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2021年4月

2021/04/30

美人すぎる演歌歌手?

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(6 min read)

 

数日前、ぼくも好きな演歌歌手の丘みどりが結婚・妊娠したというニュースが話題になっていました。年末のNHK『紅白歌合戦』(の是非はともかく)にだってなんども出場している歌手ですし、ファンの一部からは悲鳴があがったかもしれませんが、喜ばしいことです。

 

しかし、そのニュースを伝えた際の記事題がこうなっていたんですね↓

・紅白出場 美人すぎる演歌歌手・丘みどりが結婚「第一子出産」へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf29183a3fa85e361cc358972d60e021260d599f

 

「紅白出場」は実績だから言えばいいと思います。問題はやっぱり「美人すぎる」という見出しのフレーズですよ。たんに美人演歌歌手でいいのに、「美人すぎる」という表現をしてしまうあたりにこの記者のルッキズム(外見至上主義)が全開になっているのを読みとることができて、かなりイヤな気分になりました。

 

ジェンダー問題に関連しルッキズムやセクシズムがこれだけ問題視されている昨今、芸能やスポーツ関係のマスコミはいまだにこんなていたらくなのかとあきれて声も出なかったといったのが正直なところ。

 

歌手としての歌の力量と容貌の美醜とはなんの関係もないでしょうに。

 

実を言うと、世のマスコミ界隈では「美人すぎる」があふれかえっています。「美人すぎる市議」「美人すぎるリポーター」「美人すぎる海女」「美人すぎる広報」「美人すぎるバス車掌」「美人すぎる獣医」「美人すぎる小説家」「美人すぎる首相」「美人すぎるバイオリニスト」、、、いや、もうキリがありません。「美人すぎる」でちょっとネット検索してみてください。

 

それら、すべて本業の仕事の成果でニュース・ヴァリューを判断されているんじゃないんですよ。たんに女性の、その見た目の、美しさだけで、うんぬんされているわけです。

 

モデルとか俳優とかであれば、ルックスが意味を持ってくることを理解できます(もちろんきれいで痩せているということだけが価値じゃない)。でもアスリート、政治家、歌手などのばあいにもそれを強調されるというのはどういうわけなんですか?仕事の能力と関係ないじゃないですか。

 

アスリートなら競技能力、政治家なら行政手腕や政策、歌手なら声やヴォーカルの力量で判断されるべきじゃないんですか?

 

しかもこうしたことは女性のばあいにのみ起こることがらなんですよね。

 

こういうのって完璧なる女性蔑視、差別主義です。男性は仕事ができるかできないかで、その職務内容や人柄で評価されるのに、女性のばあいだけなぜかそうじゃなくてルックスの美醜で判断されるっていう理不尽。あえてルックスも仕事の一部であるとまでいわんばかりの勢いじゃないですか。

 

アナウンサー業界だって、女性は20代のころがいちばん忙しく、加齢とともに仕事が減っていくそうですが、おかしいでしょう。仕事であるアナウンスの技術はむしろ上がっているはずなのにねえ。テレビ画面などに映る顔だけが重視されている証拠です。そもそも美人でないと新人採用すらされないとか。おかしいでしょう、しゃべりの技量で決めればいいのに。

 

結婚した丘みどりのばあいも、それをニュースにするならその歌手としての実力や業績で人物やキャリアを紹介すればよかったんじゃないんですか。それがみどりの本来の仕事なんですから。やっぱりなにをやっているか、やってきたか、どれほどの仕事の実力の持ち主かに言及されるべきでしょう。

 

それなのに、女性のばあいだけ外見や愛嬌などが取り沙汰されるのには、とてもとても強い違和感をおぼえます。女性差別以外のなにものでもないなと。美人すぎるという紹介では、歌手としてみどりがどうすぐれている、どんな魅力の持ち主か、なにも伝わってこないです。

 

「美人」だとか「ママさん」などと言う前に、まずひとりの職業人としてその仕事内容やその力量をちゃんと認め評価してほしいなと強く強く思います。もちろん歌手などはテレビ番組やライヴ・ステージやCDジャケットなどでその容貌がひとまえに出る機会がとても多いし、そこがいいと感じるファンも一部にはいるだろうことは知っています(歌を聴けよ、とは思うけど)。

 

でもそこには、みどりがそれまで歌手として成功するためにどれだけの努力を重ねてきたのかというキャリアや事実は無視されたままなんですよね。みどりがどれだけすばらしい歌を歌えるかということもまったく伝わりません。それこそがいちばん大切なことのはずなのに。

 

もうそろそろ「美人すぎる」との表現で女性を紹介するのは終わりにしてほしい。たとえとてもすばらしい美人であったとしてもです。あくまでなにをやっているか、仕事がどれだけできるのかといった実力や業績を伝えてほしい。歌手なら(外見ではなく)歌唱のすばらしさを言うべきです。

 

若手演歌歌手なら杜このみでも丘みどりでも岩佐美咲でも中澤卓也でも、歌がすばらしいと思うからこそぼくはCD買ったり有料配信聴いたりして応援しているのであって、ルックスがきれい、かわいい(からステキ?)みたいな部分には重きを置いていないです。

 

顔の美醜より、喉、声、歌!これに尽きます。

 

(written 2021.4.29)

2021/04/29

ブルー・ノートのロー・ファイ・コンピ第二集が出ました

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(5 min read)

 

Bluewerks Vol.2: In Full Bloom

https://open.spotify.com/album/5cI60GHS43jJllXAUesAzV?si=jMHLAq7YRcm4dBVWH_tm7A

 

またまた出ました『ブルーワークス』。もちろん今度は第二集で、2021年4月のリリース。ブルー・ノートとアストラルワークスのコラボで展開するロー・ファイ(Lo-Fi)のコンピレイション・シリーズです。デビューだった第一集のことは三月に書きましたね。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-4c143d.html

 

くりかえしになりますが、日本語で言及しているひとがほぼいない(「ロー・ファイ」名での文章は皆無)のでいまだ知れわたっていないものと思いもう一度書きましょう。ロー・ファイ(Lo-Fi)という音楽は、いままでロー・ファイ・ヒップ・ホップという呼び名でも流通してきたもので、主にムーディなジャズ・サウンドとダウンテンポなエレクトロニクス・ビートとを合体させたもの。

 

昨年三月に書いたこの記事も参考にしてみてください。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-6d1d25.html

 

それで、ロー・ファイはCDなどのフィジカルでは発売されず、ほぼもっぱらSpotifyやYouTubeなど配信、ストリーミングで聴かれているものなんです。日本でイマイチ人気が出ないのはこのへんにも理由があるのかもしれないです。日本は(ガラパゴス的に)まだまだフィジカル・マーケットが幅を利かせていますから。

 

元来(ヒップ・ホップな)ビート好きのぼくは、ロー・ファイに出会って以来、この種の音楽がすっかり気持ちよくて、日常的によく聴く、っていうかBGM的に流すものとなっています。そう、ロー・ファイは決して対面して聴き込むようなものじゃありません。カフェとか自室とかでくつろいだり読書したり勉強したりなどする際の雰囲気、空気なんですよね。

 

そんなロー・ファイが一定の人気を得ているのを受けて、今2021年に入り突如、老舗ジャズ・レーベルのブルー・ノートが、エレクトロ・ミュージック・レーベルのアストラルワークス(Astralwerks)と組んで、新たなロー・ファイ・プロジェクト・シリーズを発足。それを「ブルーワークス」(Bluewerks)と名付けたんですね。

 

ブルーワークスが注目されるのは、やはりなんといってもかのブルー・ノートがロー・ファイ分野に進出したという事実からでしょう。主にハード・バップなどメインストリーム・ジャズを録音・発売する会社として名をなしたブルー・ノート、21世紀に入ってからは情熱的に新世代ジャズもリリースしていますので、最新ジャズ・サウンドの一種ともいえるロー・ファイに挑戦するのは難のあることではありません。

 

『ブルーワークス』の第二集『イン・フル・ブルーム』のオープニング・トラックでは、ブルー・ノートの社長ドン・ワズみずから登場していますよね。ドン・ワズ(と自己紹介している、正確にはダン・ワズ、ウォズじゃない)の声を聞いたのははじめてだったかもしれません。

 

第二集の問題点は、あまりにも尺が短すぎるということだけでしょう。たったの約15分しかないんですよね。ロー・ファイは雰囲気をつくるレイドバック・ミュージックだから、ある程度まとまった長さが必要なのに、15分では気分がちょっとくつろいできたかな?と思える前に終わってしまいます。一時間程度は必要ですよねえ。実際、Spotifyで聴けるロー・ファイのプレイリストはどれもけっこう長尺です。

 

このへんは、このシリーズを続けていく際の今後の課題でしょうねえ。といってもドン・ワズみずから「EP・サーガ」と言っていますし、第一集も17分程度でしたし、これくらいでポンポン出すから、あとはみんなでまとめてプレイリストにでもしてね、ってことかもしれません。

 

ともあれ、ロー・ファイは心地よく、こちらの緊張をほぐしてくれる音楽。なんとなくのムードだけでジャジー・サウンドを流しておきたいという向きや、ぼくみたいにヒップ・ホップなエレクトロ・ビート愛好家にとっても格好のレイドバックなんですよね。真剣に向き合って聴く音楽もいいけど、ときどきこういった雰囲気一発のリラクシング・サウンドもいいもんです。

 

(written 2021.4.28)

2021/04/28

マルコス・ルファートの『Vata』がいい

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(3 min read)

 

Marcos Ruffato / Vata

https://open.spotify.com/album/5bcNsjoDwQE1YQrdw9Lfxr?si=yW49iNDwTOWQ2IQvNzhgIw

 

ブラジルはミナスジェライスのシンガー・ソングライター/ギターリスト/アレンジャーであるマルコス・ルファートの昨年の新作『Vata』(2020)。かなり話題になっていましたよね。年間ベストに選ぶかたもいて、気になっていました。ようやくいまごろ聴きなおし書く気になっているという。腰が重かったのはミナスだからかなあ。

 

でもメロディとハーモニーの美しさは掛け値なしですばらしいとぼくも思っているんですよね。特に印象に残った部分だけちょこちょこっときょうはメモしておきますが、まずいかにもミナス派という1曲目で幕開けしたのちの2曲目「Carta ao Patriota」。マルコスのナイロン弦ギターとダヴィ・フォンセカのエレピが印象的で、美しき静謐を思わせる曲調がステキ。でも最も惹かれるのは演奏後半のエレキ・ギター・ソロですね。それがフェリピ・ヴィラス・ボアス。ほんとうにすばらしく美しいギター・ソロで、聴き惚れます。

 

ブラジリアン・ロックなテイストもある3曲目を経て、4曲目「O Passo Faz o Chão」ではイレーニ・ベルタシーニの歌声がきれい。ソプラノ・サックスはだれだろう、ちょっとウェイン・ショーターみたいでなかなか聴けますよね。終盤パッと曲調が変化してのヴォーカル・コーラスはいかにもミナス新世代的。

 

5曲目「Frevo pra Acordar」はフレーヴォというより軽快なマルシャで、これも好き。ここではなんといってもトニーニョ・オルタの参加が耳をひくところ。ギター・ソロもきれいだし、実にいいですねえ。ちょっとパット・マシーニー・グループっぽい曲というか、そもそもパットがミナス音楽の影響下にあるんですよね。

 

ドラマティックに展開する8曲目の後半も好きですけど、サンバである9曲目「Farol」がなんといっても楽しいです。パーカッション群もステキ、と思っていたらあっというまに終わって続く10曲目「Setembro」へ。ここではベテランのセルジオ・サントスのヴォーカル参加が聴きものでしょう。トロンボーンの使いかたもうまいサンバ/ボサ・ノーヴァ・リズムの11曲目もいい。12曲目もリズムとメロディがきれいですね。

 

(written 2021.1.31)

2021/04/27

デアンジェロ・シルヴァの新作『ハングアウト』がカッコイイ

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(4 min read)

 

Deangelo Silva / Hangout

https://open.spotify.com/album/13BUf137SNQHGwGEfDeYcX?si=V-iT_jIsR_agnUWvzC4CFw

 

ブラジルの鍵盤奏者デアンジェロ・シルヴァの新作『ハングアウト』(2021)がかなりいいですよね。Spotifyでは2021となっていますけど、2020年12月頭から聴けました。ところでこのひと「ディアンジェロ」となっていることが多いですが、ブラジル人でしょ、デアンジェロじゃないんですか。

 

『ハングアウト』、デアンジェロの鍵盤を中心とするカルテット編成で、ギター、ベース、ドラムス。音楽的にはジャズ・フュージョンと言っていいでしょうね。ブラジリアン新世代ジャズといった趣きですが、デアンジェロのジャズにブラジル色はこれまたほぼないので、ブラジリアンということばを付ける必要がないかもですね。

 

なにも予備知識なしに聴いていて、このドラムス、ずいずんいいな、だれだろう?と思って見たら、なんとアントニオ・ロウレイロじゃないですか。こういうドラミングができるひとだったんですね。このひとのピアノ演奏はまったくダメなぼくで、生理的に受け付けられないんですけど、ドラムス演奏はたぶんはじめて聴いたような気がします。見なおしましたね。っていうかそもそもはドラマー/パーカッショニストなひとなんでしたっけ。

 

全般的にちょっとウェザー・リポートやパット・マシーニーなんかを連想させる今回のこの『ハングアウト』、スペイシーなエレクトリック・ジャズでありながら、特に複雑な変拍子ビートがびしばし決まるアップ・ビーターはマジで快感。だからやっぱり1「Berlin」、3「Jack Herer」、4「My New Old Friend」ですかね。なかでも4曲目は大のぼく好み。

 

それらの曲ではアンサンブルとソロのバランスもとれていて、そこはいかにも新世代ジャズ。一分の隙もなくキメていく複雑なアンサンブルのあいだを、主にデアンジェロの鍵盤ソロが縫って活躍しているといった具合です。いやあ、ほんとうにカッコイイですね。アントニオのドラミングもすばらしいのひとこと。っていうか、あまりに気持ちいいのでちょっと惚れちゃいましたね、このドラマー。このドラムスだけずっと聴き続けていたい。

 

フェリピ・ヴィラス・ボアスのギターだっていいし、ブラジル色があまりないっていうのはいまの新世代ブラジル・ジャズ・ミュージシャンたちに共通する特色かもしれないですね。1曲目「Berlin」にしたって、(特に演奏後半の)キメの多いコンポジションがとてもよくできていますけど、アメリカのエレクトリック・ジャズのなかに混ぜたってなんの違和感もないです。デアンジェロのソロもいいけど、なんたってアンサンブルが気持ちいいし、そのなかで躍動するアントニオのドラミングも快感。

 

上でも書いたけど、高速でテクニカルにキメまくる4曲目「My New Old Friend」のグルーヴがやっぱりほんとうに気持ちよくて、これがぼくとしては今回の新作のクライマックスですね。カルテットの四人とも技巧的に文句なしで、練り上げられたコンポジションがみごとですけど、これだけの複雑な演奏をビシバシこなせるということに感心し、それになんといっても聴いていて快感です。

 

エフェクトやシンセサイザーでの音響的な効果がかなりくわえられた多層レイヤーなスペイシーな音楽で、アクースティックなジャズのソロ・インプロヴィゼイション的スリルは減じているかもしれないですね。前作『ダウン・リヴァー』を称賛したみなさんはそのへんイマイチかもしれないですけど、ぼく的には『ハングアウト』もなかなかいいぞと思います。

 

(written 2021.1.29)

2021/04/26

ツェッペリンのブルーズ・ナンバーを集めてみた

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(5 min read)

 

https://open.spotify.com/playlist/0ycILYcYH0u3o1UNEEftrU?si=IDISEw4xQsGQOo3V1qNIkA

 

レッド・ツェッペリンのブルーズ・ナンバーだけを抜き出して、Spotifyで一個のプレイリストにまとめました。それが上のリンク。厳密な定型12小節3コードものだけにしておこうかと最初は思っていたんですけども、それで聴いてみたらあまりおもしろくないものができあがってしまったので、ちょっとしたブルーズ変型やリズム&ブルーズ調も入れました。

 

やっぱりバンドの活動前半期が中心になるのか、というとあんがいそうでもなく、いちばんたくさん選ばれているアルバムは『フィジカル・グラフィティ』ですよね。このへんは、ある程度ブルーズ・フォーマットにこだわったからというのもあります。ブルーズ・ベースの曲という幅広い意味でならたしかに初期に多し。

 

1960年代デビューのブルーズ・ロック・バンドなんだから定型ブルーズやそれっぽいものばっかりだろう、なにをいまさら、と言われるとわりとそうでもないんだというのも、やはり発見でしたね。フォークやトラッドなど、英国のさまざまな音楽要素が溶けあってできあがっていたバンドだったのを再確認しました。

 

このプレイリスト中、特に好きだという数曲の話をしておきましょう。まず『コーダ』(1982)収録ヴァージョンの「アイ・キャント・クイット・ユー・ベイビー」。1969年のライヴからなのでこの位置ですが、これ、どう聴いてもファースト・アルバム収録のスタジオ・ヴァージョンよりいいでしょう。はるかにいい。ジミー・ペイジのギター・サウンドもソリッドだしソロは聴かせるし、ロバート・プラントの声も飛翔しています。

 

プレイリストだと続いている次の「ザ・レモン・ソング」(『II』1969)。剽窃しまくりのパクリ曲なでそこはちょっとあれですけど、ツェッペリンの全キャリアで定型12小節3コード・ブルーズのなかでは個人的にいちばん好きかも。たぶんそれは最高にブルージーだからですね。いかにも1960年代UKブルーズ・ロックという香りがします。中盤のペース・ダウンしたパートでのジョン・ポール・ジョーンズのベースのうまさにも刮目すべき。

 

「ロック・アンド・ロール」(四作目、1971)。歌の部分が24小節でギター・ソロだけ12小節という構成ですが、ロックンロールがまぎれもないブルーズであることを、ここでもまた実感できますね。この曲はあとに続く多くのロック・バンドがカヴァーしているし、アマチュア・バンドにとってもスタンダードでした。爽快で文句なし。

 

アルバム『フィジカル・グラフィティ』(1975)から選んだものはどれも好きですが(そもそもこのアルバムのことが大好き)、なかでも「カスタード・パイ」。これも剽窃しまくりの一曲ですが、このファズで歪めまくってグチャっとつぶれたエレキ・ギター・サウンドがたまらない快感です。3・2クラーベのリズム・パターンを応用したリフのビート感も心地いい。プラントのハーモニカもアンプリファイドされ歪んでいて最高ですね。

 

「ブギ・ウィズ・スチュ」と「ブラック・カントリー・ウーマン」は、アルバム編集の妙で、ぼくのなかではメドレーというかひと続きのものとして認識されています。どっちもアクースティックな音像が楽しいですね。前者でピアノを弾くスチュとはローリング・ストーンズのイアン・スチュワート。後者ではジョンジーの弾くマンドリンもいい感じ。

 

『プレゼンス』(1976)から選んだ「キャンディ・ストア・ロック」はロカビリー調で、これまた大好き。それでいながらかすかにラテンなリズム・シンコペイションも効いています。『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』(1979)ラストの「アイム・ゴナ・クロウル」はブルーズではなくリズム&ブルーズ調バラードですけど、切なくていいですよねえ。シンセサイザーだけどストリングスもきれい。

 

(written 2021.1.28)

2021/04/25

ペルシア古典音楽の美 〜 アティネ

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(3 min read)

 

Atine / Persiennes d’Iran

https://open.spotify.com/album/0vbZycINjZ27jE5havjIMQ?si=bcpu7UDuSMe0izw7lMRXBA

 

ペルシア古典音楽のスペシャリストたち五名によるグループ、アティネのデビュー・アルバム『Persiennes d’Iran』(2020)を聴きました。さわやかで、なかなかいいですよ。どこで活動しているかなどくわしい情報がないんですが、アルバム題がフランス語で、アコール・クロワゼのリリースだから、フランスですかね?

 

ヴォーカル、タール、カーヌーン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、トンバクという五人組らしく、たしかにペルシア古典音楽の楽器をベースとしながらも、そこにアラブ系のものもまぜているということですね。アルバム内容は完璧なペルシア音楽です。

 

アコール・クロワゼのサイトはもうちょっとくわしい情報を載せておいてほしいよと思わないでもないです、ほかにネット上に情報がないんだしねえ。でも音楽そのものを聴いて判断してほしいっていうことでしょうか。このレーベルのアルバムはCDでも付属の記述は簡素ですよね。

 

アティネの『Persiennes d’Iran』、最大の印象は上でも書きましたが、さわやかだということ。それから古典的できわめて端正だなということもあります。みずみずしい印象を残す演唱で、ヴォーカリストの腕前はそこそこかなと思いますけど、楽器奏者の演奏が一級品です。

 

特に目立つのはタール奏者の極上フィーリング。ペルシア伝統楽器のなかでも最重要とされているリュート属撥弦楽器で、カラカラっていうこの楽器の独特の音がぼくは大好きなんですね。以前、タールとトンバクのインストルメンタル・デュオ・アルバムのことを書いたことがありますが、タールはほんとペルシア音楽のすばらしさを実感するサウンドです。

 

アルバムに収録されている曲が古典ナンバーなのかメンバーの自作なのかもわからないんですが(ホントこのへんはアコール・クロワゼのサイトに書いておいてほしかった、メンバーの名前すらわからないし)、ずっと続くペルシア古典音楽のその伝統にのっとった音楽であることは間違いありません。

 

きらびやかでもあるけれど、しかしムダな装飾を廃し、引き締まった痩身の美を聴かせてくれるアティネ。これが現代における古典の表現だと納得させてくれる演奏ぶりで、聴き手のこちらもキリッとしますね。

 

(written 2021.1.27)

2021/04/24

ミウラさん…?(選択的夫婦別姓が実現してほしいもう一つの理由)

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(6 min read)

 

https://www.youtube.com/watch?v=u7n_3Z0y_Yg

 

今朝の夢のなかに離婚した元パートナーが出てきました。名前をかりにまゆみさんとします。まゆみさんとぼくはそのとき都心の大きな家電量販店にいたんですけど、でも不思議なことにそれは大規模ショッピング・モールの一角だったのです。

 

大規模ショッピング・モールって、だいたい基本どれも郊外型ですから、都心にあるのはおかしいですが、そこは夢ですから。その家電量販店にあるパソコン・コーナーでぼくたちは、なにかを物色しながらしゃべっていました。新しい一台でも買おうということだったのでしょうか。

 

そして、まゆみさんはWindowsマシンをぼくにすすめてきたのです。これはめっちゃ意外でした。そもそも現実人生でのぼくは、まゆみさんのすすめでMacを買い、それに惚れちゃって、その後もずっと(私生活では)Macしか使わない人間であることを彼女もよく知っています。もちろんまゆみさんも根っからのApple信者でMacユーザー(それでぼくは折伏されたんですから)。

 

それでも「仕事で必要になることがあるかもしれないでしょ」とかなんとか言って、その家電ショップではNEC製かどこかのパソコンをぼくにすすめていました。それで、どれかのデスクトップ型マシンを店員さんに見積もってもらい、その値段が出るまでぼくは店内に置いてある種々のパソコンを触って遊んでいました。

 

しばらくして、店員さんがぼくたちのところに戻ってきました。率先して店員さんに相談していたのはまゆみさんでした。そして、戻ってきた店員さんは彼女の名前を呼ぶとき、「ミウラさん」と発したのです。

 

えっ、ミウラ?戸嶋じゃないのか…。

 

そのときはじめて、ぼくは元パートナーのまゆみさんが再婚したんだと知りました。

 

そう、現実生活でも、ぼくたちはなにも憎みあって別居をはじめたわけじゃありませんでしたから、2011年にぼくが愛媛に戻るまではときどき会っていっしょに食事をしたり映画を観たり買いものをしたりなんてことは日常的でした。だから、家電量販店でいっしょにパソコンを物色するのもそんなにどうってことなかったのです。

 

しかし、ずっと独りでいるぼくと違って、マトモな人間であるまゆみさんは(当然ながら)ぼくの知らないうちに新しいだれか(ミウラさん)と恋愛し、再婚していたのでしょう。パソコン・コーナーの店員さんが「ミウラさん」と呼ぶそれで、ぼくははじめて事実を悟ったのです。

 

ショックでした。

 

でもなぜなんでしょう、離婚しているんだから、新しいパートナーがいたってまったく不思議ではないはずです、それなのに…。

 

元パートナーに新しいだれかがいる、再婚したというのが、やはり軽いショックだったというか、家電量販店内を二人でぶらついたりするのもちょっとしたデート感覚、恋人同志とまではもはや言えないけど、ちょっとそんな、それに近いフィーリングを勝手にぼくのほうだけは感じて、いい気分だったんですからね。

 

そのとき、夢のなか、家電量販店で新しいパソコンを買ったかどうかまでは憶えていません。憶えているのはお店を出て、帰りの電車に乗るとき、あの光景はおそらく新宿駅だったのですが、ぼくは西へ向かう京王線に乗ろうとするとき、まゆみさんから私は逆方向だから、じゃあね、と言われてそこで別れたことです。後ろ髪を引かれる思いでした。

 

夢に出てきた今朝のまゆみさんは、終始ずっとおだやかな笑顔で優しくて、ぼくにやわらかく接していました。蜜月時代となんら変わらない表情をしていたのです。幸せそうでした。新宿駅で別れ、ぼくはなんだか甘い、切ない、そして哀しく苦しい、そんな複雑な気分をかみころしながら京王線のシートに腰掛けたのでした。

 

そこで目が覚めたら、まだ朝の五時半でしたけど、窓の外からは鳥たちの鳴き声が聞こえてきました。

 

現実人生では、元パートナーのまゆみさんは離婚後もずっと旧姓に戻さず、戸嶋姓のままでいることをぼくは知っています。結婚時であれ離婚時であれ、改姓とそれにともなう諸手続きはだれにとっても超煩雑でうんざりするもの。でもそんな手続き上のわずらわしさを避けたいというだけではない、なんらかの心情が彼女のなかにあるのかもしれないと、おろかなぼくは根拠もなくぼんやりとそう考えていました。

 

そうだから、夢とはいえ「ミウラさん」がショックだったわけですが。

 

近年巷間で大きな話題となっている選択的夫婦別姓制度が正式に法整備されれば、婚姻届を提出する際、同姓にしてもいいし、どちらも改姓しないことだって選べます。結婚はあくまで個人的事情、プライバシーにかかわることで、それが表に出ることを望まないひとも大勢いるはずです。改姓したことで、なにかの拍子にその事実が他人にわかり、なんらかの意味で不都合を感じることだってあるかもしれないですね。

 

https://www.youtube.com/watch?v=oR2O1phsrwA

 

(written 2021.4.23)

2021/04/23

非西洋圏のモスト・フェイヴァリット 9

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(8 min read)

 

・Carmen Miranda / Imperatriz do Samba(ブラジル、1930s)
・Fairuz / Immortal Songs(レバノン、1950s)
・Saloma / Dendang Saloma(シンガポール、1950s〜60s)
・Elvy Sukaesih / The Dangdut Queen(インドネシア、1970s〜80s)
・鄧麗君 / 淡淡幽情(香港、1983)
・Nusrat Fateh Ali Khan / Live at WOMAD 1985(パキスタン、1985)
・Orchestre National de Barbès / En Concert(マグレブ / フランス、1996)
・Paulo Flores / O País Que Nasceu Meu Pai(アンゴラ、2013)
・Irineu de Almeida e o Oficleide 100 Anos Depois(ブラジル、2016)

 

(カッコ内に記した録音年代順に並べました)

 

なんだか、非英語圏オール・タイム・ベストだとか非西欧フェイヴァリットだとか、そんな音楽リストを書くのがここ数日ちょっとだけTwitterで流行っているような気がします。真似してぼくもやってみました。

 

「非西洋」としたのは、要するにアメリカ、イギリス、ヨーロッパなど世界のメイジャーな音楽産業の外にある音楽というくくりです。日本語母語話者なので日本の音楽も外しました。

 

ベストテンじゃなく9にしたのは、ひとえに上掲画像のように正方形にタイルしたかったから。それだけ。

 

しかしこのセレクションは悩みました。選べなかったもののなかに後ろ髪引かれる音楽家やアルバムがたくさんあり。ほんとうに大好きでよく聴くものだけに限定したわけですが、それでもねえ。同じ国・地域があまり重ならないようにとは配慮しましたけれども、ブラジルが二つになりました。

 

それでもいちおうぼくの非西洋圏音楽についての嗜好というか趣味みたいなものはだいたい漏れなく入れることができたんじゃないかという気がします。だからぼくのワールド・ミュージックの聴きかたはほぼこんなもんです。もっともそれ以上にアメリカン・ブラック・ミュージック好きなんですけれどもね。

 

きょうはそれぞれの紹介項にSpotifyリンクを貼りませんでした。聴けないものが多いからです。それら、CDだっていまや入手がややむずかしいのかもしれませんが、う〜ん、ちょっとなんとかならないのかなあ。テレサ、ヌスラット、ONB、イリニウ・ジ・アルメイダはサブスクにあります。

 

以下、カッコ内の数字はCDリリース年。カルメン、サローマ、エルフィのは日本独自編集盤。それら以外は本国盤を買いました。

 

・カルメン・ミランダ『サンバの女王』(ブラジル、2002)

 アメリカ合衆国に渡ってからも活躍したカルメンですけど、その前、1930年代のこの歌手の飛翔ぶりに匹敵できる歌手が、はたして古今東西どれだけいるでしょうか。技巧も超絶的に最高だけど、それをそうと感じさせない自然なチャーミングさを発揮しているのが驚異。ラテン好きというぼくの資質をこれで。

 

・フェイルーズ『イモータル・ソングズ』(レバノン、1993)

 大好きなアラブ歌謡をフェイルーズで代表させておきます。といってもフェイルーズのばあいウム・クルスームなどのいかにもなアラブ古典系ではなく、ラハバーニ兄弟のプロデュースのもと、モダンなポップスを展開したわけですけどね。炎の情熱をシルクのなめらかさで表現できた稀有な才能でした。

 

・サローマ『ポリネシア・マンボ~南海の国際都市歌謡』(シンガポール、2013)

 マレイシアの歌手ですけれど、このアルバムに収録された音楽を録音した時期のサローマはシンガポールで活躍していて、まだマレイシア樹立前のことです。国際的に洗練されたコスモポリタン・ミュージックで、ジャジーなラテンふうポップスが多いのも好きですね。

 

・エルフィ・スカエシ『ザ・ダンドゥット・クイーン』(インドネシア、2005)

 ダンドゥットは下層庶民歌謡の代表格。だからエルフィも濃厚に妖艶でお色気ムンムン。このアルバムに収録されているプルナマ・レーベル時代は彼女の全盛期でした。同国のクロンチョン歌手ヘティ・クース・エンダンに通じるようなサッパリしたナチュラル風味をも発揮することがあり。魅力をふりまくエルフィにはヤミツキになるパワーがあります。

 

・鄧麗君『淡淡幽情』(香港、1983)

 日本でもテレサ・テン名でおなじみ。台湾生まれ、東アジア全域で大活躍しました。中国語で歌ったこの最高傑作(香港盤がオリジナル)は、近年ぼくがいだきつつある<歌手とはどういうものなのか>の理想型にあるともいえ、自然体で、おだやかな菩薩のように聴き手を優しく抱擁するそのヴォーカルは、実はとんでもないスゴミに満ちています。

 

・ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン『ライヴ・アット・ウォマド 1985』(パキスタン、2019)

 いっぽうで、強く声を張りぐりぐりコブシをまわすハガネのように強靭な咆哮系ヴォーカルも大好きなぼく。そんな趣味を、ヌスラットの、このひょっとしたら最高傑作ライヴと言えるかもしれないもので代表させます。サリフ・ケイタとかユッスー・ンドゥールとか、あるいはアマリア・ロドリゲスなんかもこれで。

 

・オルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス『アン・コンセール』(マグレブ/フランス、1997)

 ライ、シャアビ、グナーワなどひっくるめた汎マグレブなミクスチャー音楽ですね。マグレブとはモロッコ、アルジェリア、チュニジアなど北アフリカ地域のこと。ライヴでもりあがるこの熱の高さは異様。ONBのこのアルバムとの出会いは、ぼくのアラブ系音楽好きの素地をつくったもの。バンドの演奏はジャズ・フュージョン系の熟練テクニックでもありますね。

 

・パウロ・フローレス『オ・パイス・ケ・ナスシウ・メウ・パイ』(アンゴラ、2013)

 ブラック・ミュージックをやっぱり一つは入れておかないと。これがきっかけでアンゴラのセンバにすっかりハマってしまいましたが、ある意味21世紀の汎世界的ブラック・ミュージック集大成みたいなアルバムかもしれません。グルーヴィで、哀しく、美しい音楽。

 

・『イリニウ・ジ・アルメイダ・エ・オ・オフィクレイド・100・アノス・ジポイス』(ブラジル、2016)

 ジャズがきょうのくくりからは外れるため、インストルメンタル・ミュージック好きという嗜好をこれで。でもショーロはジャズより長い歴史がある音楽なんですよ。かけっぱなしにして部屋のなかでずっと流していて快適、BGMにしてよし聴き込んでよし。30年に一作レベルの傑作です。

 

(written 2021.4.21)

2021/04/22

クラブ系グナーワ・ビート 〜 ラビ・ハルヌーン&V・B・クール

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(3 min read)

 

Rabii Harnoune, V.B. Kühl / Gnawa Electric Laune

https://open.spotify.com/album/3BuCU5sCIKwbIgOcw7POKI?si=M5iLeWmNSlSjqSGZEv6Ftg

 

モロッコの若手グナーウィ、ラビ・ハルヌーンと、ドイツのプロデューサー、V・B・クールが組んだアルバム『Gnawa Electric Laune』(2020)がちょっとおもしろいんじゃないでしょうか。ラビがゲンブリ&ヴォーカル、VBがエレクトロニクス担当です。カルカベや生の打楽器も聴こえますけど、それらはだれの演奏?

 

ともあれ、ラビのゲンブリ&ヴォーカル弾き語りをあくまで基本としながらも、そのグナーワ・ミュージックの魅力をより現代的に世界に拡散させたいという本人の意向で、VBが音響面の補強をやっているコラボ・アルバムだと受けとることができますね。ムーンチャイルドやクオンティックを擁するTru Thoughtsからのリリースです。

 

ディープなルーツ・グナーワを原型としつつ、そこに現代的なサウンド処理を施していくというのは、すでに1990年代からハッサン・ハクムーンもやっていたし、マフムード・ガニアもチャレンジしていたということで、いまさら目新しい試みではありません。彼らはそれなりの成功もおさめてきました。

 

ラビ&VBのこのアルバムだと、それをもっとグッと現代的なクラブ・ミュージック趣向に寄せたという感じがします。それで親近感を増し、グナーワなんてものになんの興味もない、知りもしない、というクラブ・ミュージック・ファン向けにも聴きやすい音楽に仕上げたということは言えるでしょう。

 

んで、実際聴いていたら、これ、なかなか気持ちいいんですね。ラビのゲンブリとヴォーカルの線がやや細いような気もしますが、この種の音楽にはこれくらいでちょうどいいのかもっていう気がします。もしこれ、VBのエレクトロニクス抜きでラビの弾き語りだけだったら物足りないグナーワ作品に聴こえてしまっていたところかもしれませんけどね。

 

だから、いい感じに聴こえる最大の要因はやはりVBの貢献です。低音ビートや鍵盤ベースを付与したり、ただでさえゲンブリがベース役なんですけどそこにベース音をさらに足すことで、独特の音響を生み出すことに成功しています。ビート、というか打楽器音の処理も、出すぎず、かといって足りないという程度でもなく、ちょうどいいクラブ・ビート感をくわえていますよね。エレピ等のサウンド・エフェクトもグッド。

 

VBがでしゃばりすぎないちょうどいい節度でエレクトロニクス・サウンドをくわえることで、ラビのグナーワ・ミュージックの、それだけだとちょっと物足りないかもしれない魅力を増大させることに成功していると言えましょう。1、2、9曲目など、あくまでゲンブリのトランシーなサウンドの魅力をきわだたせるよう配慮されているプロデュースで、好感が持てますね。

 

(written 2021.1.26)

2021/04/21

シャーリー・スコット『ワン・フォー・ミー』の再発を聴いた

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(4 min read)

 

Shirley Scott / One for Me

https://open.spotify.com/album/6jDl0uJPjIWg66xI7c7Vff?si=bQ1ID1GnQua5K4_UyqBr5A

 

昨年のリイシュー・トピックのひとつに、オルガン奏者シャーリー・スコット『ワン・フォー・ミー』(1974年録音75年発売)の再発ということがありました。ジャケットも変更して、アーク(Arc)というところが発売したんですね。サブスクにも入りました。こりゃどう見てもリイシュー・ジャケのほうがいいです。

 

シャーリー・スコットは、テナー・サックス奏者スタンリー・タレンタインのパートナーでしたよね。1960年代の話で、私生活でも仕事面でもコンビを組んでいました。『ワン・フォー・ミー』録音のころには別れていたんじゃなかったでしょうか。

 

とはいえ音楽性がそんなコロッと変わるわけもなく、『ワン・フォー・ミー』でもやはりソウル・ジャズ路線をそのまま継続。しかし1970年代だけあるっていう時代性も発揮していて、それは主にジャズ・ロックっぽいノリと、ブラジル音楽ふうなリズム処理に聴きとることができます。

 

それからシャーリーのリーダー作とはいえ、目立っているのはテナー・サックスのハロルド・ヴィックで(ドラムスがビリー・ヒギンズというトリオ編成)、ハロルドの演奏が大きくフィーチャーされています。ちょっとジョー・ヘンダスンっぽいフィーリングのハロルド、それ+ちょっと泥くさめのR&B的な陰影もつけながらソウルフルに吹いていて、かなりいいですよね。

 

ちょうどこの1970年代半ば、ハロルドはずっとシャーリーと活動をともにしていました。ビリー・ヒギンズはこのアルバムのための起用でしょう。ヒギンズは1960年代から8ビートのジャズ・ロック〜ボサ・ノーヴァ調のものを得意としてきたドラマーですから、その持ち味がこの『ワン・フォー・ミー』でも活きています。

 

アルバムの曲は、どれもシャーリーかハロルドの自作で、ビートの効いたジャズ・ロック、ボサ・ノーヴァ調のものばかり並んでいます。なかでやや異質なのはストレート・ジャズ・ナンバーの4曲目「バット・ジョージ」でしょう。シャーリーの曲となっていますが、あきらかにジョン・コルトレインの「ジャイアント・ステップス」から借用して、そのコード進行をそのまま使っています。上物のメロディを入れ替えただけ。

 

そんなわけで「バット・ジョージ」でもテナーのハロルドが主役。トレインばりにうねうねと吹きまくる手腕に感心します。シャーリーのオルガン・ソロもストレート・ジャジーで、このアルバムのなかではちょっとめずらしい部類ですね。ヒギンズのドラムス・ソロまであるっていう。しかしこの曲、メロディすらも「ジャイアント・ステップス」調だし、なにもクレジットしなくてよかったんでしょうか。

 

個人的にはじんわりボサ・ノーヴァふうな(リズムを使っただけだけど)1、2曲目のちょっとした軽いジャズ・ロック〜クロスオーヴァーな、でありかつほんのり薄いソウルフルで、しかもおしゃれな都会的雰囲気もあるっていう、そんなテイストが大のお気に入りになったリイシュー・アルバムなのでした。

 

2曲目のテーマ演奏部分ではやや大きめのホーン・アンサンブルが起用されています。

 

(written 2021.1.25)

2021/04/20

プリンス基準とはなにか 〜 亡くなった音楽家の死後リリースについて

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(4 min read)

 

今年七月にプリンスの未発表アルバム『ウェルカム・2・アメリカ』が公式リリースされるという発表がありましたよね。そのことでネット上をぶらぶらしていたら、こんなブログ記事が見つかりました。

 

・「なぜプリンスの”新作” 『Welcome 2 America』を買うべきではないのか?」
https://mochizukisana.com/prince-welcome-2-america/

 

これを読み、プリンスにかぎったことじゃなく、亡くなった大物音楽家の音源発掘・発売にかんして、ぼくもちょっと思うところがありましたので、きょうは上掲記事を踏み台にして、ちょっと書いてみたいと思います。

 

プリンス本人が「これは出さない」と判断した(のかどうかの意思も実ははっきりしないのではありますが)ものは、つまり世に出していい自分の「プリンス基準」に達していないダメ音楽ということなんだから、それは死後リリースべきでないのだ、本人も望んでいなかったから、という発想は、実はちょっとあぶないものかもしれないなとぼくは考えています。

 

プリンスの『ウェルカム・2・アメリカ』にしてもそうなんですが、死後残された音源について、発売するべきかそうするべきでないのかの判断は、おそらくだれにもできないはずです。本人には発売する気はなかったとか、お蔵入りさせたものなんだから発掘せずそっとしておくべき、それが故人の遺志に沿うことだ、とも簡単には言えません。

 

いったい遺言などで死後の取り扱いが指定されていたばあいはともかくとして、そういう確たるものがないばあい、未発表音源をどうするのか、それは遺族や関係者の気持ちひとつにかかっているとも言えます。ぼくはただのいちファン、聴き手ですから、プリンスならプリンスの録音したものなら<すべて>を聴きたい、リリースしてほしいという気持ちがあります。

 

たとえば、ぼくの大好きだったマイルズ・デイヴィス。1991年9月に亡くなりましたが、死後実にたくさんの未発表音源が出ました。『ドゥー・バップ』や『ラバーバンド』のようなしっかりしたアルバムもあれば、しかし大半はお蔵入りしていたライヴ音源で、なかにはただたんなる別テイクとかスタジオ・リハーサルとかどうでもいい断片に過ぎないようなものまで、ほんとうにさまざまな音源がこの世に出たのです。

 

それらは生前マイルズが出さないぞとお蔵入りにしたものなんだからそっとしておくべきだった、出すべきではなかったしファンも買うべきではなかった、とはだれも言えないと思うんですね。シンプルに言ってしまえば、亡くなってしまうと残された音源はすべてこの世に出てしまうものだと覚悟しておかねばなりません。

 

死ぬ、とはそういうことなのです。

 

未完成品、リハーサル、リリース基準に達していないものなどなど、諸々すべてをふくめてこその音楽家の全貌なんじゃないか、ファンだったらもろともすべてを知りたいと、聴きたいと、聴いて判断したい、どんな音楽家だったのか、どんな人間だったのか、どういう音楽人生を送ったのかをつぶさに知りたいと、そう考えるんじゃないかというのがぼくの発想ですね。

 

それで、生前には知れなかったその音楽家の意外な素顔や隠されていた音楽的真実がわかり、生前リリースされていた公式アルバムにあらたな光が当たって、再評価されたり聴きかたが深くなったり、その音楽家についての理解が進むといったことだってあるんですね。

 

偉大な音楽家のばあいならなおさら、偉大であればあるほど、<発した音>は、すべて、聴くべきですし、リリーされるべきです。それが遺された人間のつとめでもあるとぼくだったら考えますね。

 

(written 2021.4.18)

2021/04/19

カタルーニャのノラ・ジョーンズ?〜 ジュディット・ネッデルマン

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(2 min read)

 

Judit Neddermann / Aire

https://open.spotify.com/album/6evnvR2f2tnmMF3DxAMQer?si=V_lgTpf6TCGKHDE7otJrYQ

 

ジャケット惚れです。

 

きれいないいジャケットですね。もうこれを見ただけで聴いてみたくなる、傑作なんじゃないかと予感するものですが、スペインはカタルーニャ出身の歌手ジュディット・ネッデルマンの2021年新作『Aire』は、中身の音楽もたいへん美しいものです。

 

このアルバム、ジュディットの透き通ったヴォーカルを、デリケートでアクースティックな伴奏が支えているといった感じで、基本的にはナイロン弦ギターを中心に必要最小限なオーガニック編成で演奏されています。曲によってドラムスが入ったりピアノも使ってあったりなど。ピアノは姉のメリチェイみたいですね。

 

ジュディットのヴォーカルはきわめて素直でナチュラルなもの。ハッタリをかましたり、強く張ってグリグリをメリスマを効かせたりするようなところはまったくありません。ストレート&ナイーヴっていうか、どうもここ数年、こういった歌いかたが世界のポピュラー音楽界で主流になりつつあるような気がしますね。

 

ジャジーなムードもただよう伴奏+ヴォーカルで、ちょっぴりアメリカのノラ・ジョーンズを連想させないでもない曲と歌。ぼくはこれがジュディットとの初の出会いでしたからなんとも言えませんが、スペイン語で歌うジャズ・アルバムに分類してもじゅうぶんいける気がしますね(それまではカタルーニャ語で歌っていたらしい)。

 

緊張感や硬さを感じないリラックスしたイージー・ムードで、シンプルな伴奏とアレンジでナチュラルにす〜っと歌っているなといった印象です。美しいジャケットの印象そのままの透明感のある音楽です。

 

(written 2021.4.17)

2021/04/18

ジンボ・マサスとアンドルー・バードのアメリカーナ・プロジェクト

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(2 min read)

 

Jimbo Mathus, Andrew Bird / These 13

https://open.spotify.com/album/5e7me68eSPsVkbQoGdpEkh?si=M0N1WaPkTnuM8CYRWDqiVw

 

萩原健太さんの紹介で知りました。
https://kenta45rpm.com/2021/03/05/these13-mathus-bird/

 

ジンボ・マサスとアンドルー・バードのつきあいはなかなか長いものらしく、ジンボ率いるレトロ・ホット・ジャズ・バンド、スクィーレル・ナット・ジッパーズに1990年代からアンドルーはゲスト参加していたそう。そのころのジッパーズをぼくはまだあまり聴いていないんだなあ。

 

その後もずっとくっついたり離れたりしながら関係は続いていたみたい。今年になってこのデュオでの新作『ジーズ 13』(2021)を届けてくれたのは、やっぱりコロナ禍で自己のルーツを見なおすみたいなムーヴメントの一環なんでしょうか(と思ったらちょっと違うみたい)。

 

端的に言ってこの『ジーズ 13』はジンボとアンドルーによるアメリカーナ・プロジェクトとみていいでしょうね。オール・アクースティックな生演唱で、ジンボがギター、アンドルーがフィドル、そして二名のヴォーカルと、曲によってやはり二名によるバンジョー、マンドリン、ピアノ、足踏みオルガンがくわわるだけ(最後の曲だけストリング・カルテットが参加しています)。

 

曲はぜんぶジンボとアンドルーの共作新曲ですが、完璧にトラディショナル・スタイル。フォーク、トラッド、アパラチアン、ブルーズなどが渾然一体となったアーシーな音楽性で、もうきわめて地味な滋味深い音楽。たった二人だけでスタジオの一本のマイクの両側に陣取り、録音したそうですよ。まるでコロナ禍での内省を反映したかのような雰囲気なんですが、実は2019年と、20年初頭に録音は終わっていたんだそう。

 

しかし、大恐慌時代を思わせる悲嘆、落胆、喪失感、孤独感などに深く踏み込みながら、それらを巧みにコロナ禍の現代へと二重写しにしていくような曲群と演奏の展開は、どう聴いても2021年的です。近年のボブ・ディランあたりが好きで高く評価しているみなさんには、これ以上ピッタリくる音楽もなかなかないんじゃないかと思いますよ。

 

(written 2021.4.16)

2021/04/17

ヒップ・ホップR&B、期待の新人 〜 アーロ・パークス

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(3 min read)

 

Arlo Parks / Collapsed In Sunbeams

https://open.spotify.com/album/42joEEymK7EIHODfNB4yug?si=b9nCtQKqSJGADMexhwl4Cg

 

イギリス人歌手アーロ・パークスのデビュー・アルバム『コラプスト・イン・サンビームズ』(2021)が、一月末のリリース時、かなり話題になっていましたよねえ。ぼくもかなり気に入っています。サウス・ロンドン出身で、ナイジェリア、チャド、フランスの血をひいているという、活動歴まだ二、三年のシンガー・ソングライターです。

 

アーロ自身は詩人みたいな側面もあるらしく、夭折の詩人シルヴィア・プラスを尊敬しているとのことで、音楽家としてはジョニ・ミッチェルやチェット・ベイカーが大好きっていう情報もありますが、このデビュー・アルバムはそういった方向性じゃなく、ヒップ・ホップR&Bみたいに仕上がっていて、だからこそお気に入りになっているんですね。

 

ちょっぴり古めっていうか若干レトロな1980年代末〜90年代前半のUKソウルっぽい雰囲気が濃厚にただよっていて、だからいわゆるグラウンド・ビートの香りがプンプンしているのがなんともいえずいいですね。アーロのこの作品についてグラウンド・ビートやソウル II ソウルにだれも言及していませんが、サウンドを聴くと間違いなくあるように思いますよ。

 

たとえば3曲目の「トゥー・グッド」。これがアルバム中いちばん好きな曲ですが、ギター&ヴォーカルのイントロ部分に続き、エレベ、次いで打ち込みのビートが出てきた瞬間に、アッ!って思います。コンピューター・ビートのつくりかたがまるでソウル II ソウルそっくりじゃないですか。いい曲、いいビート・メイクですね。だれがつくっているんだろう?

 

かと思うと、そこかしこに今様のベッドルーム・ポップ的な空気感や、内省的なインディ・フォークっぽい眼差しをふわっとまぶしたような、そんな重層的な仕上がりのアルバムで、それでいてオーソドックスかつキャッチー。なんとも心地いいんですよね。声のトーンがこんなキュートなかわいい系だから、向かないひとには向かないでしょうけどね。

 

文学的な歌詞を素直なヒップ・ホップR&B的なメロディとうまく一体化させていく技術はまだまだ荒削りかなと思わないでもないですが、これがデビュー作ですからね。ジャケットもいい雰囲気で、歌詞、サウンド、ビート・メイクなどなど、トータル・ワークとして味わえるアルバムをつくれるような、そんな期待の新人かなと思います。

 

(written 2021.4.15)

2021/04/16

批判しちゃダメ?? 〜 わさみん運営を

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(6 min read)

 

本日零時にブログにアップした岩佐美咲運営スタッフ批判は、4月12日の夜に書いたものでした。その後、13日になってスタッフから正式に4/25デート配信イベントの告知があったことを受け、ネット上で一斉に大批判が巻き起こりましたよね。

 

批判はもちろんわさみん本人に向いているのではなく、あくまで運営スタッフに向けられているもので、あまりの批判のすさまじさに、今回だけはさすがの運営も手を打たざるをえなくなり、わさみん本人からのお気持ち表明につながりました。

 

そして、その場しのぎの対症療法的なガス抜き施策として、次の日曜日のShowroomでカラオケ配信をやるとの告知がありました。これで土曜日(4/17)は音のヨーロー堂からの歌唱配信イベント、日曜日(4/18)はカラオケと、なんかたくさん歌いますみたいな感じになって、騒動は収拾したような雰囲気ですが、ほんとうにそうでしょうか?

 

といいますのも、これら一連の流れを受けてもまだ(13日深夜になって)批判を続けているファンは病的でこわい、とのいちファンの発言があったのです。

 

しかしですね、今回運営が打ち出したのはあくまで批判を一時的にかわす目的だけでのその場しのぎにすぎず、体質を抜本改善しようとの意向が表明されたわけではありません。ちょこちょこっと一時的に歌唱系をわさみんにやらせてガス抜きしておけば、またふたたびしょうもないイベントを続けるつもりであろうことは目に見えていますよね。

 

また、盛大に批判されたのは運営スタッフであるにもかかわらず、運営の責任者はまったく出てこず、わさみん本人だけを矢面に立たせるっていうやりかたも卑怯です。13日夕方の、ファンの声に自身でわさみんが答えた引用ツイートも運営が削除してしまいましたし、そうやって歌手を道具として利用しているだけのいまの長良運営スタッフには、強い憤りを感じます。

 

わさみんも、ぼくらファンも、長良の運営スタッフにいいように利用されているだけじゃないかという気分になってしまいますよね。いままでもずっとそうだったんだろうし、今後もそれが変わらないかもしれません。

 

本来だったら批判されている運営の責任者がちゃんと出てきて、説明しなくちゃいけないんじゃないですか。長良プロに所属している岩佐美咲本人は弱い立場ですよ。運営から、次はこんなイベントやるからよろしく、って言われれば断れないでしょうし、盛大に批判されているからちょっと出ていってなにか言って!とお願いされれば出ていかざるをえないでしょう。現にお気持ち表明がありました。

 

そうやって運営はわさみんのかげに隠れて、自分たち自身は表に出ることなく、批判も正面から受け止めず、わさみんだけを表に立たせて、あたかもわさみんが批判されてそれに答えているかのような構図を演出していますが、おかしいでしょう。わさみん本人に今回の件の責任はまったくありませんよ。100%運営スタッフに非があるんですから。

 

今回にかぎったことではありません、コロナ禍以後、前々から、もう一年以上も、ファンのあいだでは(歌をやってくれないっていう)たまりにたまりまくったストレスがあるから、今回デート配信というあまりにもバカバカしいイベント企画をたんなるきっかけとして、一気に地下のマグマが噴出するがごとく、批判の大合唱が巻き起こったんですよ。

 

そう、長良のわさみん運営スタッフに対する不満は、きのう・きょうのことじゃないんですよ。わさみんは歌手なのに、いっさい歌のことをやらせない、ぼくらファンが歌をお願いしますとどんだけ訴えてもそれを無視してきたっていう、一年以上にわたるその積み重ねですよ、だから今回爆発したんですよ。

 

それをほんのちょこっとだけ、Showroomでのカラオケ配信だけやっとけばOKだろうと、ぼくらファンのことを舐めくさっているのがありありなんですよね。いったいだれがいままで岩佐美咲関係を買い支えてきたのか、その根本を勘違いしているんじゃないですか。

 

こういった長良運営スタッフの体質がコロッと変わるとも思えないし、ちょこっとなにかわさみん本人の発言と対策が立てられたからといって、それで事態が改善する方向に進まないだろうし、現に進んでいません。

 

言い換えれば、4月13日夕方の一連の流れがあっても、ものごとはなにひとつ変わっていないのです。

 

であれば、根本改善を求めて批判と要求を続けるのは当然じゃないですか。それを批判するな、いつまでも批判を続けるなんて病気だ、こわい、なんていうファンも、だいぶおかしいとぼくは思いますけどね。

 

(written 2021.4.14)

長良プロに言いたい、わさみんに歌わせてほしい!

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(7 min read)

 

#岩佐美咲
#わさみん

 

わさみんこと岩佐美咲の運営スタッフが交代したのは、たしか2019年の秋か冬ごろだったはず。そこから2021年春現在まで変わっていないと思うんですけど、それ以前に比較してかなり大きな違いが見られますよね。

 

それは端的に言って、歌をやらなくなった、歌わせなくなった、ということです。それでも通常どおり活動できていた2019年内はそうでもなかったんです。ひどくなったのは2020年初春以後のコロナ禍期に入ってからですよ。

 

いっさいの対人歌唱イベントやコンサートなどが開催できなくなったせいで、それを言い訳にして、インターネット配信でもわさみんに歌手活動をさせなくなりました。

 

思い出せば、COVID-19大流行で歌唱イベントが中止になりはじめた2020年2月末以後、21年4月現在まで、ネット配信で行われたわさみんの歌のイベントやコンサート様のものって、昨年八月中旬に開催されたストリーミング・ライヴだけ、このたった一回だけ、ですからねえ。

 

あとは11〜12月に配信されていた30分ほどの歌唱動画がありましたけど、あれは銀座山野楽器の「どこでも演歌まつり」という企画だったのであって、大勢の歌手たちの同様の動画が配信されていたなかにわさみんもいたというだけです。わさみんのためにと企画されたものじゃありません。

 

これら二つ以外では、あとは大勢の歌手が参加するジョイント・コンサートみたいなものが二、三度実施・配信されていますけど、当然わさみんの歌唱は一回二、三曲だけ。

 

もう一年以上にもなるというのに、マジでたったこれだけなんですよ。これじゃあねえ、歌を聴きたい、わさみんは歌手であって歌をやってこそ値打ちがある、と思っているファンは不満がつのる、ストレスがたまる一方ですよ。

 

そうかと思うと、Zoom飲み会だのデート配信だのファースト・コンサートをいっしょに見る会だのトーク・イベントだのチェキ会配信だの、歌とは無関係なことばかり、どんどん次から次へと配信企画しては実施するんですから。

 

なにかが狂っているとしか言いようがありませんよねえ。どうして歌唱関係を企画しないのか、不思議でなりません。

 

わさみん公式が企画して発表・開催するものであれば、文句を言わずなんでにも黙ってほいほいお金を払ってきている忠実なシモベのようなファンのあいだからでさえ、最近は不満の声が漏れ聞かれるようになりはじめていますから、このまま放置したらちょっとヤバいんじゃないですか。

 

わさみんはあくまで「歌手」なんですけどねえ。そう思ってきたんですけどねえ。ちょっとそれも最近疑わしいような気がしています。ほとんど歌手活動しないんだから、歌手じゃないのかも?わさみんにとって歌とはアイドル活動の余興みたいなものとして付属しているだけのものなのかも?

 

こういったことは、同世代、近世代の歌手のみなさんの活動状況をみていると、いっそう強く感じます。わさみんと同じ長良グループ所属歌手だけでみても、コロナ禍でも変わらず大活躍のスーパー・スター氷川きよしは別格として、水森かおり、田川寿美、辰巳ゆうとなど、歌唱系のネット配信企画がどんどん実現していますから。

 

昨2020年いっぱいこそみんな抑制気味でしたけど、もはや2021年4月現在では通常どおりにまで回復した(といっても100%近くネット配信で、だけど)としても過言ではない状態になってきているのに、わさみんだけおいてけぼり。

 

ぼくが大好きな中澤卓也(オフィス・パンジー所属)あたりと比較すれば、その差はあまりにもデカいです。卓也はわさみんと同年にして歌謡界では五年後輩なんですけど、もはやいまでは完全に逆転されています。

 

卓也は今2021年、全国コンサート・ツアーをやり、各地でディナー・ショーを実施し、歌唱イベントをやり、それらはインターネットでも一部配信されているし、どれも終了直後からスタッフさんがTwitterやInstagramにその様子を写真でどんどん上げてくれるばかりではなく、ばあいによってはワン・コーラス単位でつなげたダイジェスト歌唱動画が卓也公式YouTubeにアップされます。おかげで足を運べないぼくでも様子がわかるんですね。

 

わさみんはそもそも公式YouTubeアカウント、ありましたっけぇ〜?全国コンサート・ツアー、したことありましたっけぇ〜〜??スタッフさんがイベントの模様をどんどんネットに上げてくれていましたっけぇ〜〜〜???

 

そればかりか、卓也は毎週一曲、金曜日に、「歌ごころ」と題するカヴァー・ソング・シリーズを、ピアノ&ギターのデュオ生伴奏で、公式YouTubeにもう一年以上もアップし続けているんですね。だから総計もう60曲ほどにもなります。

 

わさみんはなにかやっているのぉ〜〜〜〜????

 

となりの芝生は青く見える、みたいなことがあるかもしれませんが、長良プロダクション内のわさみん運営が歌唱系をほとんど企画しなくなっているのは事実。いちばん大切な「歌」をほったらかしにして、歌とは無関係なZoom飲み会だのデート配信だのに邁進しているというのが事実。

 

歌手が、それをサポートする運営陣が、最も大事にしないといけないのは「歌うこと」のはず。歌手は歌ってこそナンボです。歌唱系のイベントなどをどんどんやらないといけないはずなのに。

 

このままでは暴動か一揆が起きると思うんですけどね。

 

(written 2021.4.12)

2021/04/15

私の曲?

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(10 min read)

 

演歌歌手の田川寿美が、2021年4月2日からYouTubeでギター弾き語り動画配信をはじめました。4月12日時点でまだ一個ですが、コロナ禍で対面イベントができないなりに、みなさんそれぞれ工夫して活動していますよねえ(わさみん界隈は?)。

 

その動画で田川がしゃべっていたことがぼくの印象に残りました。デビュー期に歌っていたという美空ひばりナンバーから一曲「ひばりの佐渡情話」を披露したんですけど、その導入部でこう語ったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=6isQG8hFWz8

 

田川いわく〜「(デビュー)当時は、あのころ、ひばりさんの歌を歌うとかそれでアルバムを出すだとかいったことは、ひばりプロダクションの許可がないとできなかったことだったんですね」〜。

 

ええぇ〜っ?!と驚きましたよ。田川のデビューは1992年で、ひばりが亡くなってからたしかにまだ三年しか経っていませんでしたけど、ひばりナンバーをカヴァーするのに、その事務所の許諾が必要だったなんて、演歌界ってなんという旧弊体質なのか!とビックリしちゃいました。

 

いちおう説明しておきますと、ひばりは自分で曲を書いたことはなく、歌ったどの曲も、「ひばりの佐渡情話」もどれもこれも、ひばり側に著作権などありません。当然ひばりプロダクションが法的権利を持っているはずもなく。

 

田川はたまたまひばりと同じ日本コロムビア所属ということもあって、話はスムースに進んだみたいですけど、そんなねえ、カヴァーするのにいちいち(権利者ではない)初演歌手所属事務所の許諾が必要だなんて、どこの世界にそんなバカらしい話があるでしょうか。

 

でもさすがに21世紀の現在では、いくらひばりプロダクションでもこんな理不尽なこと、もう言わなくなっているはずだと信じていますけど、実は次のようなこともありました。

 

2015年のキノコホテル vs カルメン・マキ騒動のことです。キノコホテルっていう(マキからしたら若手の)バンドがマキの「ノイジー・ベイビー」をカヴァーしていたんですけど、キノコホテルの演奏をたまたま見たマキが「あれ?これ、私の曲だ」と。なんの断りもなく自身の曲をカヴァーしている、と思い、憤慨。

 

「人の曲をカバーする時は、歌手にも一言報告するのが常識」と、マキはキノコホテルをTwitterで批難。それに対してキノコホテル側は「著作権者である作詞・作曲者にはちゃんと承諾を取っているのに、メンドくさい」となって「二度とこの曲、やりません」とツイートしたことで、音楽業界関係者やミュージシャンを巻き込んだ議論に発展したという件。

 

「ノイジー・ベイビー」にかんしてもですね、カルメン・マキは著作権者じゃありません。作詞・作曲はクニ河内で、マキはたんに初演歌手というだけです。

 

マキ側に賛意を示す発言もちらほら見られましたが、プロの音楽関係者もふくめ、キノコホテル側になんの問題もないはずという意見があのとき大多数でした。そもそもカヴァーする際に著作権者の許諾を取るのは当然としても、権利者ではないたとえば初演歌手(やその所属事務所)などに「ひとこと入れておくべき、それがスジってもの」というのはたんなる感情論でしかなく、カヴァーしたい若手などにとっては害悪でしかないんですよね。そういう意見がTwitter上では大半でした。

 

カルメン・マキってずいぶんつまらないことを言うんだな、とぼくもあのときバカバカしく思ったもんですけど、今年になってついこないだ、上で書いたように田川寿美がひばりの曲関係のことを言っていたのに出会い、ふ〜ん、じゃあジャンルを問わず日本の音楽業界ってむかしからそんな体質なのかと、それがいまだ変わっていないんだなと、イチイチ初演歌手やその事務所に断りを入れておかないとカヴァーひとつできない業界なのかと、呆れ果てました。

 

たぶん、ずっと前からこうで、いまだに同じなんでしょうねえ。

 

私の曲、とはいったいなんなのか。

 

自分で作詞作曲して登録した、っていうんならわかりますよ。法的権利がありますし、本人死去後はそれを相続した遺族なりの承諾が得られなかったらカヴァーできないでしょう(ってそれもたんなる手続き上のことでしかないので、NGなんてことはない)。

 

でも美空ひばりもカルメン・マキも、著作権者ではないんですよ。たんに初演したというだけのことです。この世ではじめてその曲を歌った人間には、そのことにより後進歌手のカヴァーを抑制する権利でも発生するんですかね?あぁ、バカらしい。

 

それにですね、ひばりのばあいは子どものころ「東京ブギウギ」など服部良一が書いた笠置シヅ子ナンバーを歌っていて、それで笠置側から「歌うな」ととがめられたという経験があったはずです。抜群にリズム感とノリのよかった幼少時のひばりに服部良一のブギウギ・ナンバーはピッタリだったのに。

 

もちろんあのときは、笠置本人がというより、ひばりのカヴァーが話題になっているのを知った周囲の関係者たちがひばり側を注意したということだったかもしれませんけれども、まだ10歳程度だったひばりにとっては同じことです。「私の曲を歌わないで!」と大物先輩歌手に言われてしまったという記憶だけが残ったかもしれませんよね。

 

それなのに、のちのち自分が日本歌謡界に君臨する超大物となってからは、同じことを若手後進歌手に課すだなんて。

 

こういった先輩歌手たちの言っていることって、有り体に言えば「ちょっとアイサツくらいしてこんかいワレ〜!」っていう、つまりヤクザの仁義ということなんですよねえ。

 

いいですか、ティン・パン・アリーの、ブリル・ビルディングの、有名曲がどうして世界でこれだけたくさんカヴァーされ、種々の多様なヴァージョンを生み出し、時代の変遷にあわせて様相をあらたにしながら2021年現在まで生き残ってきているのか、考えたことがありますか。

 

ポール・マッカートニーの書き歌った、(いまはヨーコ・オノが権利を持っている)ジョン・レノンの書き歌った、ビートルズ・ナンバーが、どうして世界中でいまだにこれだけ歌われ演奏されているのか、それであるがゆえに21世紀にも生き残り発展し続けることができているのか、考えたことがありますか。

 

世界中のシンガーやミュージシャンたちが、「初演があなただから」「”あなたの曲” だから」といって、ポールにひとこと報告し許諾を求める手紙でも電話でもメールでも一斉に送りはじめたら、いったいどんなことになるか、想像したことがありますか。

 

初演が私だから、私の曲、だから、っていうんで、カヴァーする際にはひとこと自分にも断りを入れてくれ、なんてのはなんの根拠もない感情論にすぎません。そんなだから日本の音楽業界は衰退の一途をたどっているんですよ。若い、新しい、新世代の歌手や音楽家にカヴァーされることは、初演歌手にとっても誇りであるうれしいことなはずなんですけどねえ。

 

情緒的にっていうか、カヴァーする後進のほうが大物初演歌手にいちおう挨拶だけしておこう、じゃないとなんとなく、って思うことはあるかもしれませんよね。自由にしたらいいと思います。そんなもん言ってこなくていいんだ、どんどん勝手にカヴァーしろ、と返されることになると思いますけど。

 

でも初演歌手のほうから「私に無言でカヴァーするとはなにごとか!」「私の(事務所の)許可を得ていないのか?」などと言いはじめたら、音楽業界の終わりです。美空ひばり(プロダクション)やカルメン・マキみたいなやりかたは、若手を、カヴァーを、業界を、萎縮させる効果しかありませんし、なにより合理的根拠がありません。

 

そうやってその曲はだんだんと歌われなくなり、次第にひとびとの記憶から薄れていき、この世から消えるんですね。だれが初演だったかも、だれひとり憶えていないっていうことになります。

 

歌い継がれていかないと、歌は死ぬんです。

 

(written 2021.4.12)

2021/04/14

宇多田ヒカル以来の天才 〜 藤井風

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(4 min read)

 

藤井風 / HELP EVER HURT NEVER

https://open.spotify.com/album/03QiFOKDh6xMiSTkOnsmMG?si=ncPu8Z5aSvqKRD1DH3l0iQ

 

岡山語で歌う藤井風。売れているみたいですよね。咋年夏の発売だったアルバム『HELP EVER HURT NEVER』(2020)が、なんでも今年一月にはアルバム・チャートの首位に立ったみたいですから。そのニュースを目にしたころ、ぼくはもうすっかり風に夢中で、ヘヴィロテ中。

 

昨夏に知った当初は、とっつきにくい天才で距離を感じるなと思い、ちょっと敬遠していた藤井風なのに、もうそんなことがまるでウソみたい、いまではそんなこと全然なくなって、もうほとんど毎日、それもくりかえし、聴きまくっているというようなありさま。完全にノック・アウトされました(時間のかかるぼく)。

 

風のこのデビュー・アルバムのどこがいいって、これもやっぱり曲と声ですよね。三分の一くらいは既発曲だったみたいですが、すべて初体験だったぼくにはもうどれもこれも衝撃で。コンテンポラリーなR&B(アーバンということばがよく使ってありますけど、この「アーバン」はブラック・ミュージックに言及するばあい人種差別的な意味合いを帯びるので、ぼくは言いません)なんですけど、そのリズムとサウンドに岡山語の日本語詞を乗せていく感覚はまさしく天才的。

 

個人的にこのアルバムで特に気に入っているのは終盤9曲目の「風よ」なんですけど、風自身の弾くアクースティック・ピアノのこの都会的にジャジーな(ちょっとAORふうの)雰囲気のイントロからしてもう降参。ピアノ一台の伴奏でまず歌い出した部分だけで、もうメロメロになっちゃうんですね。曲のメロディが飛び抜けて秀逸だし(ちょっと1970年代歌謡曲的)、それをつづる声も抜群にセクシー。コントラバスとドラムスが入ってきたら、もう夢見心地。

 

風は、アルバムのなかで曲ごとに、あるいは一曲のなかでも、さまざまに声の表情を変化させています。きのう書いた米津玄師もそうだったんですけど、こういったあたりはこの世代の歌手の一つの共通特性なんですかね。優しいソフトな歌いくちかと思うと、強い調子でべらんめえスタイルになってみたり、またあるときはセクシーなハスキー・ヴォイスだったり、などなど。

 

R&Bな1曲目「何なんw」、ヒップ・ホップ調の2「もうええわ」、ヒップ・ホップ・バラードな3「優しさ」など、これら既発のシングル曲だったものもよく練り込まれたすぐれた楽曲です。アルバム曲では、たとえばホーン・セクションを使ってあるちょっとジャジーでラテンな感触もある5「罪の香り」、歌謡曲ふうでもある6「調子のっちゃって」、ロー・ファイ・ヒップ・ホップを意識したであろう7「特にない」、そしてなんといってもトラップ・ビートを使った8「死ぬのがいいわ」など、いずれもコンテンポラリーなサウンドに耳残りする歌詞のマッチングが絶妙すぎます。

 

藤井風について「日本語を自在に操るメロディーを身体で知っている」と評したひとがいるそうですが、まさにねえ、ここまでの才能は10年、20年に一度の存在じゃないかと思えます。ほんとうに衝撃のデビュー・アルバム、日本歌謡界に出現した稀有な天才でしょう。しかもなんだか(自覚的というより)テンネンっぽいwのもいいです。

 

(written 2021.2.15)

2021/04/13

現代性と回顧性との共存 〜 米津玄師

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(3 min read)

 

米津玄師 / STRAY SHEEP

https://open.spotify.com/album/4DBYRaB42DDZjxyjOfTkzC?si=--g1MZlHSea1xvp1_cUxPw

 

米津玄師(よねづけんし)の『STRAY SHEEP』(2020)。昨年リリースのこのアルバムを、2021年に入ったあたりから愛聴しています。どこがいいって、曲と声です。テレビの音楽番組などで、2019年あたりから、米津の「パプリカ」をFoorinが歌っているのを耳にしていただけのころはフ〜ンとしか感じていなかったんですけど、アルバムで本人ヴァージョンを聴いたらぶっ飛んでしまいましたねえ。

 

その「パプリカ」にしてもそうなんですが、米津の書く歌にはどこか「なつかしい」フィーリングがあるなと感じるんですよね。2020年の作品だし、このシンガー・ソングライターも1991年生まれなのに、59歳のぼくが聴いて、むかしからなじんでいる世界にひたっているような気がするっていう、そんな不思議な感覚にとらわれます。

 

ひとによってはそれは日本的感覚ということになるんでしょう。うん、そういうことかな、とぼくも感じています。曲のメロディ・ラインが日本人の感覚にフィットする、古来からある日本人的DNAに訴えかけてくる、そして米津は無意識にではなく意図的にそんなサウンドやメロを書いているんじゃないかという、そんな気がするんですよね。

 

じっくり聴き込むと、リズムやサウンドの細部にまで工夫が凝らされているんだなということがわかってきて、コンテンポラリーなJ-POPとしてアピールできるようにていねいにつくりこまれているなという、そんな印象もいだきます。ビートやベーシック・トラックはほとんどのばあいコンピューターを使った打ち込みのようですしね。

 

現代性と回顧性との共存、それがぼくにとっての米津の『STRAY SHEEP』最大の魅力で、なんど聴いても心地いい、なんどでも飽きずに聴ける、聴くたびにあらたな発見がある細部へのこだわり、といった部分がチャーミングで、ほんとうにもうこのアルバムに惚れてしまいました。

 

やっぱりこのアルバムの最大の魅力は、曲のメロディのなじみやすさ、聴きやすさ、ていねいなアレンジでつくりこまれたサウンドの耳なじみのよさ、そして米津の声のトーン、曲やパートごとでの声の表情の豊かな変化、それによってリスナーの心理を微妙に揺らすあたりの小憎らしさ、といったところでしょうか。

 

2020年代の最大のヒット・アルバムであり現代のJ-POPでありながら、ぼくらのオジサン世代にとってなつかしいあの時代の、つまり1970年代的な歌謡曲の、ああいった世界をも思い起こさせる「なつかしさ」がくっきりと曲のメロディの動きに刻まれていて、快感です。

 

(written 2021.2.14)

2021/04/12

爽快な演奏を聴かせるマルチニーク・ジャズの新星ピアニスト 〜 グザヴィエ・ベラン

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(3 min read)

 

Xavier Belin / Pitakpi

https://open.spotify.com/album/1A8ZBtqgY4WVLowSDY7WH5?si=_1epkuPrQVugY0FYoKOFGg

 

マルチニーク出身の若手ジャズ・ピアニスト、グザヴィエ・ベラン(Xavier Belin)のデビュー・アルバム『Pitakpi』(2021)。本年リリースのジャズ作品のなかでは(ジャズに入れていいなら)パトリシア・ブレナンのソロに続くカッ飛んだ傑作でしょう。

 

2021年ジャズ上半期のクライマックスかもしれないこの作品、グザヴィエのピアノのほか、ヴァイブラフォン、エレキ・ベース、ドラムスのカルテット編成。大半がマルチニークにゆかりのあるミュージシャンたちです。

 

それなもんで、アフロ・カリビアンなマルチニークのリズムを大胆かつ濃厚にとりいれたジャズをやっているのが印象深いところ。といっても、カリブ音楽をまったく知らないファンが一聴して、じゅうぶんオッ!と思える清新な音楽性を発揮していますけれども。

 

特に耳をひくのがピアノとヴァイブの音の粒立ちがクッキリしていること。ここまで粒立ちがよくて太い音でスピード感満点に弾きまくられると、もうそれだけで圧倒されそうな感じですが、特にテンポのいいアップ・ビート・ナンバーなんかでは特に爽快に感じます。

 

バンブー・フラペ(竹筒打楽器)をチブワ(スティック)で叩くサウンドで幕開けする1曲目の「イントロ」からそのまま切れ目なくメドレー形式でなだれこむ2曲目「Bagay cho」の快感なんか、マルチニーク・リズムの活用とあいまってピアノのサウンドの粒立ちのよさがきわだっていて、もうホ〜ント気持ちいいったらありゃしない。

 

3、4曲目なども、特に4「Mz4」かな、ヴァイブとピアノの合奏でやるキメがカッコよくて、豪快で壮観。うねるエレベのグルーヴも気持ちいいですよね。ドラマーもふくめ四人が一体となって演奏するこのアンサンブル/ソロのキメのすばらしさに鳥肌が立つ思いです。

 

ちょっとした聴きものは9曲目のセロニアス・モンク・ナンバー「エヴィデンス」。これをグザヴィエらはマルチニークの伝統リズムであるベレを活用して、完璧なるカリビアン・ジャズにしたてあげているんですね。冒頭から「イントロ」と同じタッ、ピ、タッ、ピ、タッというチブワで奏でるリズム・パターン(がアルバム題のゆえん)が鳴っているでしょう、一曲とおしてそのリズムが維持されています。

 

数曲あるゆったりめのナンバーでは、ときどきデューク・エリントンが聴かせたようなフランス印象派ふうのピアノ演奏も聴けますが、それらでもグザヴィエのきびきびしたサウンドの歯切れと粒立ちのよさは活きています。

 

(written 2021.4.11)

2021/04/11

聴きやすい王道マンデ・ポップ 〜 ナカニ・カンテ

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(2 min read)

 

Nakany Kanté / De Conakry a Barcelone

https://open.spotify.com/album/3tL84tvlJUbACxJTaEo9Dp?si=wN8DxraKSY-1JMnjNtNslA

 

ナカニ・カンテ(Nakany Kanté)はギネア出身。プロ歌手を目指し10代でスペインはバルセロナに移住したんだそう。その三作目が『De Conakry a Barcelone』(2020)で、ぼくはこれではじめて知りました。

 

印象としては完璧なるストレートなマンデ・ポップ。ナカニのヴォーカルもそうだけど、なんといってもギター・プレイのスタイル、どこをどう切り取っても100%マンデ系ギターで、だれが弾いているんでしょうかねえ。ネットで画像検索するとナカニもギター抱えていたりしますけど。

 

そんなマンデ・ギターの演奏法は、ときにコラやンゴニのスタイルを移植したのかなと思えるような部分もあり、いかにも西アフリカといった趣きで、いいですね。本当にコラやンゴニが入っている部分もあるみたいですけど。アルバムに参加しているミュージシャンたちの半数がコナクリ(シギリ)のひとたちだそうです。

 

残り半分がバルセロナの演奏者たちで、キーボードやベース、ドラムス、さらにホーンズなどはそうなんでしょう。コナクリのミュージシャンのなかには、バラフォンやタマ(トーキング・ドラム)、ジェンベ、カラバシといった打楽器奏者も入っているみたい。

 

そんなわけでコナクリとバルセロナのミュージシャンたちが半々で参加していますから、実際、できあがったアルバムの音楽を聴いても、マンデ系ながらアフロ・ポップ色はいい感じにまろやかに中和されているなといった感じです。西アフリカ色ばかり前面に出ているわけじゃなく、濃すぎない、ユニヴァーサルなポップスに仕上がっているのが好印象です。

 

だから、往時のサリフ・ケイタのサウンドなんかを連想させる音楽で、王道マンデ・ポップをもっとぐっと聴きやすくしたような感じですかね。ナカニのヴォーカルはほどほどで、黄金期のサリフみたいなグリオ系の鋭さや強靭さはありませんけど、これはこれで聴きやすいですよ。抜群にノリのいいアルバム・ラスト10曲目にだけ男声ゲスト・ヴォーカリストがいます。

 

(written 2021.1.24)

2021/04/10

レトロ・ポップなチャーミングさを増したノナリアの最新作

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(4 min read)

 

NonaRia / Sampul Surat Nonaria (Sebuah Persembahan Untuk Ismail Marsuki)

https://open.spotify.com/album/4DcPdTthhYWoRbAwA5Mj88?si=TEaJN7SLT_a2DthMIRHSew

 

おしゃれで趣味のいいインドネシアのレトロ・ポップ三人組ノナリア(NonaRia)。昨2020年の12月に新作を出していますねえ。見つけたのは今年に入ってからだったんですけど、いまのところまったくどなたも話題にしていないのは、CDがまだ日本に入ってきていないからでしょう。ノナリアに興味を示す層はフィジカル派ですから。

 

しかしこの2020年新作『Sampul Surat Nonaria』、日本でも一部で話題になった2017年のデビュー作『NonaRia』以上に愉快なできばえで、快作なんですよね。CDがないっていうたったそれだけのことで話題にすらしないのは、かなりもったいなさすぎるっていう、そんなみごとなアルバムなんですね。

 

だから、CDもエル・スール原田さんにお願いしてはありますが、いつごろ入荷するのか?入手できるのか?そもそもフィジカル・リリースされているのか?といったあたりがわかりませんがゆえ、もうきょうぼくはとりあげて書いちゃうことにします。

 

ノナリアの一作目は、スネア・ドラム(&ヴォーカル)、ヴァイオリン、アコーディオンのトリオ編成だったわけですが、今作ではアコーディオン奏者がピアノに持ち替え(+ベーシストも参加)。アコはまったく使われていません。がしかし音楽の傾向はまったく同一。SP時代の古き良きジャジーなポップスを現代にそのままよみがえらせたという路線で、あいかわらずのレトロ志向なんですね。

 

まるで1920〜40年代のジャジー・ポップス、スウィング・ジャズ、ラグタイムをそのままベースにしたような、そんなレトロ・ミュージックを、趣味よく、洗練された感覚でおしゃれ&チャーミングにかわいく、こなしてみせてくれているのがノナリア。そこにはのんびりのどかでおだやかなフィーリングが聴きとれるのもグッド。性急だったり激しかったりとんがっていたりなんてことは、1ミリたりともありません。

 

心がほっこりと温かくなるハッピーでノスタルジックなノナリアの音楽は、インドネシアの国際都市ジャカルタにおけるジャズ歌謡センスがいまに生き続けていることを実感させるもので、SP時代のヴィンテージなジャズ・ポップスが大好きなぼくなんかにはこれ以上ない心地よさなんですよね。

 

2020年の新作では17年のデビュー作で聴けたそんな音楽性をそのまま持続し、さらに一歩洗練の度を増したといった趣きですかね。アコーディオンの代わりにピアノを使ってあることでジャズ風味が強くなり、(ちょっとのイモくささも魅力だった一作目よりも)都会的におしゃれなフィーリングを獲得したかなという感じ。でも決してクールにならないのがノナリアらしさです。

 

軽いラテンなアクセントが聴かれるのもこの二作目の特色。特に7曲目と10曲目。まろやかなラテン・リズムがノナリアのこのかわいらしさをいっそう強調することになっていて、そう、世界中のポピュラー・ミュージック全般にラテン・リズムは影響をおよぼしていますが、そんな一端をここでも垣間見ることができて、胸がなごみます。

 

フィジカルはまだ入手できないけれど、Spotifyアプリの画面でジャケット・カヴァーを見れば一作目同様のチャーミングさ。国際郵便の封筒を模したデザインに、NonaRiaのバンド名が書かれてあるのは右上に貼られている切手部分。一作目ではミニ・ポスト・カードが封入されていましたが、今作も同様の趣向が凝らされているかも。

 

(written 2021.4.9)

2021/04/09

現代NYジャズの理想型 〜 ハリシュ・ラガヴァン

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(3 min read)

 

Harish Raghavan / Calls For Action

https://open.spotify.com/album/4yyl25wbG9In50pAGd16Ti?si=0X8_d_fpRIysb__bNWkUhA

 

南インド系アメリカ人ジャズ・ベーシスト、ハリシュ・ラガヴァンのデビュー・アルバム『コールズ・フォー・アクション』(2019)。とんでもない傑作だと思っているんですが、なぜか日本語で書いてある文章がほとんど見つからないですね。

 

リリース当時話題にしたひとがいたかもしれませんが、ぼくが言っているのはブログとかのまとまったちゃんとした文章として日本語では残されていないということ。さがした範囲では Música Terra さんのくらいしかないのでは。紙媒体のならあるの?
https://musica-terra.com/2019/12/10/harish-raghavan-calls-for-action/

 

ぼくがこのハリシュのアルバムに気づいたのは2021年に入ってからだったという、なんとも遅れすぎなことなですが、いまさらながらビックリ仰天、大感動で、最新の現代NYジャズの理想型じゃないかとすら思っているんで、きょうペンをとっている次第です。

 

ハリシュの『コールズ・フォー・アクション』。メンバー編成は自身のコントラバスのほか、ジョエル・ロス(ヴァイブラフォン)、イマニュエル・ウィルキンス(アルト・サックス)、ミカ・トーマス(ピアノ)、クウェク・サンブリー(ドラムス)といった面々。つまりイマニュエルのワーキング・バンドそのままですね。

 

もうこれだけで胸がワクワクする願ってもないメンバーですが、演奏のほうも壮絶。特に数曲あるビートの効いたハードなナンバーでは、クインテットの面々が同時並行でインプロヴィゼイションをとっていて、それがそのままアンサンブルになっているという、つまりソロ/アンサンブルの概念を根底からくつがえすというか、現代ジャズの特色の一つでもありますがそういったやりかた、それが最先鋭なやりかたで具現化しているんですよね。

 

個人的にことさら着目したいなと感じたのはクウェクのドラミング。若手ジャズ・ドラマーのなかではいちばんのフェイヴァリットで、クウェクが中心になって表現するこの熱いパッション、五人が一体となってぐいぐいハードに昂まっていくそのさまには、聴いているこちらの血までたぎるかのよう。バンドを牽引しているのはクウェクの激しく熱いドラミングじゃないですか。

 

4曲目「Sangeet」とか7「Seaminer」とか、ほんとうにものすごい演奏だと、心から感動します。バンドの躍動感がすさまじいし、しかも、上で書いたようにこれらではどこまでがコンポジションでどこからがインプロ・ソロなのか判然としないんですよね。ぜんぶが一体化してカタマリのようになってぶつかってくる、とでも言えばいいのか、21世紀型最新ジャズでは、もはやコンポジション/アンサンブル/インプロ・ソロの截然とした分割なんかできないし、意味もないんでしょうね。そういうやりかたで音楽をつくっていないと思います。

 

2019年リリースの作品ですけど、今年知ったこのハリシュ・ラガヴァンの『コールズ・フォー・アクション』、今年のベストテンのトップ5のなかには間違いなく入るだろうと思います。

 

(written 2021.3.16)

2021/04/08

2021年のプリンス降誕 〜 ジュディス・ヒル

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(4 min read)

 

Judith Hill / Baby, I’m Hollywood

https://open.spotify.com/album/5BcZjjb4BdRqZqgEPgcjzx?si=ljIAv4OQRPuH3iR7zjEyuw

 

いやあ、カッコいいなあ、もう。こんなカッコいい音楽、なかなか聴けるもんじゃありませんよ。アメリカ人歌手ジュディス・ヒルの新作アルバム『ベイビー、アイム・ハリウッド』(2021)のことです。三月はじめに出たばかりで、まだ情報もレヴューもほとんどありませんが、こりゃ傑作じゃないですか。

 

ジュディスは生前のマイケル・ジャクスンやプリンスに見出されたということで知られているわけですが、自己名義の前作がプリンスのプロデュースによるものだったのに続き、今作『ベイビー、アイム・ハリウッド』は、もはやプリンスはこの世にいないにもかかわらず、全面的にプリンス印が押された音楽になっているんですね。

 

プリンスが2021年によみがえり女性になったなら?をそのまま地で行く、ジュディスのこの新作、出だし1曲目は準備運動かなといった感じですが、2曲目のアルバム・タイトル曲からエンジン全開。なんですか、このもろミネアポリス・ファンクなサウンドは!ビートが効いていてキメまくり、爽快にかっ飛ばし、カッコいいったらありゃしない。

 

こんなにもみごとな曲は今年まだ聴いたことがなかったぞと思うほどノリノリな2曲目に続き、3「アメリカーナ」、4「ガッド・ブレス・ザ・メカニック」とプリンス・サウンドが続きます。個人的にはこの4曲目のヴォーカルまでもがプリンス・スタイルに聴こえ、っていうかジュディスの書いたメロディが1980年代プリンスの書くそれにソックリだからなんですけどね、いい曲です。

 

アルバムのクライマックスは5曲目の「ユー・ガット・ザ・ライト・サング」。これはもうどこからどう聴いてもプリンス・ファンクそのまんま。間違いなく1990〜2000年代のプリンスがやったような音楽ですよね。曲を書いたのもサウンド・プロデュースもジュディス自身ですが、ここまでプリンス・ファンクに似てしまうというのはトリビュート的な意味合いなんですかね。いやあ、カァ〜ッコイイなあ、もう。

 

ソックリさんをやるんならあんまり意味ないよ、と考える向きもおありでしょうが、いやいやなかなかどうしてここまでできるのはみごとです。プリンスのばあいは、曲づくりもプロデュースも演奏も歌も、ほぼだいたいぜんぶ自分ひとりで完結する密室作業音楽家だったのであれが実現できたわけで、それが他人にできちゃうっていうのはすごいことですよ。いままでだれもなしえなかったわけですからね。

 

演奏者のメンツが知りたいわけですが、たとえば12曲目のテンポのいいこれもプリンス流なナンバーで聴こえるティンバレス・ソロなんか、これまたどう聴いてもシーラ・Eのスタイルに思えてしまいます。やっぱりこれ、シーラ・Eじゃないのかなぁ?そう感じてしまうほど、これもまたプリンス・スタイルです。

 

ゴスペル調に歌い上げるバラードのアルバム・ラスト13曲目も聴きごたえがあって、いやあ、こんなみごとなアメリカン・ブラック・ミュージックの作品は、ちょっとスタイルが今様じゃないけれど、そんなこと関係なく2021年の傑作として推薦したいですね。特にプリンスにハマった経験のあるみなさんにとって、このジュディスのアルバムはストライクど真ん中のはず。

 

(written 2021.4.7)

2021/04/07

映画『あの夜、マイアミで』でサム・クック役が歌う「ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム」にどうして和訳字幕がついていないのか

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(6 min read)

 

映画『あの夜、マイアミで』(One Night In Miami...)。2020年に公開されたアメリカ作品で、日本ではアマゾン・プライム・ヴィデオの配信で自由に見ることができます。

 

1964年の2月のある夜、ヘヴィ級チャンピオンになったカシアス・クレイを祝うため、マルコムX、ジム・ブラウン、サム・クックがマイアミに集まり、最初たんに酒を楽しむだけのつもりだったのが、話題が公民権運動に及び、「自分たちは差別に苦しむ同胞たちになにができるのか」という問題に向き合っていくという、そんな内容です。

 

アメリカ文化史に大きな足跡を残した四人による架空の対話をとおして、いまもなお根深く残る黒人差別問題を描き出したフィクション映画作品といえ、日本でも(アメリカでも?)主に三種類のファンが熱心に見てさかんに話題にしています。

 

(オーヴァーラップする)三種類とは、映画ファン、黒人問題に関心のあるひと、そしてサム・クックが出てくるということで黒人音楽ファンもこの映画を話題にしています。作品終盤でサム・クックが「ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム」を歌うシーンが出てくるんですが、ぼくがきょう話題にしたいのはそれに字幕がついていないということです。

 

実を言いますと、ちまたで多く見かける、その歌詞に字幕がついていないことを残念がる(おそらく音楽ファンではないかたがたの)声に、ぼくは違和感を持っているんですよね。劇映画であって、ずっとそこまで和訳字幕があったのに、なんでそこだけ、最後の最後いちばん肝心なところで、それがないの?との素朴な気持ちは、わからないでもありません。

 

しかし歌のところだけ、そこだけ和訳なしなのは意味があるんですよ。歌は訳せないんです。歌を訳したらおかしなことになってしまいますからね。『あの夜、マイアミで』の翻訳担当者がどなたなのか、どんな考えで歌にだけ字幕をつけなかったか、調べてみたこともありませんが、おそらくは「歌は訳せないのである」とのぼくと共通の考えをお持ちだったんじゃないかと推測します。

 

歌詞は詩ですからね。音楽と関係ない文学の詩(なんてあるの?)でも、翻訳がひじょうにむずかしいものであることは、みなさんご存知でしょう。音の数が大事ですし韻律もあり、散文詩などであればある程度訳しやすいのかもしれませんが、韻文詩はねえ、音やその数やリズムなど、原語でないと味わえないものですからねえ。

 

音楽の歌詞はどっちかというと韻文詩に近いものだろうと思います(ボブ・ディランみたいに散文詩的歌詞を書くソングライターもいますが)。曲に乗せるわけですからメロディがつくし、メロディをつけるためにはことばの音の数が規則的に決まってきます。日本の演歌や歌謡曲の歌詞に七五調が多いようにですね、サム・クックら英語で曲づくりをするソングライターもメロディに乗せるため歌詞の英語の音の数を決めていくわけです。

 

つまり、歌の歌詞とは、音の響き、音の反復、それらでつくりだす韻律の快感、リズム・パターンに乗せること、などなど当該の原語じゃないと絶対に味わえないたぐいのことがらで満ちていて、文学の詩でもそうで、それは小説や演劇とは根本的に違うんです。

 

歌についてのこういったことは、日本語にでも何語にでも訳してしまうとまったくわからなくなってしまうたぐいのことですよ。いやいや、意味だけとれればよかったんだよ、わたしたちの言っているのはサム・クック役が歌う「ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム」という歌の歌詞の意味内容だけ知りたかっただけで、重要な場面だったから映画全体の理解にもかかわっているはずだし、ということかもしれませんね。

 

それでも歌詞を訳しちゃダメ、っていうのがぼくの強い信念です。訳した瞬間にそれは「歌」じゃなくなってしまいます。かりに字幕をつけたとして、「ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム」を聴いて英語のまま意味を理解できないひとたちは、その字幕を追うわけでしょ、もうそれで音楽の流れるタイムとは別のタイムに乗ることになってしまい、曲を味わうことなどできなくなってしまいます。「ア・チェインジ・イズ・ゴナ・カム」という曲から離れてしまうんです。

 

どんなに歌詞の意味内容が重要な曲でも、やっぱり音楽なんですよ。音楽には音楽の流れるタイムがありますし、声のトーン、歌手の発声、歌詞のサウンド、メロディ、リズムなど、それら和訳できますか?劇映画の演技シーンでしゃべられる台詞に字幕をつけるのとは根本的に意味が違うんですから。

 

きょうここまで書いてきた理由から、たとえばテレビの歌番組などに外国の歌手が出演し歌う際、画面下に歌詞の和訳を字幕で出してしまったりすることにも、ぼくは否定的です。やっちゃいかんことだよなと思うんですね。

 

歌の歌詞(文学の詩もそうだけど)は原語で味わう、これしか方法はありません。残酷なようですけどね。訳したら「別のもの」になってしまいます。

 

(written 2021.4.6)

2021/04/06

アッソル・ガルシアの2015年作がとってもいい

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Assol Garcia / Alma Di Minino

https://open.spotify.com/album/5uUktZ19fg3Dg0qxMvOcgJ?si=NP_J1ei_TGqa87VpzOKF1A

 

bunboniさんの紹介で知りました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-12-05

 

カーボ・ヴェルデの歌手、アッソル・ガルシア(Assol Garcia)。上の記事では二作紹介されていますね。どっちも聴いてみて2015年のデビュー作『Alma Di Minino』が大のお気に入りとなりました。近作のほうはモルナ集なんで、ビートの効いたノリのいい音楽のほうが好きなぼくにはイマイチ。

 

そう、だから『Alma Di Minino』には調子のいい曲がたくさんあるんですよね。いちばん好きなのがアルバム・ラストの12曲目「Merka」で、こ〜りゃいいなあ。リズム・パターンだっていかにもカーボ・ヴェルデといった感じ。アコーディオンが入って、ドラムスも効いています。アッソルの素直な歌い口も好感触ですよね。こういうのばっかりでアルバムが埋まっていたらいいのに、と思うくらい。

 

5曲目「Festa-L Nho Sanfilipi」、6曲目「Sonho Real」も同じリズム・パターンで、これらも気持ちいい。こういったクレオール系のリズムのノリって、ほ〜んと快感ですよね。カーボ・ヴェルデはアフリカの島国ですけど、音楽文化の混交具合が絶妙で、聴き手にえもいわれぬ気持ちよさをもたらしてくれます。

 

これらの曲では演奏はたぶん生バンドなんでしょう、と思ったらbunboniさん情報によればプロデューサーのキム・アルヴェスがひとりで多重録音しているそうで、管楽器以外ほとんどぜんぶを演奏しているそう。とてもそうとは思えないナチュラルでスポンティニアスなできぐあいなのがみごとですね。ヴォーカル・コーラスの活かしかたもうまいです(アッソルの多重録音?)。

 

アルバムにはモルナもちょっとだけありますけど、大半がビートの効いたテンポのいい曲で、しかもいずれもカーボ・ヴェルデの伝統に則ったソング・ライティングがされているのが印象いいですね。1、2、3曲目などミドル・テンポの曲でもほんとうに気持ちいい。8、11曲目もビートが効いていますよ。

 

アッソルのヴォーカル・スタイルはストレートで素直で、歌をこねくらずそのまますっと歌うというもの。好印象ですね。声のトーンも美しくてチャーミングですし、世界のどんな音楽でも、最近はこういったストレート&ナチュラルな歌いかたが好きになっております。

 

(written 2021.1.23)

2021/04/05

肌色

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(4 min read)

 

アメリカのヘルスケア関連商品を扱う大手ジョンソン・エンド・ジョンソンが、さまざまな肌の色に合うバンドエイドの新商品を今年三月より発売しました。もちろん昨年来の #BLM ブラック・ライヴズ・マターのもりあがりを踏まえてのことでしょう。

 

実を言うとバンドエンドがこういった商品をリリースするのはやや遅れたのであって、公式InstagramではBLMを受け昨年六月に五色のバンドエイドを発売したいという投稿がすでにあったのです。

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「多様な肌の美しさを包含するため、褐色や黒の肌のトーンの、明るいものから中間、深い色合いまでのバンドエイドを新たにローンチする」との声明がキャプションでは述べられていました。

 

実際の発売が翌三月になったのにどんな事情があったかは知りません。しかしながらいずれにせよこういった課題解決の実現は、まさに2020年代の企業や公的機関に求められていることがらであり、バンドエンドがそれを実行したのは喜ばしいことです。

 

それまで販売されていたバンドエイドは、白人の肌に合わせた色味が基準になっていて、多様な色を求める声が上がっていたのは事実。それはなにも昨年5月末以来のBLMの動きを受けてというんじゃなく、もっと前から黒人たちのあいだにあった声だったのです。

 

三月に発売されたバンドエイドの新商品はアワトーン(OURTONE)と名付けられ、バンドエイドのInstagramでは、「OURTONEは、褐色の肌の美しさを包含し、多様な肌の色によりよく馴染むように作られています」などのコメントとともに、新商品をつけたひとびとの写真が投稿されているのを見ることができます。

 

肌の色は薄いものばかりでないという、ふりかえれば常識的な考えは、しかしここ日本でもなかなか実際の商品として具現化するということがありませんでした。絵の具、色鉛筆、クレヨンなどの世界で「肌色」というものがありましたよね。日本で発売されているそれは、東アジア系黄色人種の肌の色でしかありませんでした。

 

日本でもこれはおかしいという声がずいぶん前からあって、多様な肌の色を持つさまざまな出自の人間が日本でも暮らしている以上、肌色という商品で黄色しか発売しないのはおおいに問題であると、そういった声がもりあがってきていたというのが事実。

 

もう2021年現在では、これら色彩具の世界に「肌色」の名称は存在しません。1962年生まれのぼくの世代の子ども時分からすれば進歩です。いま色鉛筆やクレヨンを使っている子どもたちにとって、東アジア系黄色人種の肌の色を表す色彩具の名称は「ペール・オレンジ」や「うすだいだい」なのです。

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いまの日本には「実際に幼稚園行ってみると『はだいろ』が肌の色じゃないお友達ってふつうに何人もいる」「差別的だ」との街の声もあり、肌色との名称で一色しか扱わないのは国際的感覚にも合致しないというわけで、2000年前後あたりに各メーカーとも色名を変更したそうです。

 

いっぽうでイタリアの文具メーカーは「肌色」ばかりを12色集めた色鉛筆を発売しています。世界のさまざまなひとたちのさまざまな肌の色を表現できるとのことで、日本国内でも学校現場を中心に最近売れているそうですよ。

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もしかしたら、いや、たぶん、むかしクレヨンなどに「肌色」があたりまえにあった時代でも、つらい思いを感じていたひとたちがいたのではないか、そう思います。多様なひとたちがすこしでも生きやすく、世のなかがいい方向に変わっていくといいなって、ぼくも心からそう考えています。

 

(written 2021.4.4)

2021/04/04

奇跡の豊穣 1971

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(9 min read)

 

・マーヴィン・ゲイ『ワッツ・ゴーイング・オン』
・スライ&ザ・ファミリー・ストーン『暴動』
・キャロル・キング『タペストリー』
・ジョニ・ミッチェル『ブルー』
・オールマン・ブラザーズ・バンド『アット・フィルモア・イースト』
・ジャニス・ジョップリン『パール』
・ローラ・ニーロ『ゴナ・テイク・ア・ミラクル』
・ローリング・ストーンズ『スティッキー・フィンガーズ』
・レッド・ツェッペリン『(四作目)』
・ヴァン・モリスン『テュペロ・ハニー』
・キンクス『マズウェル・ヒルビリーズ』
・イエス『フラジャイル』
・ジェスロ・タル『アクアラング』

 

まだまだほかにもたくさんあるこういった名作たちは、ことごとく1971年のものなんですね。そう、いまからちょうど半世紀前。特にアメリカ大衆音楽(やそれに関係のあるUKロックなど)の世界で、まさに雨後の筍のごとく名盤があふれ出たのが71年でした。

 

ピッタリ半世紀前ということで、どうして1971年にこんだけ名盤が噴出したのか、音楽的にどんな時代だったのか、アメリカン・ポピュラー・ミュージックを中心にきょうはちょこっとだけ考えてみたいなと思います。こんなに豊作だった年は71年以外にないと思いますから。

 

1971年がどんな年だったのかを考えるには、60年代のことをふまえ、そこからの変化がどんなものだったのかをおさえておく必要があります。60年代はカウンター・カルチャーの力が大きくなっていった時代。音楽は時代を、社会を、変えることができるのかといったテーマが、特に公民権運動、ヴェトナム戦争といった時代状況を背景にして、若者たちのあいだでもりあがりをみせていました。

 

もちろん「変えることができるのだ」というのが1960年代的な思想で、ラヴ&ピースの合言葉を旗頭に、音楽の世界でもサイケデリックなムーヴメントが隆盛でした。ピークに達したのが1969年8月のウッドストック・フェスティヴァル。そして皮肉なことに、このような幻想が崩壊したのもウッドストックを境にして、だったのです。

 

幻滅と失望、諦観が音楽の世界にもひろがりました。外向きの、といいますか社会に向かって強く大きな連帯と共感を呼びかけるというのが1960年代的な音楽のありようだったのですが、そういった<熱>が失われ、冷め、より内面的、個人的でデリケートな肌触りの音楽が出てくるようになったのが1971年だったのです。

 

内省的といいますか、1960年代から大活躍していた音楽家でこういった変化を最も如実に体現したのがスライ&ザ・ファミリー・ストーンじゃないでしょうか。「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」「マ・レイディ」「アイ・ワント・トゥ・テイク・ユー・ハイアー」「ユー・キャン・メイク・イット・イフ・ユー・トライ」「スタンド!」など、60年代にはあんなにも高らかに連帯を社会に向けて歌い上げていたスライだったのに、1971年にリリースした『暴動』では、すっかり様変わり。落ち込んだ、熱の冷めた、冷ややかで皮肉な世界を展開するようになっていました。

 

スライもウッドストックに出演しています。そのパフォーマンスは現在CDでも配信でも一個のアルバムになっていますのでだれでもカンタンに聴くことができますが、それはかなり熱量の高い高揚する音楽で、1960年代的スライの、というよりもシックスティーズ的カウンター・カルチャー・ミュージックの、一大象徴だったとすら言えましょう。

 

その後、スライはやはり陽気で高らかなシングル曲「サンキュー」一枚だけをリリースし1970年代に突入。そこであんなふうに変貌してしまったわけですね。『暴動』で聴けるスライの諦観や落胆、暗さ、重さには、60年代にあんなにも高らかに社会に向けて黒人も白人も手をとりあっていっしょに歩もうよと歌い上げていた姿を見いだすことなどできません。スライの変貌を象徴している、『暴動』ラストの「サンキュー」再演を聴きなしてみてください。

 

「ともだちがいるよ」と連帯を歌う曲がなくなってしまったわけではありません。キャロル・キングの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」(『タペストリー』)がいい例ですので、考えてみましょう。シックスティーズ的な、大きな社会的連帯を呼びかけるのではなくもっとパーソナルでプライヴェイトな、個人的なあいだがらをひそやかにつづる、といったテクスチャーに姿を変えていますよね。これが1971年という時代のフィーリングだったのです。

 

熱がないわけじゃありませんが、1960年代的な高揚する熱さではなく、70年代にはもっと内省的で個人的な親密さが歌われるようになりましたよね。シンガー・ソングライターたちの台頭とも大きな関係があります。曖昧で大きな未来、ではなく、もっと自分の内面を見つめ掘り下げていく個人的な世界が具現化するようになったのです。

 

シンガー・ソングライターの台頭と言いましたが、ソウル・ミュージック界における自作自演ムーヴメントだったともいえるニュー・ソウルのもりあがりも1971年的現象です。これはセルフ・プロデュース権の獲得ともおおいに関係しています。それでマーヴィン・ゲイの『ワッツ・ゴーイング・オン』のような画期的で歴史的な名作が生まれましたが、マーヴィンが先鞭をつけなかったらスティーヴィだってだれだって、70年代以後のブラック・ミュージックの姿はまったく違ったものとなっていたはずです。

 

自己の内面を見つめ掘り下げる内省的な音楽が支配的となったとくりかえしていますが、すなわち音楽的にもルーツ志向といいますか、21世紀的に言えばアメリカーナ的なムーヴメントが主流になったのも特徴ですね。ブルーズ、ゴスペル、カントリーなど南部のルーツ・ミュージックをダイレクトに養分として反映させた音楽が、ロック界でも主流となりました。

 

実はそういった動きは1960年代末からあって、ボブ・ディランやザ・バンドら周辺を中心にして68年ごろから動きはじめていたわけですが、リオン・ラッセル界隈のLAスワンプ系が大きな潮流となったのは1970/71年ごろでしたね。UKロック勢でもあきらかな動きとなり、ローリング・ストーンズの1971年『スティッキー・フィンガーズ』はこういったことがなければ誕生しなかった傑作です。

 

いっぽうでまだまだ1960年代的な熱を残す音楽もあるにはあって、1971年の名作でもたとえばオールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバム『アット・フィルモア・イースト』は、サイケデリックな長尺ギター・ソロをフィーチャーしたシックスティーズ的な音楽だったかもしれません。

 

そんなオールマンズでも、ブルーズなどアメリカ南部の黒人ルーツ音楽を滋養にして消化した彼らなりのルーツ・ロックをやっていたわけですけどね。1971年の米英ポピュラー・ミュージックの空前の奇跡の活況は、そんな1960年代的な残滓と70年代的内省&自己決定権との絶妙なバランスの上に成立していたのかもしれません。

 

(written 2021.4.3)

2021/04/03

わさみんにこれをカヴァーしてほしい(4)〜『(仮想)リクエスト・カバーズ2』

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(6 min read)

 

https://open.spotify.com/playlist/6S987cZlQ0ol90WRPX6F6D?si=08ad6e8d5dbc4c41

 

昨年三日間にわたり三回シリーズで書きました「わさみんにこれをカヴァーしてほしい」シリーズ。わさみんこと岩佐美咲がまだCDやDVDで歌っていない歌謡曲や演歌、J-POPなどの有名曲で、カヴァーしたらいい感じになるんじゃないか、似合うだろうなというのをリクエストしてみるものです。

 

きょうはそれの四回目。特にこれといった理由もテーマもなく、なんとなく思いついたので書いてみました。今回は演歌なし。歌謡曲やJ-POP(って同じもんだけどね)で、思いつくまま、CDなら一枚におさまるという曲数で選んだものです。

 

題して『(仮想)リクエスト・カバーズ2』。そう、そろそろ二作目が出てもいいと思うんですよ。そんな感じで、さあ行ってみましょう、思いつくまま選んでいったのを、曲の発売順に並べ換えました。曲を聴きたいかたはいちばん上のリンクで紹介したSpotifyプレイリストをどうぞ。

 

・時代(中島みゆき/1975/中島みゆき)
・卒業写真(荒井由実/1975/荒井由実)
・ダンスはうまく踊れない(石川セリ/1977/井上陽水)
・かもめはかもめ(研ナオコ/1978/中島みゆき)
・たそがれマイ・ラブ(大橋純子/1978/阿久悠、筒美京平)
・想い出のスクリーン(八神純子/1979/三浦徳子、八神純子)
・スローモーション(中森明菜/1982/来生えつこ、来生たかお)
・瞳はダイアモンド(松田聖子/1983/松本隆、呉田軽穂)
・ダンデライオン〜遅咲きのタンポポ(原田知世/1983/松任谷由実)
・Woman “Wの悲劇”より(薬師丸ひろ子/1984/松本隆、呉田軽穂)
・未来予想図 II(DREAMS COME TRUE/1989/吉田美和)
・寒い夜だから・・・(TRF/1993/小室哲哉)
・First Love(宇多田ヒカル/1999/宇多田ヒカル)
・雪の華(中島美嘉/2003/Satomi、松本良喜)
・やさしさで溢れるように(JUJU/2009/小倉しんこう&亀田誠治)

 

どうです、名曲揃いでしょう。どうしても1970年代から80年代の曲が多くなって、21世紀のものが少ないのは、選曲者がオジイチャンになりかけのオジサンだからしかたありません、許してください〜。でもホントいい曲ばかりだと思うんですよ。

 

カヴァーのキモはアレンジ。アレンジ次第で生きたり死んだりします。わさみんのカヴァーは(ギター弾き語りなどを除き)オリジナル・ヴァージョンのアレンジをそのまま持ってくることが多いですが、上記のような曲の数々をとりあげる際、そこはもうちょっと工夫してもいいと思うんですよ。新規にアレンジャーを依頼すると、そのぶん費用と手間がかさむという事情があるでしょうが、プロ歌手なんですからそこをケチっていてはいけません。

 

1曲目の「時代」ほか中島みゆきの曲が二つありますが、わさみんのヴォーカルとみゆきの曲の相性がいいんだというのは「糸」で証明されています。今回実は候補をピック・アップする段階ではもっとふくまれていたのを、しぼりました。

 

呉田軽穂名義はじめ荒井由実(松任谷由実)のものもたくさんありますね。日本が産んだ現代最高のソングライターと言えるユーミンですがゆえ、いままでわさみんもカヴァーしてきましたし、まだまだ名曲はたくさんあります。

 

松田聖子、中森明菜あたりが歌った曲のなかにも似合うものがありますね。大橋純子の「たそがれマイ・ラブ」や八神純子の「想い出のスクリーン」あたりは、いままでのわさみんカヴァー(やオリジナルもあわせ)からすれば、資質に合致したナンバーであるのは間違いありません。アレンジ次第ですけどね。

 

曲そのものが抜群にいいから、という理由で入れたのが「Woman “Wの悲劇”より」「未来予想図 II」「寒い夜だから・・・」の三曲。どれもメロディ・ラインがもとから秀逸ですし、キュンとくる切なさ、美しさですよね。

 

「寒い夜だから・・・」はTRFが歌った小室哲哉ナンバーですが、小室サウンドではなくしっとりした感じに料理した徳永英明ヴァージョンで確かめてください、化けています(上記プレイリスト参照)。「Woman “Wの悲劇”より」を書いたユーミンが天才なのは自明ですが、「未来予想図 II」を書いた吉田美和もすごいです、メロディの飛躍のしかたに意味があって、しかも美しく楽しい。これら、ぜひわさみん歌唱で聴いてみたいです。

 

宇多田ヒカル、中島美嘉、JUJUあたりは、ぼくの感覚だと「かなり最近」ですが、わさみん世代にとってはそうでもないはず。でも上で書いたような曲はとてもいいし、わさみんの実力をもってすればオリジナルや種々のカヴァーを超えてゆく可能性がじゅうぶんあるんで、ぜひ検討してみてほしいですね。

 

(written 2021.4.1)

2021/04/02

ハード・バップではブルーズがおいしい 〜 ホレス・パーラン

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(3 min read)

 

Horace Parlan / Up And Down

https://open.spotify.com/album/1q5qI2Ixl0KQkZgT4xF8rN?si=LlCbXNikRaOxztE9ZEfszQ

 

アーシーに弾きまくるジャズ・ピアニスト、ホレス・パーランのことが大好きなんですが、きょうもまた一個、『アップ・アンド・ダウン』(1961)のことを書いておきましょう。ボスのピアノ+テナー・サックス(ブッカー・アーヴィン)+ギター(グラント・グリーン)+ベース+ドラムス。

 

この編成だとサックスの音が目立つのはとうぜんで、実際ここでのブッカー・アーヴィンの活躍ぶりはみごと。特に1曲目「ザ・ブックス・ビート」のブックはたぶんブッカーのことでしょう、ブッカーの作曲ですしね。作曲といってもただの定型12小節ブルーズですけど、こういうのがブルー・ノート・ハード・バップのいちばん典型的なおいしさですよ。

 

一番手で吹きまくるブッカーのテナーが快感で、いやあ、実にいいですね。ホレスのピアノをふくむリズム・セクションも好サポート。二番手でグラントのギター・ソロ。デビューしてまだ何年も経っていない時期ですが、すでに独自のブルージー&ファンキー・スタイルは確立されています。同一フレーズ反復でもりあげるのはグラントの得意技で、こういうのは1940年代のジャンプ・ミュージック以来の伝統手法なんですよ。

 

そして三番手でホレス・パーランのピアノ・ソロが出ますが、やはりいつものように途中からがんがんブロック・コードを叩きアーシーに攻めていくのがなんともいえず好み。ホレスのいつもの調子で特別なことはなにもやっていませんが、こういったやりかたでファンキーにジャズを味付けするゴスペル・テイストって、ほんとうにおいしいですよね。

 

2曲目以後も、5曲目のバラードを除き路線はまったく変わらず、グイグイ攻めるばかり。どの曲もブルーズ形式で、ハード・バップにおけるブルーズ演奏がジャズのうまあじをかもしだしてくれる最高の時間を体験する思いです。ジャズにおけるこういったブルーズ表現はもはや過去のもので、2010年代以後は否定されているものかもしれませんけど、好きなファンはまだまだたくさんいるんで、ジャズとブルーズの関係をあんまり悪しざまに言わないでくださいね。

 

(written 2021.1.22)

2021/04/01

むかしのコンパイラーたちはどうやっていたんだろう?

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(4 min read)

 

きのう自家製コンピレイション作成歴のことをしゃべりましたけど、そういうプライヴェイトなものじゃなく、レコード会社から正式に発売されている編集盤というのがむかしからありましたよね、レコードでもCDでも。

 

パソコンが普及してしばらく経ってiTunesが登場してからは、コンピレイションというかミックス編纂はグッとラクになったよなあと思うんです。あっちこっちと持ってきたり並べ替えたりもドラッグ&ドロップだけできわめてイージーだし。

 

それになんといってもプレイバックがあまりにも容易です。自分で並べたものがちょっとどんな感じか、その場ですぐ試し聴きできるでしょ。この点、むかしのコンパイラーたちはどうしていたんだろう?っていつも思います。ちょっと試し聴きするといったってカンタンじゃなかったわけで。ほぼ不可能だったんじゃないですか、レコードしかなかった時代とかだと。

 

選曲したものをレコード会社にあるいはテープにとってもらって、それで試聴していたかもしれませんよね。レコードとかのテスト盤とかはいよいよ完成という段階にならないとプレスされないと思うので、やっぱりテープかな、それもカセットだったりオープン・リールだったりしたのかも。でも家庭用カセットの普及って1960年代半ば以後ですよねえ。

 

それに編纂段階の途中で随時プレイバックを参照しながら作業を進めるなんてことはまったくできなかったはず。だから選曲とか曲順の並び替えとかは、自分で考えてぜんぶ完成するまでは、発売済みのレコードをあっちこっちと聴きかえしたりしたんでしょうね。個人ユースのカセット・テープ・レコーダーの普及は1970年代以後だったでしょうからねえ。

 

こんな点でもいまはラクです。iTunesでもSpotifyでも、コンパイルしながらの作業途中段階で、ちょっといまどんな感じになっているかな?どう聴こえるかな?と思ったらそのままその場ですぐ試し聴けるわけですからね。それでイマイチな箇所も実にカンタンに発見できます。

 

音楽ですからね、いくら熟知しているといっても、新たな曲順になればやっぱり聴いてみないとどんな感じかわからないもの。このことをぼくはよく理解しています。だから、いまはSpotifyでどんどんミックスをつくっていますけど、やりなおしなんかもカンタンで、第一、廃棄しなくちゃいけない試作品CD-Rなんてものも出ないわけです、物体でやるわけじゃないから。

 

こうしてみてきても、フィジカルでやるしかなかった、それもテープ・レコーダーさえ高価で希少だった時代のむかしのコンパイラーたちは苦労しただろう、実に立派だったと感心します。もとの音源やレコードというものをほんとうによく知り抜いていたということに尽きますが、実際に並べて試し聴いてみないと実感がわかないぼくら素人とは才が違ったんでしょう。

 

そうやって苦労して(かどうかはよく知りませんが、話を聞いたこともないし)できあがった過去のコンピレイションはほんとうにおもしろく楽しくて、実にみごとなできばえだったものが多いです。コンピレイションやミックスづくりがはるかに容易になった現代のほうが、よりおもしろく楽しいものが登場するようになった、とは一概に言えないからおそろしいですね。

 

(written 2021.1.20)

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