルートとのデュオ中心でやる2曲目、ギターリストとのデュオの6曲目なんかもバンドリンの響き、フレーズの泣きが絶妙です。

 

クラリネット奏者とのデュオの8曲目(ファビオは7弦ギターを弾く)もいいし、ヴァイオリンとギターとのトリオでユーモラス&コケッティシュにやる10曲目も楽しい。ラスト14曲目は、全 3:34 のうち2分過ぎごろからドラムスをふくむバンドが入って猛然とスウィングしはじめますが、そこまでのバンドリン独奏パートがほんとうに美しくって、聴き惚れますよね。

 

(written 2020.10.4)

2021/01/20

パット・マシーニーの『スティル・ライフ』が大好きすぎて

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(6 min read)

 

Pat Metheny Group / Still Life (Talking)

https://open.spotify.com/album/5YnUbwAzrorRuvSJ0sCj7n?si=VPATeRRwTm-MCRctwGrkHA

 

昨年八月末にパット・マシーニー・グループのアルバムをぜんぶ聴きかえすきっかけがあって、記事にもしたわけですが、そのなかでもやっぱりなんど聴いても大好きだ、快感だ、と心から思えるモスト・フェイヴァリットが、やっぱり『スティル・ライフ(トーキング)』(1987)。ふたたびのヘヴィ・ローテイションとなっています。だから、以前も一度しっかり書いたけど、いまの気分をもう一回記しておきたいと思うようになりました。

 

『スティル・ライフ』でなにが好きといって、ぼくにとってはリリカルなメロディ・ラインがすべてじゃないかと思います。それはもちろん演奏前から書かれアレンジされ、しっかり準備されていたものです。たとえば1曲目「ミヌアノ(シックス・エイト)」でも、ヴォーカルとパットのギターとがユニゾンで演奏するテーマ・メロディが、もう美しいなんてもんじゃないと思うんです。絶品な抒情。

 

甘くて切なくて、だいぶ前、このブログではじめてパットのことを書いたときに、パットは感傷こそ持ち味だみたいなことを言ったんですけど、このことはまさにそうだなといまでも思います。そんな部分、ギター・ソロ・パートでもわかるんですが、テーマ・メロディやアンサンブル・パートのアレンジによりよく、わかりやすく、表現されているなと思います。

 

アルバム1曲目「ミヌアノ」のことが、ぼくはもう大好きで大好きで、こういう音楽にこそいつもずっと触れていたいと思うほど、愛しています。ビート感というかリズムも極上だし、ヒューマン・ヴォイスの活用だってすばらしいですよね。最初幽玄なムードではじまって、ビートが効きだしてからシンフォニックに展開するあたりのパットのアレンジ能力には脱帽するしかありません。ギターとヴォイスとのユニゾン・アンサンブルも美しい。

 

2曲目「ソー・メイ・イット・シークレットリー・ビギン」のメロディ・ラインも切なさきわまっていますけど、もっとすごいのが言うまでもなく3曲目の「ラスト・トレイン・ホーム」。エレクトリック・シタール(の音にチューン・アップしたギター・シンセサイザーかも)でつづるこの曲のテーマ・メロディは、いつだれが聴いても「あぁ、切なく美しい」と感銘を受けるものでしょう。大甘でベタすぎて、クサいと感じることすらあるかもですけど、いまのぼくはこういったメロディをそのままストレートに受け入れることのできる人間になりました。

 

「ラスト・トレイン・ホーム」ではテーマをエレキ・シタールのサウンドで弾き終えると、間をおかずそのままソロに入っているのもグッド。その終盤で二名のヴォーカリストによるからみが出て、そのあいだパットは休んでいますけど、そこで思わず感極まって泣きそうになってしまいます。ヴォーカルが引っ込むとふたたびの最終テーマ演奏。いやあ、なんど聴いてもみごとにセンティメンタルで、郷愁をそそるメロディと曲構成ですよね。

 

こういったラインを書き、アレンジし、演奏するというのがパット・マシーニーという音楽家の最大の持ち味に違いない、というか1980年代後半のブラジルはミナス音楽路線のころのパット・マシーニー・グループはそうだったと、ぼくは確信しています。パット個人のソロ・アルバムにはいろんなのがあって、もっと硬質な音楽もやっていますけど、ぼくがいちばん好きなのは『スティル・ライフ』みたいな、こんなにも甘くて切なくて、郷愁をかきたててくれるようなセンティメンタル路線です。

 

そういった傾向は4曲目の、ライル・メイズのピアノ・ソロも抜群な「(イッツ・ジャスト・)トーク」を経て、5曲目の「サード・ウィンド」まで続いています。どの曲でもヒューマン・ヴォイスの活用が効果的で、ほんとうに感心します。ミナス音楽から学んだ部分ですけど、もはやパットの音楽のなかのオリジナリティとして完全に昇華されていますよね。

 

「サード・ウィンド」はジャズとミナス音楽とアフロ・ラテンなリズムとが三位一体となって溶け合った傑作曲。アルバム『スティル・ライフ』のなかではオープニングの「ミヌワノ」とこの「サード・ウィンド」の二曲が抜きん出てすばらしく、中心軸となって作品を支えていますね。「サード・ウィンド」ではパーカッション群も大活躍し、ライルの弾くキーボードとの相乗効果で、みごとな小宇宙を表現しているというのも大きな特色です。この「サード・ウィンド」だけはアルバム中さほどの甘さ、感傷がなく、もっとシビアでハードな感じがします。

 

(written 2020.10.28)

2021/01/19

住民交換前のアナトリア半島にレンベーティカの祖先を見出す 〜 カフェ・アマン・イスタンブル

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(5 min read)

 

Cafe Aman Istanbul / Fasl-ı Rembetiko

https://open.spotify.com/album/3wkQ6UkSOxIQAD0jA9DUmE?si=WVTxXgn8SOyEtwFlbw95DQ

 

カフェ・アマン・イスタンブルというグループというかバンド。2009年結成らしく、ギリシアとトルコのミュージシャンたちのミックスとのことです。その2012年デビュー作(いまだこれしかないはず)『Fasl-ı Rembetiko』を思い出すきっかけがありました。

 

2012年にエル・スールでこのアルバムのCDを買ってなんどか聴いたんですけど、そのときはさほど強い印象を抱かず、そのまま忘れてしまっていたような気がします。こないだ、たまたま偶然Spotifyで遭遇し、あっ、これ見たことあるジャケットだぞ、グループ名も、って再会したというわけです。

 

それで、あのころはイマイチな印象だったけど、ジャケットはずいぶんいいし、ちょっと聴きなおしたらどんな感じかなぁと思って、Spotifyで聴いてみたんです。すると、けっこういいな、楽しい音楽だなと感じましたから、時間が経つと音楽の印象って変わるもんですよ。こういうことがあるから、一、二聴してイマイチだと感じた音楽をすぐに見捨てちゃダメです。

 

カフェ・アマン・イスタンブルのアルバム『Fasl-ı Rembetiko』は、トルコの老舗レーベル、カランからリリースされていますが、バンドの編成はヴォーカル、ヴァイオリン、ブズーキ、ウード、パーカッション、ギター、ベース、カヌーン。それにダンサーが複数名くわわっているそうです。これだけとってもトルコ/ギリシア混成だっていうのがわかりますね。

 

しかし肝心の音楽の中身はというと、トルコ(古典歌謡)とギリシア(レンベーティカ)の折衷というよりも、もっとグッとギリシアのスミルナ派レンベーティカ寄りになっていますよね。バンド人員にトルコ人もいるわけですが、あのころの、つまりオスマン帝国時代には、アナトリア半島にギリシア人コミュニティがあったし、ギリシア音楽ともトルコ音楽とも区別のつきがたい音楽をやっていて、そこにトルコ人も協力していたはずですから。

 

正確には、トルコ領内のギリシア正教徒とギリシア領内のイスラム教徒がいたわけで、希土戦争後の1923年の住民交換で、前者はギリシアに、後者はトルコに、それぞれ送還されました。それ以前の、アナトリア半島内で育まれていたオスマン音楽のなかに、のちのトルコ古典歌謡&ギリシアのレンベーティカの祖型みたいなものが育まれていて、それにかかわったという意味ではトルコ人もギリシア人も同じだったのです(トルコ共和国設立が正確には1924年)。つまりはトルコもギリシアも、オスマン帝国内では同一国家の領土内だったのであって、だから音楽の交流もどんどんあっただろうなと想像できるわけですね。

 

それにしては、カフェ・アマン・イスタンブルの『Fasl-ı Rembetiko』はスミルナ派レンベーティカの色が濃いですが、ギリシアのレンベーティカの故郷というかルーツを、19世紀末〜20世紀初頭のイスタンブルをはじめとするアナトリア半島に見出そうとする試みなのだということでしょう。だから、トルコ歌謡色は薄く、ほぼ全面的にギリシアのレンベーティカ色に染まっているというわけです。

 

こういった音楽、いまのトルコで聴くことはできない、っていうか1923年の住民交換後はアナトリア半島で聴けなくなってしまったわけですけど、文化の歴史というものはそうそう簡単にゼロになったりするものではなく、21世紀になってもカフェ・アマン・イスタンブルのこのアルバムがトルコのカランからリリースされたりするのでもわかるように、いまでも脈づいているものなんでしょうね。

 

(written 2020.10.12)

2021/01/18

快感ファンキー 〜 ルーベン・ウィルスンのソウル・ジャズ

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(3 min read)

 

Reuben Wilson / Blue Mode

https://open.spotify.com/album/0e0wYhumzrbDwoAhhZihs8?si=RaTeKouKQ1Kll5-pNPk5aQ

 

どれかのブルー・ノート・レーベル公式プレイリストで偶然出会ったオルガン奏者、ルーベン・ウィルスン(Reuben Wilson)。ネットでこのひとのことを調べていると、このアルバムが聴きたいぞと思えるものがSpotifyになかったりしてもどかしい思いをしますが、いまのぼくはあきらめるしかないんですね。

 

それで、きょうピック・アップしたのは『ブルー・モード』(1969年録音70年発売)。個人的にジャケット・デザインが好みじゃないですが、中身は文句なしのファンキーなオルガン・ジャズです。オルガン・ソウル・ジャズっていう感じかな。編成はボスのオルガンに、テナー・サックス(ジョン・マニング)、ギター(メルヴィン・スパークス)、ドラムス(トミー・デリック)。

 

ちょうどメンフィス・ファンクでもあるっていうか、たとえば2曲目でエディ・フロイドの「ノック・オン・ウッド」をやっていたりもしますし、そんな感じの音楽でもありますね。ブッカー・T&ザ・MGズみたいな、あんなインストルメンタルをもっとグッと拡大してジャズ寄りにしてっていうような雰囲気。1990年代的にみればレア・グルーヴ的とも言えますね。

 

リズムはどれも16ビートで、ドラマーがファンキーに叩くのが快感ですよねえ。ジョン・マニングのテナー・サックスもたくさんソロを吹きますが、このひとがアルバムでいちばんジャズを感じさせる要素です。うねうねと、まるでジョン・コルトレインみたい、っていうか1969年録音ですからね、トレインの影響は爆大なるものになっていました。

 

そしてそれ以上にメルヴィン・スパークスのギターがぼく好み。箱物ギターの音色ですけど、このギターリストがブルー・ノートのソウル・ジャズ系作品で弾いているものはだいたいどれも好きなんです。カ〜ッコイイじゃないですか。メルヴィンのギター・ソロを聴いている時間はほんとうに快感です、シングル・ノートでびょんびょんってやっているのがマジ気持ちええ。

 

アルバムのなかでは、特に1曲目「バンブー」、4「オレンジ・ピール」、そしてラストのタイトル曲「ブルー・ムード」の三つが超絶グルーヴィで、もうカッコいいったらありゃしない。特に「オレンジ・ピール」ですかね、なんなんですかこのファンキーさは。ボスのオルガンの音色も快感だし、二番手のテナー・サックス・ソロも聴かせるし(ちょっぴりアヴァンギャルドっていうかアトーナル気味にアウトするのもいい)、ギター・ソロがないのだけが残念ですけど、ビートが気持ちよくって。

 

(written 2020.10.11)

2021/01/17

レー・クエンをSpotifyで聴こう

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(5 min read)

 

日本でも(一部で?)熱狂的なファンを持つヴェトナム歌手、レー・クエン(Lệ Quyên)。いつのまにか、Spotifyで主だったアルバムが聴けるようになっています。これはすばらしい。言うことなし。CDがなかったり、持っていてもパッとすぐ聴けるという状態にないばあいなどでも、手軽にパソコンでもスマホでもレー・クエンが聴けるっていう、こんなにうれしいことがありましょうか。

 

思えばレーのアルバムCDを日本で買えるショップは、東のエル・スールと西のプランテーションのみ。個人的にお世話になってきたエル・スールのホーム・ページをいまちょっと覗いてみたら、レーのアルバムはぜんぶ品切れ状態になっています。たぶん、これはもうこのまま、再入荷しないままの状態でおいておくということでしょうけど、CDを固定ファン向けに売り切ったらそれで終わり、っていうんじゃ、あまりにもさびしいですよね。

 

といってもレー・クエンのファンが日本にはたしてどんだけいるのか?100人もいないんじゃないか?っていうような感じかもしれませんが、これほどまでの歌唱力・表現力を誇る恋愛バラード歌手です、ひょっとしたら現在世界最高のバラード歌手かもしれないレー・クエンです、今後も新規ファンを獲得し、ファン層を拡大していく可能性はあるんじゃないでしょうか。いや、そうじゃなくちゃいけません。

 

でも興味を持ったかたが聴くこともできないんでは、入り口にすら立てないではありませんか。レーのCDがいまや日本ではまったく入手不可能なんですから、いつまでもそれにこだわっていてはファンが増える可能性はありません。こんなにもすばらしい歌手、なるべく多くの音楽ファンに聴かれてほしいと思うのはぼくだけ?そんなことないでしょう、ひろく紹介したいでしょう。でもCDはいまや買えない。

 

そんなとき、Spotifyですよ。Apple Musicのほうでも見てみたんですけど、あるにはありますが品数が少ないです。Spotifyでなら、たとえばぼくがレー・クエンに一発で惚れて骨抜きにされてしまった2014年の『Vùng Tóc Nhớ』も聴けます。CDとはカヴァーが違いますけどね。
https://open.spotify.com/album/5lDifyQcZl854oJFaiWJaI?si=P1sdiCriROiheNfCpzeMMA

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いまのところの最新作である(EPっぽい)2019年作と(後半ゲストをどんどん迎えている)これも2019年作の二枚もあるし、
・『”Tình Khôn Nguôi』https://open.spotify.com/album/2orcbXsIhoh34ZG4YLw2SH?si=ZlXNhkw8SResrkJfPID49w
・『Khúc Tình Xúa 5』https://open.spotify.com/album/3LTDAw02F8S3HjkaDHnvZV?si=ndC_CpeHTiWs_gcWnKCEHg

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レーを2011年のヴェトナム旅行で発見し日本に紹介したbunboniさんが最初にエル・スールに持ち帰った『Khúc Tình Xúa』(2011)だってあります。日本のファンにとってはこれが最初のレー・クエンだったはず。
https://open.spotify.com/album/1wVDUWmmUJaGPe60pX3t9h?si=UfZeGp4HQRGj9-JMJrVYcA

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チン・コン・ソンを歌った2018年作『Trịnh Công Sơn』もあるし
https://open.spotify.com/album/7q7gJ6gz8yKanj9tcMff5E?si=ekou8IWTS0CEsWmkfwYgCw

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レーのいままでのところの最高傑作なんじゃないかとぼくは思っている2017年(リリースは2016年)のラム・フォン集『Khúc Tình Xưa - Lam Phương』だってありますよ。このアルバムは、いつも濃厚なレーが、比較的おだやかでクールに抑制されたあっさり風味で歌った内容で、ほんとうにすばらしいんですよね。
https://open.spotify.com/album/6tU12rqkM74LsmPAm5scy0?si=XVZnuI5HTNS4L-jTWs_i0w

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これと同じくらいの傑作であるそれの前作2016年作『Còn Trong Kỷ Niệm』もバッチリSpotifyで聴けます。
https://open.spotify.com/album/0mCM33tzfg0Q3QNo0Cqjdn?si=bi7Od4EFSSuU2YzhaMqs9Q

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そのほか、あれもこれもあるっていう。いやあ、Spotifyできわめて手軽に、ちょちょっとクリック or タップするだけでレー・クエンが聴けちゃっていいんでしょうか。ねえ。うれしすぎてもう涙が出てきそうですよ。みなさんもぜひちょっとSpotifyでレー・クエンをさがしてみてください。だれでもカンタンに聴けるようになっているということで、日本でさらにレーのファンが増えるといいですね。

 

(written 2020.11.7)

2021/01/16

ひばりの最高傑作は「河童ブギウギ」と「上海」である

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(6 min read)

 

https://open.spotify.com/playlist/7JMaSpbTmsPqsISCuV16Wf?si=Gp0Uu2UARyq-GVYlEXu-0w

 

以前からくりかえしていますが、きょうも同じ話です。といいますのも、このへんのことは世間でなかなか認知・理解されていないような気がしてならないからです。

 

美空ひばりの歌はデビュー期に近ければ近いものほど、ぼくは好きですし、実際すぐれていると思います。デビュー曲の「河童ブギウギ」(1949)と最初期のカヴァー「上海」(53)なんか、もう絶品中の絶品ですよね。

 

1937年生まれのひばりのステージ・デビューは47年。翌48年に川田晴久と出会い劇場公演に抜擢されたのがひばり飛躍の大きなきっかけでした。まだロックも演歌も生まれる前、日本でもポピュラー音楽といえばスウィング・ジャズ系の軽快に跳ねたりするポップス、流行歌が中心だった時代です。

 

そんな時代に即応するようにひばりは才能を開花させたんですよね。ちょうど笠置シヅ子のブギ・ウギものが流行していたころで、ひばりはそんな笠置のブギ・ウギ・レパートリーを真似してステージで歌い、人気を博しました。ひばり名義でレコード化されたもののなかに服部良一が(笠置に)書いたブギ・ウギものは一曲もないんですが、かろうじてデビュー曲の「河童ブギウギ」(藤浦洸&浅井挙曄)だけがその面影を残しています。

 

上にSpotifyのリンクを貼りましたので、いままでご存知なかったかたもぜひひばりの「河童ブギウギ」を聴いてみてください。こんなにもウキウキと陽気で軽快に、ブギ・ウギのリズム・パターンで跳ねるようにうれしげに歌いこなすことのできる歌手なんですよね、ひばりって。曲のおかげもあってちょっとユーモラスっていうかコミカルな要素だって聴きとれるのがまたいいです。

 

こんな感じ 〜 ブギ・ウギ・ベースのスウィンギーで軽妙洒脱なジャズ系歌手だったような、そんなひばりの資質は、自身が10代だったころは維持していていましたが、のちに演歌路線に転じてからは消滅してしまい、まったく聴けなくなってしまいました。演歌だからダメっていうんじゃありません、ぼくは大の演歌ファンですからね。そうじゃなく、ひばりという歌手本来の資質が奈辺にあったかを考えるとき、演歌調は必ずしも合っていなかったのでは?と思うんです。

 

そんなひばり本来の資質は、カヴァー・ソング(JLシリーズ)での最初期曲である「上海」でも鮮明に聴けるんじゃないでしょうか。だれひとりとして言及しない、一個も文章の見つからない、ときには二曲目の「悲しき口笛」がデビュー曲とされたりなどもするという、そんなひどい扱いを受け続けている「河童ブギウギ」に比べたら、「上海」のほうはそれでもまだ絶賛するひとがちょっとはいます。

 

「上海」はドリス・デイが歌った曲で、ひばりヴァージョンはそのコピーなんですね。1953年の日本に、ここまでスウィングできるジャズ系ポップス歌手は皆無だったとして過言ではありません。なんというものすごいスウィング感でしょうか。ドリスのオリジナルを軽々と超えています。ドリス・ヴァージョンを丸コピした英語歌詞の発音だって完璧ですし、ハンド・クラップも効果的な2コーラス目の日本語訳詞パートでは、もはやひばりのオリジナル・ソングと化していますよね。

 

日本コロムビアのJLシリーズでたくさん英語のジャズ・ソングを歌ったひばり。そのなかの最高傑作が最初に録音した「上海」なんですが、ご存知のとおりひばりは晩年までジャズを得意としていてライヴでも定番レパートリーにしていましたよね。でも演歌でヒットを飛ばし国民的歌手となってからのひばりのジャズからは軽快なスウィンギーさが失われ、ベッタリと重く、ジャズを歌っても魅力の乏しいものとなっていたことを指摘せざるをえません。

 

比するに10代のころのひばりのジャズ・カヴァーには、曲が本来持っているジャジーなスウィング感を存分に表現できるだけの資質が備わっていたんです。洋楽カヴァーも、「河童ブギウギ」みたいなオリジナル・ソングも、同じ一個の軽快なジャンピーなフィーリングで軽く歌いこなしてみせた若き日のひばり。オリジナルとカヴァーのそれぞれ最初のレコードである「河童ブギウギ」と「上海」こそ、生涯にわたるひばりの最高傑作だったと、この歌手本来の資質をフル発揮したものだったと、ぼくは断言します。

 

(written 2020.9.18)

2021/01/15

アーバン(Urban)

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(6 min read)

 

というこのことば、昨年初夏以降、音楽用語としては、かなり使いにくくなってしまったといいますか、もはや禁止されているというに近い(っていうか実態はアメリカ音楽業界内の自主規制ですけど)とまで言ってもいいくらいですよね。

 

理由は端的に言って、むかしの「レイス・レコード」と同様の黒人差別的な意味合いを帯びてしまうようになったからで、直接的には2020年のブラック・ライヴズ・マター(BLM)・ムーヴメントと関係があります。

 

日本ではあまりなじみのないアーバン、アーバン・コンテンポラリーといった音楽用語が、アメリカでいつごろどうやって使われるようになり、その後どのように拡散増殖したか、などについては、調べればくわしい解説記事も出ますので省略するとして。

 

2020年6月8日、ユニヴァーサル・ミュージック傘下のリパブリック・レコーズが、音楽用語としての「アーバン(Urban)」を今後いっさい使用しません、との声明をSNSで出しました。


https://twitter.com/RepublicRecords/status/1268949608664829955


https://www.instagram.com/p/CBD5HfyFnD0/?utm_source=ig_embed

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リパブリックといえば、アリアナ・グランデ、ドレイク、ニッキー・ミナージュ、ザ・ウィークエンド、ポスト・マローンなどがいて、テイラー・スウィフトもいまはいるっていう、まさに現代アメリカの音楽シーンを代表する会社なだけに、この声明は業界に大きな衝撃を与えました。ビルボードもBBCも即反応してこれを報道しましたね。

 

さらにこれを受け、グラミー賞を主催するレコーディング・アカデミーが、「アーバンやめます」との発表を6月10日に行いました。グラミーにはそれまで「最優秀アーバン・コンテンポラリー・アルバム賞」や「最優秀ラテン・ロック、アーバン、オルタナティヴ・アルバム賞」があったわけですが、いずれもアーバンを使わずに言い換えていくことになります。
https://www.grammy.com/grammys/news/recording-academy-announces-changes-63rd-annual-grammys-releases-rules-and-guidelines

 

アメリカ音楽史上、当初、アーバンというこのことばには否定的な意味はなかったものの、時間の経過とともに意味合いが変化し、どのような音楽性であれ黒人音楽家の音楽全般を指すようになっていったというのが事実で、肌の色さえ黒ければ、黒人でありさえすれば、「アーバン」にされてしまうという業界の慣習に異を唱える黒人歌手も増えていましたよね。

 

2020年1月、タイラー・ザ・クリエイターが、グラミー賞のベスト・ラップ・アルバム賞を受けたとき、自身の音楽が「ラップ」や「アーバン」に分類され「ポップ」のカテゴリーに入れられないことを痛烈に批判、「アーバン」というのはたんにNワードをポリコレ的に言い換えただけのことばだとまで発言しました。

 

ビリー・アイリッシュも、人種や見た目、服装などによって音楽がジャンル分けされてしまう業界の現状に苦言を呈し、白人女性なら「ポップ」、黒人女性なら「アーバン」にくくられてしまうと批判し、グラミー賞でのタイラーの発言への共感を示すというようなこともありました。

 

考えてみれば、たんに「ヒップ・ホップ」「ラップ」「R&B」と、それそのものが指向している音楽性を指せばいいだけなのに、「アーバン」はこれらぜんぶをムリにたばねようとしていて、それゆえに問題視されたわけですよね。

 

平たく言うと、黒人がつくった今日的なポップ音楽のほとんどすべてを包括することばが「アーバン」なわけで、そこには(白人ではなく)黒人歌手だからアーバンと呼ぶという、つまりは人種差別的な考えかたが無意識にせよ業界内にあったと指摘されても反論できないはず。

 

白人/黒人、というだけで音楽用語を分けて呼ぶ、そこに実質的な音楽内容の差異が聴きとれなくても、ジャンルをまたいでいても、肌の色だけで区別してきたのが「アーバン」だったわけですからね。1990年代〜21世紀になって音楽性が人種の垣根を完全に超えているにもかかわらず、です。

 

カンタンにいえば、人種で、肌の色で、ひとまとめにするんじゃないよ!というのが「アーバン」という呼称廃止の動きの原動力となっている精神性なんですね。とみにここ最近、当事者である黒人歌手たちから評判の悪かった呼称が「アーバン」でしたから。

 

やっている人の肌の色で区別する必要など、あるわけがない、人種隔離政策じゃあるまいし、とぼくも思います。その一方で「ブラック・ミュージック」という表現はぼくもよく使います。黒人音楽、と言っても同じです。これもたんにその音楽をやっている人種だけで区別したことばで、2020年初夏のBLMとアーバン廃止以後、ブラック・ミュージックと言うときには胸がチクっとするといいますか、これでいいのだろうか?という疑問が刺さっているのは事実です。

 


※「アーバン」という音楽用語の発祥・展開については、この記事がよくまとまっていると思います。
https://note.com/ebs/n/nc77fa2ccb05d

 

(2021.1.14)

2021/01/14

洗練されたユニヴァーサル・アフロ・ポップ 〜 ガブリエル・チエマ

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(3 min read)

 

Gabriel Tchiema / Mungole

https://open.spotify.com/album/60tribTQfnCBZPU4wsqqsY?si=wOsa-ah5TL6P0c4VjurghA
(なぜかいま消えています)

 

bunboniさんに教わりました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

 

アンゴラのガブリエル・チエマ。上のbunboniさんの文章では二作紹介されていますが、どっちもSpotifyにありましたので聴いてみて、個人的には2013年の『Mungole』がお気に入りとなりました(ジャケットが違いますが)。アンゴラのチョクウェ人の音楽チアンダをベースにしているそうです。

 

といってもチアンダというものをまったくなにも知りませんので、このアルバムもそんなこと関係なくユニヴァーサルなポップスとしてぼくは楽しんでいるだけなんですが、実際それでじゅうぶんいけるんだからいいじゃないですか。洗練されていて、アフロ・ポップとすら言う必要がないほどの世界を獲得していると思います。

 

出だし1曲目を聴いただけで、このガブリエルの音楽がわかりやすい、みんなだれでも聴いて楽しめる普遍性を持ったものだとわかると思うんですけど、2曲目のキューバン・ボレーロっぽいバラードな雰囲気もいいし、ジャジーかつスムースでメロウですよね。コンテンポラリー・ポップスとして世界で通用する音楽じゃないですか。

 

3曲目以後もやわらかくて明快で聴きやすいポップネスをサウンド化しているガブリエル。曲を書いて歌う本人の才能もさることながら、プロデューサー/アレンジャーの腕前が光っていると思います。曲によっては派手にビートを刻むものもあったりして(たとえば5曲目、これはアフリカネスがわりと出ていますね)。

 

そんななかでも特にぼくのお気に入りは、9、10曲目。アルバムでもこのへんの終盤のもりあがりかたはなかなか計算されているなと感じます。これら二曲は、はっきりしたアフロ・ポップでありかつ、もっと世界に通用する、売り出せるユニヴァーサルさをも獲得していて、しかもビートも効いていてノリがよくて聴きやすく、なかなかの音楽だなと感心します。

 

なお、たぶんこのへんもふくめだいたいぜんぶSpotifyやApple Musicのサービスがある国や地域なら世界中どこででも聴けます(2021年現在消えていますけど)。だから、ワールド・マーケットに流通済みと言えるかもしれません。

 

(written 2020.11.17)

2021/01/13

文章書きは楽器演奏にちょっと似ている

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(7 min read)

 

この文章が完成したら、ブログ用の文章ストックが54個になります(2021年1月12日時点では60個)。どうしてそんなにためこまないと気が済まないのか、自分でもわかりません。54個(60個)って、ぼくは毎日一回ブログを更新する習慣ですけど、それでも一ヶ月半以上もかかっちゃうじゃないですか。そのあいだも毎日書き続けるでしょうから、ストックは減りませんよね。

 

毎日一回必ず更新したいから、平均したら一日一個のペースで文章を書いていくっていうことを維持しないといけないわけですけど、2019年までは書かない日がけっこうありました。というのはわさみんこと岩佐美咲ちゃんのイベントによく出かけていっていましたから、イベント当日と前後の移動日は書かないんですよね。そのほか、音楽コンサートにときたま行っていましたし。

 

ところが、2020年2月末ごろからのこのコロナ禍情勢下、わさみんだけでなくどんな音楽系イベントもコンサートも、客入れするものはほぼいっさいなくなってしまったでしょう。もう毎日どこにも行かないでずっと家にいるわけですよ。それでやることがないから常時音楽を聴きながらネットやったりなどでパソコンかタブレットかスマホを触っているという具合。

 

それで思いついたことをちょこちょこメモしているうちに、いつの間にか一個、二個、三個と文章ができあがってしまうわけです。2019年までみたいに書かない日があるからその分書きためておくということじゃなくなって、どこにも行かず毎日書くのにもかかわらず、さらにやっぱり複数個書ける日もけっこうあるから、それでストックが増えていく一方なんですね。

 

完成した文章のストックと同じくらいの数、これについて書こうという意味のメモもたまっていて、これもあれこれ音楽を聴きながら、あっ、これはいいアルバムだなとか、このテーマはおもしろいかもとかで、「準備中」というメモ・ストックもやっぱり50個以上あるんですね。

 

思いついたときにすぐに書かず、一ヶ月以上が経過してから聴きなおして書く、書き上げてもすぐにはアップロードせず寝かせておいて、やはり一ヶ月半くらいが経過してから上げる(いずれも例外あり)というのは、ぼくみたいな人間にとっては文章が穏便に落ち着くという効果、メリットもあります。

 

こ〜りゃいい!と感じたそのときのもりあがっている気持ちの勢いで書くと、文章がやや激しい感じになってしまうんですね、ぼくのばあい。鉄は熱いうちに打て、とは言いますが、そうでもない面だってあるんじゃないでしょうか。熱い気持ちを封じ込めるというか忘れないようにメモしておいてから、気持ちがほどほどに落ち着いてから書くと、文章が過激化しないんですね。ぼくは語気が強くなりがちな人間ですからね。

 

同様に、書き上がったものをすぐにアップせず、一ヶ月半以上寝かせておいてからもう一回読みなおし、修正・推敲してから上げる、というのも、文章のトゲトゲしさやカドをとって丸くする効果があって、ぼくみたいな人間だと結果的におだやかな文章に決着することができて、ある意味メリットなんです。

 

上で例外もあると言いましたように、まさに「熱いうちに」打っといたほうがいいだろうと判断できるような、時宜を逃すと意味を失ってしまうような、そんなタイムリーな話題のときは、すぐ書いてすぐ翌日くらいにアップしているんですけどね。でもそんなときはちょっと心配です、ぼくはこんな人間ですから、文章がとんがってしまうのではないかと。

 

毎日欠かさず書いているという一つの理由は、だからヒマで音楽ばかり聴きながらずっと部屋にいるからで、聴いて書くことがすっかり習慣化してしまっていて、特にこれといった用事もないなんでもない日に書かないでいると、もはや一種の気持ち悪さを感じるようになっているからですけど、もう一つ、技術を維持したいからでもあります。

 

っていうのは、文章を書くのって、自転車に乗ったりするのとはちょっと違うんですよね。自転車って一回乗れるようになれば、長く離れている期間があっても、やっぱり乗れるでしょ。コツをつかめば一生いけるっていうタイプのことはほかにもあります。料理なんかもそうかな、一回おぼえたら休眠期間があってもできるっていう。

 

でも文章を書くのはそういうのよりも、楽器演奏にちょっと似ていて、しばらくやらないでいるとレベル・ダウンしてできなくなっちゃうんですね。続けていないと維持できないものなんです。そこが文章書きと楽器演奏のちょっとした共通点ですね。

 

楽器って続けていないと、いつも触っていないと、演奏力が落ちてしまう、そもそも音が出せなくなってしまうものですよね。歌もそうかな、いつも歌い続けていないと、ずっと休んだままでいると、喉や腹筋が衰えてヘタクソになってしまいますよね。それでも放置しておくと、歌うための声すら出なくなってしまいます。語学もそうですね、常に触れ続けていないと、レベル・ダウンしてしまいます。

 

それを取り戻すのには、維持し続けているのよりもはるかに強く激しいリハビリ・トレーニングが必要。文章書きというのはちょっとそういった音楽活動、語学活動に似た面があるんですね。ずっと毎日ちょっとづつでも、軽くでも、続けていれば技術を維持できるけど、休み続けているとできなくなっちゃうんで、それもあってぼくは毎日休まず書いています。

 

(written 2020.9.23)

2021/01/12

ラテン・ジャズ・ファンクな「ギミ・シェルター」〜 カル・ジェイダー

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(3 min read)

 

Cal Tjader / Agua Dulce

https://open.spotify.com/album/2WH2F61riLGzebvDJVEOXe?si=OQ9C_2pZTaqyzXTgA7Y5hA

 

おなじみラテン・ジャズ・ヴァイブラフォン奏者、カル・ジェイダー(Cal Tjader)が、大好きな曲であるローリング・ストーンズの「ギミ・シェルター」をやっているのがあるぞと聞きつけて、Spotify検索し、アルバム『Agua Dulce』(1971)にたどりつきました。

 

問題のストーンズのカヴァー「ギミ・シェルター」はアルバム4曲目に収録。アナログ盤ではここまでがA面だったらしいです。肝心の内容は?というと、ストーンズ ・ヴァージョン(『レット・イット・ブリード』1969)を大きく換骨奪胎したラテン・ジャズ・ファンクにしあがっていて、こりゃいいですね。好みです。

 

しかもテンポをグッと上げ、パーカッシヴな感じにして、ある種の軽み、疾走感まで表現しています。この種の軽みはもともとラテン・ミュージックに備わっているものですが、ストーンズのオリジナルとはなにもかもが違うこのカル・ジェイダーの「ギミ・シェルター」、ここまでやれば、もはや曲は題材でしかないわけで、素材の味を活かした料理でもなく、まったく姿かたちを変えてしまっていると言えますね。

 

このラテン・ジャズ・ファンクな「ギミ・シェルター」、アルバム『Agua Dulce』のなかではさほど重要な位置を占めているというわけでもなく、ほんのちょっとした軽い息抜き、お遊び程度なだけですね。ラテンといってもロック・ナンバーに近いノリはかすかに残っていますしね。

 

アルバム全体では、むしろサルサ・ジャズみたいな方向に近寄っているんじゃないかというのがぼくの感想で、オープナーの1曲目「Agua Dulce」からしてそうですし、また「ギミ・シェルター」が終わってB面にくれば、冒頭二曲がどっちも完璧なサルサですよね。気持ちいい。

 

B面には、しかも二曲のメロウ・ラテン・バラードがあるのも聴きどころです。(アルバム全体の)7曲目「インヴィテイション」とラストの「モーニング」。甘美のきわみ。こういったちょっぴりボレーロっぽいラテン・バラードを味わってメロウな雰囲気にひたり妄想に耽るのは、いつだって好きですね。

 

(written 2020.10.14)

2021/01/11

これもまたギリシア的なのだろうか?〜 ト・ディエシ

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(6 min read)

 

Nto Diesi / De Fovamai To Avrio

https://open.spotify.com/album/06xaKTQB05QaMnUnCtbpaO?si=zpcQ4qepRWqJb0-exnCaKQ

 

ト・ディエシ(Nto Diesi)はギリシアの音楽デュオ・ユニット。作詞家で歌のペニー・ラマダニと、ギタリストで作曲家のディミトリ・ニティスという二人で編成されているみたいです。そのアルバム『De Fovamai To Avrio』(2019)がちょっぴり魅力的なんですよね。音楽的にギリシア色はとても薄く、というかほぼ聴きとれないですけれども、もっとユニヴァーサルなコンテンポラリー・ポップスとして佳作じゃないですかね。

 

ポップスというかポップ・フォークみたいな感触なんですけどね、このアルバム。地味で渋い感じで入ってきたなと思っていると、3曲目はレゲエですね。アクースティック・レゲエ。裏拍で刻みが入るレゲエのリズム・パターンだけ借用して、音楽的にはレゲエではないポップスに仕上がっています。聴きやすくていいですね。

 

ところでですね、ぼくは長年レゲエが苦手だったという話をずっと前にしたことがあるのは、音楽そのもののというよりも、ルーツ・レゲエにまとわりつくたくさんの言説が嫌いだっただけなんですよね。近年だったらフェラ・クティのアフロビートなんかにも同種の嫌な匂いを感じるんですけど、こう、なんというか硬派っていうか戦闘的というか社会派というか、ちょっと軽く流し聴いてはイカンみたいなことをいうファンや評論家が一部にいるでしょう。

 

ボブ・マーリーにしろだれにしろ、レゲエやアフロビートの音楽家が軽い感じでポップになったりスウィートになったりすると、もうそれだけで「裏切り」だ、とか「心変わり」だとか、そんなこと考えたり発言したりするひとたちのことが、ぼくはあんまり好きじゃありませんでした。ロックみたいなシリアス・ミュージックとレゲエの親和性が高いのは、そんなアティテュードも一因のような気がします。

 

ともかくそんなことで、レゲエ(とアフロビート)からは、もっと正確に言うとそれら音楽について語る一部のマジメなかたがたの発言からは、大きな距離を置いてきたんですよね。レゲエやアフロビートそのものが嫌いなわけじゃないと自分でわかっているのに、そんなかたがたのせいで音楽まで嫌いになりそうでしたから。

 

21世紀に入ったころからか、もっと前の1990年代からか、アフロビートのことはやっぱりよくわからないけど、レゲエはそのビート・スタイルだけちょこっと借用して自身の音楽の彩りとする音楽家が世界中にたくさん出てくるようになって、それでぼくも大きく安堵している次第です。やっぱりボブ・マーリー的な武闘派というか、社会派的にシリアスな姿勢をレゲエ・ビートに込めるっていう、一部のアフリカの音楽家とか、またアマジーグ・カテブ(グナーワ・ディフュジオン)とか、いるにはいますけどね。

 

話が大きくそれました。きょう話題にしたいギリシアのト・ディエシも、レゲエの裏拍で刻むビート・スタイルだけ借用しているのであって、レゲエ的社会派というわけでは決してありません。こういったレゲエの音楽効果はぼくも好きですね。3曲目だけじゃなく、実は4曲目も軽いレゲエ・ビートがそこはかとなく効いています。アルバムでレゲエ・ビートを使ってあるのはこの二曲だけ。ただたんにおもしろいポップ・ビートということでレゲエ使っちゃいけませんか?

 

5曲目以後も、やっぱり仄暗いっていうかどんよりとした曇天を連想させるような曲調のものが続いているんですけど、フォーキーだったりロック・チューンっぽかったりして、思うに地中海的っていうか、そう、アルジェリアの音楽なんかにもこういった感じがときたま聴きとれますが(スアド・マシ)、ギリシアとかバルカン半島的なムードともひょっとしたら言えるのかもしれないですね。

 

音楽的にはこのデュオの作曲者側のディミトリ・ニティスがかなりサウンドを支配しているみたいで、楽器もギターだけでなくトレスやマンドリンをやったり、またアレンジャーとして、チェロ、アコーディオン、カズー、ホーン陣ほかの配置もツボを得たスッキリとした感触で曲のよさを包み込むという、そういう仕事をしているなと思います。

 

なぜか心に残る、くりかえし聴きたくなる、そんな不思議な魅力を持ったト・ディエシのアルバム『De Fovamai To Avrio』。どうしてそう感じるのか、ちょっと考えてみたかったんですけど、きょうはどうもうまくいかなかったなと思います。ギリシア要素はこの音楽にはないと言いながら、やっぱりギリシア的なのか?とも思えたり。

 

(written 2020.11.27)

2021/01/10

コンサートやるなら、これからハイブリッド(字余り)

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(5 min read)

 

昨2020年初春以来のCOVID-19流行で、音楽ライヴがすっかり縁遠いものとなってしまいました。数少ない客入れライヴも、同時にネット配信も行うっていう、ハイブリッド・コンサート形式がほぼ定着した感があります。

 

いまは悲観的状況ですけど、ハイブリッド・コンサートをやるということそれじたいはたいへんよいことじゃないかと思うんですよね。音楽ライヴを現場とオンラインのハイブリッド形式でやる、これはもっと前からそうするべきものでありました。コロナ禍でようやくそれが定着するようになったということです。

 

現実問題、首都圏で二回目の緊急事態宣言が出ていますから、客入れコンサートはふたたびとうぶんできないということになってしまい、ライヴ・コンサートなどはやはり全面的にオンライン配信で、という事態を迎えておりますね。

 

肝心なのは、このコロナ禍が終息してのちのことです。終息してもなお、やはりコンサートはハイブリッド形式で企画・実施すべきだと強く願っているんですよね。現場の観客動員だけでなく、ネット配信もやるべきです。それが製作側、歌手サイド、そしてなんといってもファンのためになることなんです。

 

音楽ライヴ・イベント、コンサートなどは、やはり首都圏というか東京エリアで開催されることが多いでしょう。全国をまわる、なんていうのは一部の演歌・歌謡曲系の歌手だけです。東京エリアでしかやらなかったら、地方人の参加はなかなかきびしいことですよ。

 

もちろん、出かけていって体験する、というのはほんとうに貴重でスペシャルで思い出に残るものです。ですけれど、東京エリアでのコンサート観覧は、日程的、経済的に、地方民にとってはなかなかむずかしい面もあるんです。特に経済面ですかね、交通費、宿泊費、食費など諸々ふくめれば、コンサート・チケット代金の何倍もの大きな出費になりますからね。

 

だから特に応援しているこの歌手の特にこのコンサートだけ、といった感じで、たぶん年に一回か二回、出かけていって参加するということになりますが、それすらきびしいファンだっているんです。なにより(コロナ禍でない平時においては)音楽コンサートは年に無数と開催されていますが、音楽専門家でもなければ、地方在住民でどんどん上京できるなんていうひとはほぼいません。

 

日本国内/国外、といった視点で考えれば、このことは東京人のみなさんにだって理解できるはずです。日本在住の洋楽ファンが、当の音楽家が開催する、ニュー・ヨークでの、パリでの、ロンドンでの、リオ・デジャネイロでの、カイロでの、グラスゴーでの、コンサートの数々に飛行機を飛ばしてどんどん出かけていけるでしょうか。

 

2020年おおみそかには、例年どおりユッスー・ンドゥールがグラン・バルの年越しライヴを開催しました。コロナ禍まっただなかということで、今回はオンライン配信されたわけですが、だから日本にいながらにしてその中継を見られたというファンがいましたよね。例年どおりのセネガル現地での、現場だけでの、開催だったら、はたしてそこまで飛んでいけるファンは世界に何人いたでしょうか。

 

どうかお願いです、コロナ禍が終息して、平常どおりコンサート会場に観客が100%フル入場できる日が戻ってきても、それでもやはりそのコンサートを撮影してネット配信してほしいのです。それがあれば、遠隔地に住むぼくらだって音楽ライヴを楽しめるし、アーカイヴに残してもらえれば、都合のいい日時に観覧できます。

 

製作側、歌手側にとっても、現場観客数分の入場料収入だけでなく、それにプラスしてネット配信分のチケットもさばけるわけで、しかもそっちほうがペイが大きいわけですから、八方にとって歓迎すべきことじゃないかと思うんですよね。

 

(written 2021.1.8)

2021/01/09

知世の「小麦色のマーメイド」が好き 〜『恋愛小説 3』

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(5 min read)

 

松田聖子、原田知世 / 小麦色のマーメイド

https://open.spotify.com/playlist/1nlAzVTUjyiDJFIypXqjSW?si=J7wF6Y17R-C7aL8ElEXu6g

 

昨2020年10月の発売以来ずっとよく聴いている原田知世の『恋愛小説 3 〜 You & Me』。このカヴァー・アルバムのなかでいちばん気に入っているのは、3曲目の「小麦色のマーメイド」なんですよね。歌詞が松本隆、曲が呉田軽穂(=松任谷由美)。松田聖子が1982年に歌ったおなじみの歌で、いままで、知世以前にカヴァーしている歌手も多いですね。

 

それで知世の「小麦色のマーメイド」は自分の夢にもよく出てくるし、朝起きたとき自動脳内再生されていることも多く、だからベッドから出てすぐ聴いたりもよくするんですけど、これ、聖子のオリジナル・ヴァージョンよりもずっといいんじゃないかなというのが正直な感想です。上のリンクのSpotifyプレイリストで二つを並べておきましたので、ぜひ聴き比べてみてください。

 

いまのぼくのフィーリングにピッタリだということなんですけど、伊藤ゴローのサウンド・メイクも現代的っていうか、2020年的コンテンポラリーネスを発揮していると感じるんですね。聴き比べれば、聖子ヴァージョンは時代を感じるサウンドだろうかなあ、と思わないでもないです。

 

聖子ヴァージョンは1982年ですからね、聴けばおわかりのように当時のいかにもなフュージョン・サウンドで、実際その界隈のミュージシャンたちが演奏したんじゃないかと思います。アレンジは松任谷正隆。82年という時代を強く意識したジャズ・フュージョン/シティ・ポップな音に仕上がっているんじゃないでしょうか。

 

これはこれでいま聴いても悪くないっていうか、上質のワン・トラックになっているなと思います。1982年当時だったらこれ以上は求むべくもないっていう、そんなサウンドじゃないでしょうか。聖子のヴォーカルも、正直言ってぼくは苦手なんですけど、でもこれはじゅうぶんチャーミングなものでしょう。

 

いっぽう、昨年リリースされた知世ヴァージョンの「小麦色のマーメイド」のサウンドは、ちょっとクラシカルなテイストが強いです。アレンジは伊藤ゴロー。ストリングス、っていうかこれはたぶん弦楽四重奏かな、それをメインに据えた落ち着いたできあがりの音です。これも時代的っていうか、2020年代に即した同時代サウンドじゃないかと思うんですね。

 

だから、いまから数十年後には聖子ヴァージョンも知世ヴァージョンも古いって言われることになるかもしれないです。いまは2021年なんで、知世ヴァージョンのほうがしっくり来る、いまの時代のぼくのフィーリングにぴったり合っている、という気がするだけですね。しばらくのあいだはこっちの知世のヴァージョンでOKじゃないでしょうか。

 

個人的に最も大きなことは歌手の発声と歌いかたですね。聖子がダメっていうんじゃありませんよ、個人的にはこの舌足らずな感じがやや苦手なだけで。比べて知世、いまの知世の声はややかすれたようなハスキーさで、成熟と落ち着き感を強くただよわせるヴォーカルじゃないでしょうか。ややキーも低めのこの知世ヴォイスがぼくは大好きなんですよね。

 

「小麦色のマーメイド」という曲の持つ雰囲気にピッタリ似合っているのが、いまの知世の声だっていうことで、若年のかわいらしさをそのまま保ったまま大人になって深みや落ち着きを獲得したこの発声や歌いかたがほんとうに気に入っているということなんです。声の色っていうかトーンも、聖子のそれよりぼくはずっと好きですね。

 

ストリング・カルテットを中心とする伊藤ゴローの極上のサウンド・メイクと、落ち着いたハスキーな知世のヴォーカルで、「小麦色のマーメイド」という曲が2021年に軽やかによみがえったんだという気がします。

 

(written 2021.1.7)

2021/01/08

ポール・マッカートニー 『キシズ・オン・ザ・ボトム』

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(8 min read)

 

Paul McCartney / Kisses on the Bottom

https://open.spotify.com/album/5jOBxNZ2fXG1k0x8SYJ38e?si=hAG9wPsRSFSqGwMEkIO3eA

 

きのうブラッド・メルドーの『ブルーズ・アンド・バラッズ』をとりあげましたが、そのアルバム・ラストにあった曲「マイ・ヴァレンタイン」。これのオリジナルが収録されているポール・マッカトニーのアルバム『キシズ・オン・ザ・ボトム』(2012)のことを思い出していました。

 

『キシズ・オン・ザ・ボトム』は、ジャズ歌手でもないポールにしてはめずらしいポップ・スタンダード曲集。しかし喉が衰えたロッド・スチュワートその他大勢なんかが取り組んだようなものとは、ポールのばあいそもそも意味が違うんですね。ポールはビートルズ時代からそんなテイストを濃厚に持っていましたから。

 

たとえば「ウェン・アイム・シックスティ・フォー」(『サージェント・ペパーズ・ロンリー・クラブ・ハーツ・バンド』)、「マーサ・マイ・ディア」「ハニー・パイ」(『ワイト・アルバム』)のような、わざとレトロでヴィンテージなオールド・ジャズ・ソングに似せたようなものを、ビートルズ時代からポールは自分で書いていました。バンドの初期に「ティル・ゼア・ワズ・ユー」(『ウィズ・ザ・ビートルズ』)を歌ったのもポールでした。

 

ビートルズの四人は、っていうかあの世代は、若いころ古いティン・パン・アリーのポップ・スタンダードに親しんでいたひとたちですし、なかでもポールは特にそんな資質を強く持ち発揮してきたシンガー・ソングライターでしたよね。だから、ポールがレトロなポップ・スタンダードをジャジーに歌うのは、きのうきょう思いついたようなアイデアじゃなかったんです。そういう資質をもとからあわせ持つミュージシャンなんです。

 

それでも2012年にこのアルバム『キシズ・オン・ザ・ボトム』がリリースされたときにCD買って聴いたときは印象が悪くて、一、二度聴いただけでラックの奥にしまいこんでいました。最大の理由はポールの発声にありました。ふだんロック・ナンバーを歌うときとはあからさまに違えたソフトでメロウなフィーリングなんですね。

 

それがかなりわざとらしく感じられて、当時は鼻につくように感じたんですよね。こんなふうに声色を変えなくたって、いつもどおりストレートに声を出して歌えばいいのに、って曲そのものは好きなものが並んでいるからいっそう歯がゆく思ったもんです。

 

ところがブラッド・メルドーのおかげで曲「マイ・ヴァレンタイン」を思い出し、それが収録されているアルバム『キシズ・オン・ザ・ボトム』もちょっと聴きなおしてみようと思ったんだから、人生なにがきっかけで巡り巡ってくるか、わかりませんよねえ。今回はもちろんCDじゃなくSpotifyで聴きました。

 

今回、アルバムの印象がグッと向上したっていうか、ポールのばあいビートルズ時代から同じだったことを思い出したんですよね。たとえば『ワイト・アルバム』にある「ハニー・パイ」をちょっと聴きなおしてみてください。この曲はビートルズ時代にポールが書いて歌ったもののなかでは最もジャジーなヴィンテージ・ポップスふうなんですけど、やっぱりふだんとは違う声の表情を故意にみせているでしょう。ソフトな感じによそおっていますよね。
https://www.youtube.com/watch?v=0Sr0efOe8yk

 

つまり1960年代からポールはなにも変わっていないんだなあと、ぼくも2015年にブログをはじめてからビートルズのことを、特に大好きな『ワイト・アルバム』なんかはかなり頻繁に、聴きかえすようになりましたから、それで2012年のスタンダード集『キシズ・オン・ザ・ボトム』のことも、なにも特別視することはない、ヘンじゃない、オールド・ポップスをやるときのいつものふだんどおりのポールの発声だと、そう感じるようになりました。

 

アルバム『キシズ・オン・ザ・ボトム』は、かのトミー・リプーマのプロデュース。そしてトミーの進言でダイアナ・クラールがアルバムのための音楽アドヴァイザー役として起用されることになりました。伴奏のベーシストもドラマーもダイアナのバンドからそのまま持ってきているし、くわえてギターでジョン・ピザレリも参加。ダイアナは全曲のアレンジもやっているし、もちろんピアノを弾き、大活躍。ポールはほぼ全面的にヴォーカルに専念し、ほとんど楽器は演奏していません。ロンドン・シンフォニー・オーケストラも豪華なアンサンブルをくわえています。

 

収録曲のなかには、かなり有名なものとそうでもないものが混じっているように思いますけど、CDでお持ちでないかたも調べればぜんぶ出ますので、ご興味とお時間がおありのかたはぜひ。すべてがティン・パン・アリーのソングブックからで、オープニング1曲目「手紙でも書こう」(アイム・ゴナ・シット・ライト・ダウン・アンド・ライト・マイセルフ・ア・レター)はファッツ・ウォラーで有名でしょうけど、ファッツの書いたものではありません。アルバム・タイトルの「キシズ・オン・ザ・ボトム」はこの曲の歌詞の一節から。ラヴ・レターの末尾に添える “X” のキス・マークのことです。

 

おもしろいのはスタンダードに混じって、このアルバムのために書いたポールのオリジナルも二曲あること。8曲目の「マイ・ヴァレンタイン」(エリック・クラプトン参加)、14「オンリー・アワ・ハーツ」(スティーヴィ・ワンダーがハーモニカを吹く)。古くからの錚々たるクラシックスのなかに混じっても、なんら違わないように聴こえるのはさすがですね。考えてみればビートルズ時代、解散後のソロ時代とポールはそんな感じのポップなオリジナルをたくさん書いてきたわけですよ。

 

そもそもソング・ライティング・クラフトをティン・パン・アリーやブリル・ビルディングから生み出されたソングブックに学んだような痕跡が強いポールですから、それがビートルズ時代から生かされてきて、それで21世紀までずっときているポールなんですから、やっぱり曲を書く才能はすごいものがあるなと、あらためてうならざるをえません。スタンダード・ポップスを歌うヴォーカリストとしての資質同様、今回はコンポーザーとしての偉大さにも思いが至りました。

 

(2020.9.23)

2021/01/07

ブルーズとバラードを一体化させて弾く 〜 ブラッド・メルドー

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(6 min read)

 

Brad Mehldau / Blues and Ballads

https://open.spotify.com/album/68Z45vi66VWZw7nqcOQEwP?si=iyXG4RVUQt-H0uUlwqUE4w

 

ジャズ・ピアニスト、ブラッド・メルドー(Brad Mehldau)のことをずっと苦手にしてきました。どうしてなんだか自分でもよくわかりませんが、それに、活動の中心がピアノ・トリオ形態でしょう、個人的にあまり好きなフォーマットじゃないですからね。ずっと気になってはきたんですが。

 

それでもこないだ、なにかのきっかけで知った『ブルーズ・アンド・バラッズ』(2016)という、これもやっぱりピアノ・トリオ・アルバムで、しかしブルーズやっているんだったらぼく向きかも、いや、ちょっと待って、メルドーの弾くブルーズでしょ、とやっぱりちょっとの警戒心も働いたんですけど、ともあれ聴いてみないとなにも言えないなと思って。

 

それで聴いてみたら、正解でしたね、『ブルーズ・アンド・バラッズ』、実に聴きやすい好内容。ここでもラリー・グラネディア(ベース)&ジェフ・バラード(ドラムス)という鉄壁のおなじみトリオ編成で、たしかにブルーズとバラードばかり、それも耳慣れたスタンダード中心の選曲なのがうれしかったです。

 

楽曲形式として12小節定型のブルーズというのは、実は4曲目の「シェリル」(チャーリー・パーカー)しかないんですけれども、それに近いかたちやフィーリングの曲をブルーズに解釈して演奏しているのものが実にいいできばえです。

 

たとえば1曲目の「シンス・アイ・フェル・フォー・ユー」。ダイナ・ワシントンも歌った有名曲ですが、ここでのメルドーの解釈は完璧なるブルーズ。粘っこいタッチのピアノの弾きかたをしていて、これはいい。しかもバラード・ナンバーでもあるっていうだけの弾きかたをちゃんとしています。

 

そう、このアルバムはここがポイント。ブルーズはブルーズ、バラードはバラードと区別して弾き分けているのではなく、メルドーはチョイスした多くの曲をブルーズでありかつバラードでもあるっていう、両要素を一体化させて解釈・演奏しているんですね。いやあ、すばらしい。

 

2曲目のポップ・スタンダード「アイ・コンセントレイト・オン・ユー」(コール・ポーター)。バラードとして演奏されることが多い曲ですが、メルドーはブルージーなタッチも交えながらファンキーな味もちょこっと出しつつ、しかしやっぱりバラードであるっていう曲本来の味を損なわないようにていねいに演奏しています。グッときますねえ。

 

ブルーズをバラードとして弾く、バラード演奏にブルージーなタッチを混ぜ込む、っていうのは、実はずっとむかしから、それこそハード・バップ時代から、ブラック・ジャズ・ミュージシャンたちが得意にしてきたことであって、べつに目新しい方法論じゃありません。でも2010年代になって、メルドーのピアノでそれが聴けたっていうのがうれしかったんですね。

 

そうそう、2曲目の「アイ・コンセントレイト・オン・ユー」は、リズム・スタイルがキューバン・ボレーロにアレンジされていることも書き忘れてはいけませんね。ボレーロはキューバにおいて恋愛歌をとりあげる際のむかしからの人気形式なんで、だから、この曲をそんなアレンジにしたのは、ある意味オーソドックスなバラード表現です。

 

ラテンな感じでバラードをブルージーに弾くといえば、このアルバム6曲目「アンド・アイ・ラヴ・ハー」(レノン/マッカートニー)もグッドですね。「アイ・コンセントレイト・オン・ユー」と違い、こっちのほうはビートルズのオリジナルからしてすでにラテン香味が漂っていたもので、メルドーのヴァージョンはアルバムのクライマックスともいえる情熱的な演奏。ラテンなバラードをブルージーに弾きこなすスタイルも、ここに極まっています。

 

続くアルバム・ラストの「マイ・ヴァレンタイン」はポール・マッカトーニーが2012年のアルバムのために書いた当時の新曲で、スタンダードとは言えないでしょうが、美しいメロディを持っているバラードだということでとりあげたんでしょう。やはりちょっぴりブルージーなタッチも混ぜ込んでいますが、この曲でのメルドーはバラードをきれいに弾くことにほぼ専念しているように思います。

 

5曲目のスタンダード「ジーズ・フーリッシュ・シングズ」もストレートなバラード解釈で聴きやすく。ぼくはこういったメロディのきれいなティン・パン・アリーのポップ・スタンダードを聴くのが大好きなんで、選んでくれただけでうれしいですね。ティン・パン・アリー発でも大半の曲が埋もれて消えたんであって、生き残ったごく一部のものだけがスタンダードになったんだと考えれば、それなりの理由、魅力はあると思います。

 

3曲目「リトル・パースン」はジョン・ブライオンという名前がコンポーザーになっていますけど、アルバム中これだけは曲も作者も知らないものでした。ラリー・グレネディアのベースもロマンティックでいいですね。

 

(written 2020.9.22)

2021/01/06

どこまでも伝統的なブルーズ 〜 キム・ウィルスン

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(3 min read)

 

Kim Wilson / Take Me Back!: The Bigtone Sessions

https://open.spotify.com/album/7xjNL5KWKBhdisk6oGbFOc?si=Wd5P6YI4RMGLE8Gl4QfVXA

 

萩原健太さんのブログで知りました。
https://kenta45rpm.com/2020/10/21/take-me-back-kim-wilson/

 

ファビュラス・サンダーバーズのヴォーカル、キム・ウィルスンのソロ・アルバム新作『テイク・ミー・バック:ザ・ビッグトーン・セッションズ』(2020)。もちろんトラディショナル・ブルーズですよね。

 

この手の音楽ですから、アルバム収録曲はスタジオにバンド・メンバーを集めての一発録りだったみたいで、しかもモノラル録音だそうです。「だそう」っていうのは、いまぼくはスピーカー一個で音楽聴いていますから、わからないんですね。そう、パソコンとBluetoothで接続したスマート・スピーカー一個だけ。

 

昨年7月20日に引っ越してきて以来、それ以前に使っていたオーディオ機器はもちろん持ってきたんですけど、実家ゆえ住宅事情からそれを設置できないんですね。だから、Boseのスマート・スピーカー一個だけでそれ以来ずっと音楽を聴いています。ちょっとあれですけど、しょうがないんですよねえ。だからモノラルもステレオもわかりません。

 

そんなことはいいとして、キム・ウィルスンの『テイク・ミー・バック』。キムはヴォーカルだけじゃなくブルーズ・ハープもやるんで、しかもそれはがっちがちに歪んだ電化アンプリフェイド・ハープ。このアルバムでもそれが随所で聴こえますよね。ある意味、ハープのほうが主役なんじゃないかと思えるほどの内容かもしれません。

 

実際、インストルメンタル・ナンバーも四曲あるし、アルバム・タイトルにもなっている12曲目「テイク・ミー・バック」がリトル・ウォルターの曲だということもあって、キムはリトル・ウォルター直系のブルーズ・シンガー&ハーピストなのかもしれません。このアルバムでも快調なハープ・スタイルなんかは間違いないですよね。

 

もっとも、アルバムにあるカヴァー曲九つのうち最も多いのはジミー・ロジャーズ・ナンバーの四曲で、そのほかハウリン・ウルフ、ジミー・ノーレン、ラリー・ウィリアムズ、パーシー・メイフィールドが一個づつに、上記のとおりリトル・ウォルターが一個。

 

往年の、そう、つまり1950年代のシカゴ・ブルーズの匂いがアルバム全編で強く漂っていて、こういった音楽、もはや時代遅れだよと笑う向きもおありかもしれませんが、伝統を受け継ぐこと、守り抜くこと、それだって新しい領域を切り拓くのと同じくらいカッコよくて意味のあることなんですよ。

 

ブルーズってそんなもんだよねえって、そんなことをきょうもまた強く実感したキム・ウィルスンの新作なのでありました。目新しさ、音楽の進化、更新なんてこれっぽっちもここにはありませんけどね。

 

(written 2020.11.22 )

2021/01/05

ダイアナ・クラールの新作は心落ち着ける

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(6 min read)

 

Diana Krall / This Dream of You

https://open.spotify.com/album/2axVAnC2sE98xigU2BV1TY?si=mnHOSs7UTRqSUB1Lo8u5Sg

 

ジャズ歌手のDiana Krall。ところでこの名前をカナ書きすると、ダイアナ・クラールというよりはクロールに近くなるんじゃないかと前からぼくは思っているんですけれども、この歌手&ピアニストに特にどうという気持ちもないぼくは、長いものに巻かれとけ的発想で今日もクラールと書きます。

 

そんなダイアナ・クラール(クロール)の2020年最新作『ディス・ドリーム・オヴ・ユー』にはちょっとした背景があるんだそう。ダイアナは名匠トミー・リプーマに見出されてブレイクしたわけで、その後もリプーマがダイアナをプロデュースしたアルバムがたくさんあります。

 

そんなリプーマも2017年に亡くなってしまったでしょう、ダイアナとしては大きなショックだったみたいですよね。それで三年の時間を経てようやく世に出ることになったリプーマ追悼集が今作の『ディス・ドリーム・オヴ・ユー』なんだってことらしいです。

 

ダイアナとリプーマの最後のコラボは2017年の『ターン・アップ・ザ・クワイエット』(リリース直前にリプーマが亡くなる)だったわけですが、そのころ2016〜17年あたりにリプーマとともに録りだめてあった音源を蔵出ししつつ今回手を加えて完成させ、新録音も交え、できあがったアメリカン・スタンダード・カヴァー集が『ディス・ドリーム・オヴ・ユー』なんですね。

 

リプーマ追悼集という意味も帯びているせいでしょう、アルバム全体で静謐感が強くただようというか、やや重たい感触もありますね。そのへん、約50分間のこの作品全体を通して聴くとちょっと退屈だという印象を抱いてしまうばあいもあるんじゃないかと思います。

 

しかしなかなか雰囲気がいいし、おだやかで静かで、夜ひとりで心を落ち着けたいときなんかに聴くにはもってこいのアルバムじゃないでしょうか。そんななかでもオッと耳をひくものが数曲あります。まず6曲目「ジャスト・ユー、ジャスト・ミー」。全体的におだやかな調子で貫かれているこのアルバムのなかでは例外的にスウィンギーにドライヴするワン・トラックなんですね。

 

ヴァイオリンのソロとオブリも効いているし、こりゃなかなかみごとな演奏と歌ですよ。ところでこの「ジャスト・ユー、ジャスト・ミー」はナット・キング・コールもやりました。かの有名な戦後作『アフター・ミッドナイト』のオープナーでしたね。ナットのレパートリーをダイアナがとりあげるのは、やっぱりダイアナらしいなと思うんですね。

 

アメリカン・スタンダード・ポップスをたくさん歌ったナット・キング・コール。その道の第一人者といっていい存在だったわけですが、ダイアナ・クラールの世界ってちょっとそんなナットの世界を引き継いでいる部分があるなと前からぼくは感じているんですよね。ダイアナはナット曲集のアルバムも出しましたがそれだけのことじゃなく、ダイアナの世界観はナットの表現していたそれじゃないかと。

 

そう考えると、今作『ディス・ドリーム・オヴ・ユー』でもピアノ+ギター+ベース+ドラムスといった必要最低限のコンボで基本やっているし、そんな面でもナット・キング・コール・トリオを意識したのかなと思わないでもありません。ダイアナの今作のばあいは、それにちょこっとヴァイオリンが入ったり、ストリング・アンサンブルが伴奏をつけたりしますけどね。

 

10曲目「アイ・ウィッシュト・オン・ザ・ムーン」。ビリー・ホリデイが1935年に歌って知られるようになったポップ・ソングで、そのヴァージョンが至高のものであるわけですが、ここでのダイアナはちょっとテンポを上げ、これも快活な雰囲気と曲調にアレンジしなおしてあるのがいいですね。出だしのリフがこれまたナット・キング・コール・トリオのスタイルをそのまんま踏襲。

 

アルバム題になっている9曲目「ディス・ドリーム・オヴ・ユー」だけが新しい曲で、これはボブ・ディランが2009年の『トゥゲザー・スルー・ライフ』で歌ったボブ自作のテックス・メックス・ソング。そりゃあもう完璧なラテン・チューンだったものです。
https://open.spotify.com/track/5WsZ3nNApCUv3IoOtAA3kv?si=BgXwYMwGRAua5A5aG6R6cA

 

アバネーラ調のリズム・フィールも感じられるこのディランの曲を、今回ダイアナはもっとぐっと落ち着いたジャジーなヴァージョンに仕立て上げているその手腕が光ります。これは新録ですからトミー・リプーマはかかわっておらず、ダイアナ自身のプロデュースです。かすかにアバネーラ/テックス・メックスふうのラテン・フィールが香っているようにも聴こえ、なかなか極上のヴァージョンになったのではないでしょうか。いわばジャジー・テックス・メックス。

 

(written 2020.10.19)

2021/01/04

多彩な音色で楽しませる、アフリカ音楽ふうに解釈したハービー・ハンコック 〜 リオーネル・ルエケ

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(4 min read)

 

Lionel Loueke / HH

https://open.spotify.com/album/6ApdWZj0u2UOHzHwNiNnAi?si=-MiJjPpwS4-jEW-ky1GF2Q

 

ギターリスト、リオーネル・ルエケ(ベニン)のソロ新作アルバム『HH』(2020)は、そのアルバム題で察せられるとおりハービー・ハンコック曲集となっています。これがなかなかの快作なんですよねえ。

 

ハービーはリオーネルをバンドのギターリストに起用して育てあげてきた、いわば師匠ですから、『HH』は恩返し、オマージュ的な作品といえるのでしょう。ハービーの旧新楽曲をとりあげて、しかもリオーネルはなんとソロ・ギター・パフォーマンス、つまりギター一本だけでそれを表現しているんです。ビックリですよねえ。

 

基本このアルバムでのリオーネルはアクースティック・ギターを弾いているばあいが多いみたいですね。一部でエレキ・ギターも弾いてはいますし、アクギでも多彩なエフェクトを駆使したり、音を重ねたりヴォイスを使ったりしていますから、なかなか一筋縄ではいかないソロ・ギター・パフォーマンスです。

 

全体的に、聴いた感じ静謐でリラクシング、落ち着いたクールな印象がある作品ですが、ピンと張りつめた緊張感も伝わってきます。ハービーがバンドで実現していた曲の数々をソロ・ギター演奏で実現するわけですから、大胆な工夫は必要です。それでリオーネルは原曲をかなり換骨奪胎していますよね。

 

ちょっと聴き、ハービーの原曲を思い起こすことのできるトラックはあまりなく、あくまでソロ・ギター・ピースとして活きるように再解釈されています。ハービーの曲ってメロディがキレイで楽しくて親しみやすく口ずさみやすいっていうのが、いつの時代でも大きな特長だったんですけど、『HH』でそれが聴きとれるのは6曲目の「バタフライ」だけくらいなもの。ほかはほぼリオーネルの書いた新曲と言いたいくらいの内容です。

 

なかでも特におもしろいなと思ったのは4曲目の「アクチュアル・プルーフ」。ジャズ・ファンク・チューンだったんですけど、ここでのリオーネルのギターは完璧なるバラフォン・スタイル。アクギの音色もバラフォンのそれを再現しているし、フレーズのつむぎかたもバラフォンでのそれを模しています。西アフリカ音楽的に再解釈しているというわけですが、しかしこれ、どんなエフェクト使ったらアクギでこんなバラフォンの音色になるんだろう?

 

そのほかアクギでもエレキでも多彩なエフェクトを駆使して音色のカラーリングで楽しませてくれるというのは『HH』の多くのトラックで言えること。バラフォンだけでなく、親指ピアノの音色とフレーズつくりのスタイルを移植したような曲もあるし、全体的にハービーのアフリカふう解釈という印象がありますね。しかもこういったクールネスはアフリカ音楽に特徴的なものです。

 

11曲目「ロックイット」出だしのサウンドも楽しいし、14「ワン・フィンガー・スナップ」でのギター・サウンドは、まるでスティール・パンのそれにそっくりじゃないですか。だからトリニダードっていうかカリブ音楽ふうの一曲に仕上がっていて、これ、ハービーの原曲は1964年のジャズ・ナンバーだったんですけどね。これにもビックリ。リオーネルはスティール・パンふうにアジャストしたギター・サウンドで反復フレーズをつくり、そのヒプノティックなループの上にソロ・フレーズを重ねています。いやあ、降参。

 

(written 2020.12.3)

2021/01/03

ちょっぴりジャジーなアフロビート 〜 バントゥー

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(3 min read)

Bantu / Everybody Get Agenda

https://open.spotify.com/album/5rrJHG1mncGKjf344s9ig1?si=I6ahYmPfRV-fwyETNAT7Nw

 

bunboniさんに教わりました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-10-14

 

ナイジェリア系ドイツ人のアデ・バントゥーことアデゴケ・オドゥコヤが率いるナイジェリア人13人編成のアフロビート・バンド、バントゥー(Bantu)の新作『Everybody Get Agenda』(2020)がなかなかいいですよね。Bantuとはアデ・バントゥーのことじゃなく、Brotherhood Alliance Navigating Towards Unityの略だとのこと。

 

アフロビートにしては洗練されたジャジーなアンサンブルを奏でるのがこのバンドの特徴で、もっとゴツゴツと荒削りでゴッツいサウンドのほうがアフロビートとしてのパワーは増すんじゃないかと思わないでもないんですが、バントゥーはこれが持ち味ですね。

 

コーラスもメロウだし、ホーン・アンサンブルもジャジーで、でもしかし今作ではいっそう強度を増したビート感がグッと来ますよねえ。歌詞とかナイジェリア性みたいなことはなにもわからないぼくなんですが、このサウンドだけ聴いて魅力的なパワフルさだなと感じとることができます。

 

1曲目はじめ随所でトーキング・ドラムが派手に鳴っているというのもバントゥーの特徴で、アフロビート・バンドでトーキング・ドラムを使っているのってほかにないと思うんです。なかなか新鮮ですよね。西アフリカっぽい感じもするし、ビートが複雑化して聴きごたえがあります。

 

3曲目だけちょっと違ったタイプの音楽ですが、それ以外はアルバム全体でパワフルなビートが全開。カルロス・サンタナ的なエレキ・ギターが炸裂している7曲目もみごとだし(ここでもトーキング・ドラムが入る)、そう、以前どなたかおっしゃっていましたが、そもそもアフロビートとカルロス・サンタナ的ギター・スタイルは相性いいのかもしれません。

 

個人的にはこのエレキ・ギターのおかげで7曲目がアルバムでいちばん好きですが、クライマックスはシェウン・クティがゲスト参加しているラスト・トラックということになるでしょう。これも出だしがちょっとメロウだったりしますが、ビートが入ってからはハード・ボイルド。それでもちょっとの洗練を混ぜ込んである、というかどうしてもそれが出てしまう、というのがバントゥーらしさですね。

 

(written 2020.11.21)

2021/01/02

アキレス・モラエスとジョアン・カマレーロのデュオ・ライヴ

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(3 min read)

 

Aquiles Moraes e João Camarero / Programa Instrumental Sesc Brasil

https://www.youtube.com/watch?v=GS9DKFhdfIY&feature=emb_title

 

ブラジル音楽好き Rori さんのこのツイートで知りました。
https://twitter.com/quebon_1377/status/1336305521167540225

 

2020年12月7日にYouTubeで公開されたアキレス・モラエス(トランペット、フリューゲルホーン)とジョアン・カマレーロ(ギター)のデュオ・ライヴ動画。もちろんショーロですけど、これ、なかなか楽しいしステキなんですよね。たぶんこういうのはいまのCOVID-19情勢下、各国で次々と生産されネットで配信されていることでしょう。

 

といってもこのデュオ・ライヴでは一曲終わるごとに拍手が聴こえますので、現場に観客を入れて収録したんでしょうね。でも基本はコロナ禍でなかなかライヴ・ミュージックの実現がむずかしいなか、音楽ファンのため、そして音楽家本人たちにとっての、機会を提供しようという制作側の意図によって実現したものだと思います。

 

ギターとトランペットのデュオ・ショーロというものはぼくはこれまで聴いたことがなかったかもしれません。それが大好きなアキレス・モラエスとジョアン・カマレーロの二名だっていうんですから、文句なしでしょう。途中ジョアンとアキレスのごく短い紹介クリップをそれぞれはさみながら、トータル約53分間、演奏されるのは14曲。なかに一曲だけジョアンのソロ・ギター・ピースもあります。

 

曲目はそれぞれ演奏開始時に動画の左上にも出ますけどそれは一瞬なので。動画説明文下部にしっかりぜんぶ書かれてあります。ジョアンとアキレスの自作曲が多いみたいですし、そのなかにラダメス・ニャターリ、パウロ・モウラ、ドミンギーニョスなどのクラシックスもまじっていますよね。

 

トランペットなど管楽器の演奏についてはなにもわからないぼくで(いや、ほかのどんな楽器だってわかりませんが)、演奏シーンがアップになったところでオッと思う部分はあまりないのでは。やはりジョアンのギターですよね、右手や左手が大写しになっているショットも多いため、なかなか楽しめるんじゃないでしょうか。

 

押弦する左手の動きもなめらかですが、今回発見したのは右手で弦をはじく様子です。ジョアンは伸ばした爪で弦をはじいているんですよね。どうりでいままでCDやサブスクで聴いてきた、あのアタックのとても強い鋭いサウンドが実現するわけです。ジョアンひとりが写っている時間がかなりあるので、みなさん確認してみてください。

 

二人の息もピッタリ、細かいフレイジングでのユニゾン合奏なども折々に混ぜ込まれ、それも寸分の狂いもなくピタッと合っていますから、事前にリハーサルをしっかり積んだのでしょうねえ。全体的にとてもこなれた演奏ぶりで、ショーロの粋やリラクシングな雰囲気が横溢、聴いていてとてもくつろげる、いいライヴですね。

 

(written 2020.12.12)

2021/01/01

ポスト演歌とはなにか

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(13 min read)

 

演歌がヒットチャートに入らなくなって久しいですね。ちょうど21世紀に入って10年ほど経過したあたりからかもっと前からか、CDが売れなくなって、みんながパソコンやスマホを使ってネットでダウンロードしたりストリーミングで音楽を楽しむようになった時代と、演歌が聴かれなくなった時代はほぼ合致しているようにみえます。

 

そんな、演歌が廃れた演歌後の時代、すなわちポスト演歌の時代にあって、あたらしい、いままでにないフレッシュな歌いかたをする新世代の新感覚演歌歌手がどんどん出てきているようにみえるのはなかなか興味深いところです。生き残りをかけて、というか新時代に則して、演歌の姿も変わりつつある、アップデートされつつあるということでしょう。

 

そんな新時代、いわばポスト演歌時代の演歌歌手といえるひとたちのことを、最近考えるようになってきています。全盛期だった1970年代からの演歌・歌謡曲ファンのぼくですが、2017年に岩佐美咲に出会って以来、ふたたびそんな世界をディグするようになっているんですね。

 

だからぼくにとっては岩佐美咲こそポスト演歌の時代を代表する最大の存在なんですが、ふとその周囲を見わたすと、同じような、似たような、新感覚歌唱法を実践している演歌歌手が、美咲の先輩でも後輩でも、けっこういるじゃないかということに気がつきました。

 

時代は変わってきているんですね。

 

そういった新時代の、ポスト演歌時代の、新感覚演歌歌手たちに共通する特徴と具体的な歌手の例を、きょうはちょっとあげておきたいなと思ってキーボードを叩いています。

〜〜

まず、ポスト演歌時代の演歌歌手たちに共通する歌唱法の特徴は、ぼくの聴くところ、以下の10個。

 

1)(演歌のステレオタイプたる)おおげさで誇張された劇的な発声をしない。

 

2)だから、泣き節、シナづくりといった旧態依然たるグリグリ演歌歌唱法は廃している。

 

3)フレイジングも、持ってまわったようなわざとらしいタメ、コブシまわし、強く大きいヴィブラートを使わない。

 

4)濃厚な激しい感情表現をしない、エモーションを殺す。

 

5)力まない、揺らさない、ドスを利かせない。

 

6)端的に言って「ヘンな」声を出さない。

 

7)代わりに、ナチュラル&ストレートでスムースな、スーッとあっさりさっぱりした声の出しかたや歌いかたをする。

 

8)発声も歌唱法も、ヴォーカル・スタイル全体がおだやかで、クールに抑制されている。

 

9)それでも演歌歌手らしい強めのハリとノビのある声は維持している。

 

10)このようなヴォーカル・スタイルで、旧来の演歌が表現していた非日常的な演劇性、物語性を除し、ぼくたちのリアルで素直な生活感覚に根ざしたストレート・フィーリングを具現化している。

〜〜

次いで、ぼくの見つけている範囲でのポスト演歌の歌手を具体的に列挙しておきます。これらはあくまで目立ったほんの氷山の一角であって、若手新感覚演歌歌手はたくさんいます。カッコ内の数字はデビュー曲の発売年。

 

・岩佐美咲(2012〜)

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ポスト演歌の象徴的存在。AKB48出身という、いかにも2010年代以後の日本を代表する演歌歌手ですね。ヴォーカルにわざとらしさや誇張がいっさいなく、ぼくたちのすぐそばにいるような日常感覚をそのまま移植したようなナチュラル&ストレートな自然体歌唱法が最大の持ち味です。

 

美咲は、演歌も歌謡曲もJ-POPも、どれも奇妙にならず同じように歌える資質を持っているのが強みですね。1995年生まれですから完全にいまの時代のポップスを吸収しながら育った世代で、身につけた時代感覚をそのまますっと発揮してくれているような気がします。

 

カンタンに言って、無個性、素直さ、いわば無色透明容器になれるのが美咲。それでもってそのなかに入れる中身=歌そのものの持つ本来的な魅力やパワーをそのままリスナーに伝えてくれる、スムースに歌の世界に感情移入させてくれる、そんな歌手です。

 

美咲はそんなスタイルを学習や訓練によって身につけたのではなく、そもそもの最初から生得的・本能的に持ちあわせていたあたりも、新世代の新感覚演歌歌手らしいところでしょう。

 

どんな旧いタイプの演歌楽曲を歌っても決して「クサく」ならないのが美咲。ここだけは(たとえ新世代であっても)だれもついてこられないところです。シングル表題曲はすべてSpotifyにあり。

 

・坂本冬美(1987〜)

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旧タイプの演歌歌手でしたが、近年、ポスト演歌の時代にあわせてあきらかに変貌しました。

 

注目すべきは2016年から三年連続でリリースされた『ENKA』シリーズ三作。有名演歌スタンダード曲をとりあげながらも、シリーズのメイン・アレンジャー坂本昌之の施した軽くやわらかくクールな(演歌らしくない)伴奏に乗って、冬美も抑制の効いたおだやかでストレートな発声と歌唱法に徹しています。この『ENKA』シリーズは、ポスト演歌の大傑作ですよ。Spotifyにあり。

 

考えてみれば、たとえば1991年に忌野清志郎&細野晴臣とHISを結成したり(冬美と清志郎との交流はつとに有名)、2009年にビリー・バンバンの「また君に恋してる」をカヴァーしたりすることがありました。2020年にも桑田佳祐作の新曲を出しましたよね。

 

「あばれ太鼓」「夜桜お七」といったステレオタイプな演歌イメージでは決してくくれない歌手です。

 

・氷川きよし(2000〜)

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岩佐美咲と坂本冬美の中間あたりの世代で、現在最も派手に活躍しているスター演歌歌手が氷川きよしでしょう。デビュー期こそ「箱根八里の半次郎」「きよしのズンドコ節」といった従来的な演歌楽曲を与えられそれにあわせたイメージの歌唱をみせていましたが、徐々に新世代らしい本来のポップな持ち味を発揮するようになりました。

 

近年は「限界突破×サバイバー」「Papillon」「ボヘミアン・ラプソディ」など、完全に新時代、ポスト演歌の時代の歌に突入した感があります。2020年リリースのポップ・アルバム『Papillon -ボヘミアン・ラプソディ-』は必聴。曲単位でちょっとだけSpotifyにあり。

 

きよしは、スムース&ナチュラルな新感覚ヴォーカル・スタイルを実践しながらも、その歌世界は従来的な非日常性・劇場性を具現化しているのが特徴でもありますね。

 

・丘みどり(2005〜)

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オリジナル楽曲では従来的な演歌世界をみせる歌唱法を残しつつ、そのヴォーカルはイージー&スムースな持ち味を発揮しています。フレーズ末尾やコーラス終わりでのヴィブラートも軽い or ほとんどなし、コブシもまったくまわしません。それでいながら声そのものに強さやセクシーさをただよわせることのできる歌手ですね。

 

2018年のアルバム『彩歌〜いろどりうた〜』や19年の『女ごころ〜十人十色』などSpotifyにありますので、ぜひちょっと聴いてみてください。特に前者にある「喝采」(ちあきなおみ)は逸品。

 

・中澤卓也(2017〜)

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まだオリジナル・シングルは五つですが、どれも中澤卓也にしか歌えない世界です。ヴォーカルというかヴォイスがやさしくやわらかいテイストで、ふわりと軽く丸く、ノー・コブシ、ノー・ヴィブラートで歌い、なおかつ声にゆったりとした深みとコクと甘みを持たせることのできる才能は稀有。

 

男性では卓也こそ若手新感覚派演歌歌手の代表でしょう。このまま順調に成長すれば、あと10年くらいで日本歌謡界を代表する存在になっている可能性があります。それくらいぼくは卓也に期待しています。

 

Spotifyにわりとあり。

 

・杜このみ(2013〜)

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民謡界出身ながら(民謡を歌うとき以外は)コブシをまったくまわさない、ヴィブラートもなしの、さっぱりしたロック・シンガーに通じる持ち味の演歌歌手。そんな楽曲を与えられているというのもありますが、このみのヴォーカルがポップでリズミカルなスタイルだから、というのが大きいですね。若いころの美空ひばりにちょっと似ているかも。

 

シングル・コレクションの1と2がSpotifyにあります。「初恋えんか節」なんかすごいですよ。第二集に収録されているテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」や美空ひばりの「真赤な太陽」なんかもかなりいいです。

 

大相撲の高安との結婚、妊娠で、いまちょっと歌手活動を休んでいますが、これだけの才能、復帰してくれることを願っています。

 

・水森かおり(1995〜)

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歌世界も歌唱法も旧世代寄りですけど、ポップスのカヴァーもたくさん歌っていて、そんなときは歌にあわせて新感覚のヴォーカルを聴かせます。旧来的な演歌歌手たちは軽めのポップスを歌うときでも演歌的濃厚さが顔を出すことが多かったのですが、かおりともなればそういうことはありません。

 

曲によりけりですが、持ち歌や旧来的な演歌を歌うときでも、あんがいナチュラル&スムースな声の出しかたをしていますよね。コーラス終わりでもノン・ヴィブラートですっと声を伸ばしています。

 

歌唱力でいえば、坂本冬美とならび当代ナンバー・ワンかも。

 

Spotifyで一曲も聴けないのはなぜ?

 

・純烈(2010〜)

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ヴォーカル・コーラス・グループで、演歌というよりムード歌謡ですけど、演歌的なレパートリーもポップスも同じようにスムースにこなせる腕前は、岩佐美咲と同系といえるかもしれません。Spotifyで可。

 

・辰巳ゆうと(2018〜)

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まだデビューして三年、オリジナル曲も四つしかないにもかかわらず、次世代を担うかもと目されている存在ですね。演歌と歌謡曲の中間あたりでノリよくナイーヴ&ナチュラルに歌いこなすという持ち味で、ちょっと往年の野口五郎に似たフィーリング。もたらない歯切れいいリズム感のよさは特筆すべきです。シングル表題曲はSpotifyで聴けます。

 

(written 2020.11.17)

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