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2022/01/08

音楽のコロケーション

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(8 min read)

 

英語教師ならみんな知っているコロケーション。「連語」という和訳なんかじゃピンときませんが、これがきたら次はこうくるっていう語と語の自然なつながり、流れのことです。

 

「辞書」だったら「を引く」「で調べる」なんかがよく共起するなと思うんですけど、この手のこと。

 

これを身につけていると、しゃべったり書いたりするときに自然で流暢な感じになります。母語ならだれでもいつのまにかわかっているコロケーション、後天的に外国語を学ぶ際は意識したほうがはるかに早くはるかに容易に習得できるので、コロケーションを集めた辞書などもたくさんあるし、いまではネットでも調べられます。

 

このコロケーションみたいなことが、音楽の世界にもあるよねと思うんです。こうきたら次はこうなるもんだという音と音との自然発生的でスムースなつながり、流れというものは、ミュージシャンやコンポーザーだったならみんな習得していますし、ぼくら素人リスナーだって長年聴いてくれば感じることができます。

 

音楽のコロケーションは、シングル・ノートでの旋律の組み立て、つまりフレイジングにだけでなく、もちろん和音の流れ、つまりコード進行やスケールの並び、さらにリズムの組み立てにもあります。こうやれば自然でスムースで流暢に聴こえるというパターンが。

 

音楽家やファンならみんな身につけているこういった音楽のコロケーション、母語と同じくたくさん接するうちになんとなくこうやればいいんだなとわかるようになるし、近年は音楽学校とかで教えるようにもなっているんじゃないでしょうか。

 

いうまでもなく、文章でも「こうくれば次はこうなる」というコロケーション頼りでしか発語しないと、いつも同じ常套パターンばかりじゃねえかつまらんぞということになってしまうように、音楽でもそうです。ハミ出しフレイジング、意外な和声展開など、新鮮に響く工夫をしますよね。

 

ジャズ史なんかはこのコロケーションからの脱出を試みる歴史だったとみることもできます。スウィング・ジャズ黄金時代の1930年代後半にジャズ語法は一度すっかり熟成し切ったと思うんですが、そのまま直後にビ・バップ革命が起きることとなりました。

 

ビ・バップのアド・リブ手法は、それまでの従来的なコード使いからの脱出を試みるものでしたからね。その底には熟成=退屈という認識があって、新感覚の斬新な表現をしたいという新世代ミュージシャンたちの取り組みの結果、ビ・バップのニュー・イディオムが誕生したわけです。

 

もちろんどんな新鮮な手法でも、完成すればやがて熟成し腐りはじめて飽きられ見捨てられるように、ビ・バップ → ハード・バップも約十数年間の成熟過程を経てマンネリへと至りました。1940年代にはあんなに進歩的と聴こえたものなのに。コロケーションとは常套パターンのことだから、あたりまえではあります。

 

次第に西洋近代音楽的な機能和声システムそのものが行き詰まっていると認識されるようになり、コーダルな手法よりもモーダル、すなわちスケールにもとづいて作曲したりソロをとったり、あるいはもういっそのこと和声そのものを捨てアトーナルなアド・リブ手法をとりはじめる演奏家まで出現するようになったのは、みなさんご存知のとおり。

 

とはいえ、ジャズにおける和声面での工夫や逸脱がどんなに進んでも、この音が来たら次はこれをおくのが自然ななりゆきだ、という組み立てというか流れ、すなわちフレイジングにおけるコロケーションというものは(フリー・インプロなどでも)依然として不変だったようにも思えますけれどもね。

 

そういえば、約一年ほど前に出会ってはまったパトリシア・ブレナンの『Maquishti』が極上の美しさ、すばらしさだと思えたのは、おそらくフレイジングでそういったコロケーションになるたけ拠らないようにしようという即興の試みだったからかもしれません。

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ジャズが参考にした西洋クラシック音楽の世界では、モーダルなアプローチやアトーナルな組み立てなど和声面での工夫は20世紀はじめごろからずっとあって、ジャズで取り組みがはじまったのが50年代末ごろだったのはやや遅かったのかもしれません。民俗音楽の世界でもモーダル・ミュージックは古くからある、というかそっちのほうがむしろ主流です。

 

たとえばブルーズ。はじめての曲でもキーとテンポさえあわせればパッとその場でだれでも演奏に参加できますが、ブルーズは決まりきったコロケーションだけでできあがっている音楽といえるかもしれません。

 

日本の民謡や演歌の世界も同様。決まりきったコロケーションだけで組み立てられているジャンルだといえて、だからはじめて聴く未知曲でもそのままその場でパッとギターとかで伴奏できちゃうなと思えるのは、メロディやコード進行のパターンが固定的だからです。

 

ほんとねえ、演歌なんか、メロディとコード進行のコロケーション・パターンが十個程度しかないんじゃないか、その程度の決まったものだけでできあがっているぞと感じることすらあって、これじゃあ「ぜんぶ同じ」だよと言いたくなる瞬間もあったり。むろん古典的な常套パターンにはまる快楽というものだってありますが。

 

こういった音楽のコロケーションは、近接しながらもジャンルごとに違ったシステムがあって、ジャズのそれ、ブルーズのそれ、カントリーのそれ、演歌のそれ、マンボのそれ、シャバービーのそれ、ルークトゥンのそれ、マンデ・ポップのそれ、などなど何種類もその枠内で通用するコロケーションができあがっています。

 

和声体系とそれにもとづくメロディ展開のパターンは、特にジャンルごとにコロケーションの固有性・独自性をアイデンティファイしやすいものですが、ラテン・アメリカ音楽だけは(世界中に普及している)リズム・パターンこそがアイデンティティでしょう。

 

これがあるがため、ぼくのような素人一般リスナーでも「あっ、これは〜〜というジャンルの音楽(要素)だ」と、はじめて聴く曲であれ認識・分別できるわけです。だから逆に言えば、ジャンル固有のコロケーションから逸脱している、多種をミックスしてあるものにオッ!と感じ、新鮮な感動をおぼえたりするんです。

 

(written 2021.12.29)

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