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2022年4月

2022/04/30

ギリシアの波止場のアバネーラ 〜 ディミトリア・パピウ

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(2 min read)

 

Dimitra Papiou / Emathe I Kardia
https://open.spotify.com/album/3dd1RrSTgjQJIR2itSS24E?si=r47mmO4IRKOHZMNY8PGF5g

 

ギリシアのライカですが、ディミトリア・パピウの七作目らしいアルバム『Emathe I Kardia』(2010)。この手のものは渋谷の音楽ショップ、エル・スールにどんどん入荷するので、HPをぶらついていれば自然と目にとまります。

 

夜霧にむせぶような、うらぶれた濃厚で抒情的なレベーティカ〜ライカもいいんですが、個人的に好きなのはたとえば4曲目あたりのやや陽なラテン・テイスト。このへんがとてもいいなと感じたので書いておこうと思ったんですから。

 

この曲はアバネーラなんですが、アルバムにはほかにタンゴもあるし、要はそういったカリブ海由来のシンコペイティッド・リズムが聴けるギリシア音楽だっていうのが、ぼくにとってのこの作品の魅力。

 

しかもそんなアバネーラな4曲目では、まずカモメの鳴く声が挿入されていて、波止場かなと思わせておいてから軽快なビートとブラス・セクションが入ってきて、ディミトリアが歌いだし、その後大編成コーラスまでくわわってにぎやかにやっているあいだも港か酒場っぽい雑踏音が混ざっているという。

 

ほんとこれ、めっぽういいです。実際アルバムのラストで同じ曲がインストルメンタル(といってもコーラスは聴こえるけど)・リプリーズされていますから、それはたんに歌入れする前のカラオケ・トラックかもしれませんが、やっぱりこれが聴きもの売りどころなんでしょう。

 

ほかにも薄味でフォーキーなテイストの曲もあったり、決して裏町裏通りの音楽だということばかりでもない日の当たる明るめな雰囲気もあって、歓楽に疲れたような?ふてくされたような?おいそれと近づける女ではありません的な?いやいや必ずしもそんな音楽じゃないよなあとの感を強くします。

 

ジャケットの印象とは裏腹に、とっつきやすく聴きやすい音楽でしょう。

 

(written 2022.3.16)

2022/04/29

快感!肉体派大西順子 〜『Grand Voyage』

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(3 min read)

 

大西順子 / Grand Voyage
https://open.spotify.com/album/6gzWFN7EHXqlNTvP7iKLP3?si=JmCp_rO2QMWWDETPRMBSqA

 

ごめんなさいジャズ・ピアニストの大西順子をいままでちゃんと聴いてこなかったですが、Astralさんのご紹介で耳にしてみてビックリ仰天、こりゃすごい!と感激しきりですっかり夢中。
https://astral-clave.blog.ss-blog.jp/2022-03-04-1

 

それが最新作『Grand Voyage』(2021)。がつんがつんと弾き倒していて、もうのけぞったまま口あんぐりですよ。まさにゴツゴツの肉体派。全速力で血しぶきが飛び散りまくるような音楽です。

 

ほぼどの曲もレギュラー・トリオ(b井上陽介、ds吉良創太=すごい)+大儀見元のパーカッションという四人編成。打楽器陣の強化がグルーヴに色彩感と濃厚さをもたらしていて大成功。ど迫力でぐいぐいドライヴするさまは痛快のひとことに尽きます。もう1曲目「Wind Rose」からいきなりトップ・ギアに入れてエンジン全開で爆走するさまは、前戯なしでの激しいセックスみたい。

 

パーカッショニストの参加でアフロ・ラテンなノリが鮮明に出ているのは3曲目「Printmakers」(ジェリ・アレン)。出だしからいきなりバンドが全速力ですが、ポリリズムの多彩で自在な変化模様は圧巻。デューク・エリントン直系といえる順子の分厚い鍵盤さばきにも息を呑みます。バンドと一体になっての曲後半部での高揚感なんか、とんでもないすさまじさ。

 

そのまま打楽器アンサンブルだけで演奏されている4「Tridacna Talk」を経て、ふたたびのハード・グルーヴ・ナンバーである5「Ground Swell」へ。これはアフロ・ラテンではなく超高速4ビート。しかし決して従来型のメインストリーム・ジャズではない多彩な現代的ビート感が表現されています。ここでも順子のブロック・コード叩きが超快感!

 

と思ったら次の6「Harvest! Harvest!」がこりゃまた(途中からだけど)強力でカラフルなラテン・ハード・グルーヴを聴かせて魅了されるし、なんなのこのアルバム?!もうここまでの展開で完璧に腰が抜けてしまいます。傑作でしょう。

 

小野リサが参加しての静かなボサ・ノーヴァ・ナンバーを息抜きに、閑話休題、後半もあざやかですよ。9「Charlie The Wizard」とか、そして、アルバム中これがいちばんぶっ飛んでいるんじゃないかと思う11「Low Tide」。前からもともとハードでノリまくりの濃厚ジャズ・ピアノで定評があったらしいですが、順子は、それにしてもこれなんか聴きながらスピーカーの前にすわったままの姿勢で3メーターくらい飛びました。

 

アルバム・ラスト14曲目「Kippy」はどう聴いてもセロニアス・モンクの曲だよなあ、もろそのスタイルだ、と思ったらダラー・ブランドが書いたもの。でもこのメロディ・ラインの動きかたはモンクのそれ。奇しくも順子がデューク〜モンク〜山下洋輔という垂直系ピアニストの系譜に連なることを証明しています。

 

(written 2022.4.28)

2022/04/28

時代がひとめぐりしての2022年型フォーク・ブルーズ 〜 タジ・マハール&ライ・クーダー

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(3 min read)

 

Taj Mahal & Ry Cooder / Get on Board: The Songs of Sonny Terry & Brownie McGhee
https://open.spotify.com/album/3d5mOvPLoAggvWctC7L12Z?si=hYvwelm-QOics4n3wM5Iqw

 

タジ・マハール&ライ・クーダーの新作『ゲット・オン・ボード:ザ・ソングズ・オヴ・サニー・テリー&ブラウニー・マギー』(2022)は大きな注目を集めていて、各所で賞賛のことばが書かれまくっていますから、ぼくなんかは黙って楽しんでいればいいような気もします。なんの説明も必要ありませんし。

 

でもみんながあまり言わないことを一個強調しておきたくて。それはこの音楽が端的に<ブルーズの復権>を謳ったものだってこと。そうかといって音楽家たちになんのハッタリも気負いもなく、すんなりナチュラルにホーム・セッションをこなしているのがベテランらしいところ。

 

題材になっているサニー&ブラウニーのパフォーマンスというのは、1960年代には公民権運動の讃歌としても機能していました。だから2022年にそれをとりあげる重要性もそこにあるとぼくは思うんですね。BLMムーヴメントやロシアのウクライナ侵略など60年代と変わらず揺れまくりのこの時代、サニー&ブラウニーの曲が息を吹き返す意義は大きいです。

 

タジとライは、しかし(キャリアと年齢ゆえか)特に気張らず欲もなくメッセージを示すこともなく、ただ淡々とワキームの自宅で三日間のライヴなホーム・セッションを重ねただけ。それにあとから音をくわえたり細かな修正をし、つくりこんで完成品にもっていったんですね。

 

そんな事情があるもんですから、アルバムの音響はかなりラフで、スタジオではない空間性を感じさせるもの。そこがまたナマな質感で、ブルーズ・ミュージックのイキイキとした再現模様を演出していて、いいじゃないですか。そう、21世紀以後、ブルーズはもう死んだ、終わった、老人の音楽だ、現代的訴求性なんかない、とさんざんな扱いですが、そんなことないんですよね。

 

それをタジとライはヴィヴィッドに示してくれたような気がします。時代が一巡りも二巡りもして、過去の遺産みたいになっていた音楽がかえっていま「新しい」と脚光をあびたりするようになっていますが、ブルーズが時代の流行音楽だった60年代当時から現役の二人が、レトロな視点というよりむしろ不変の意味を持つものとして、サニー&ブラウニーのレパートリーを甦らせているのはうれしいです。

 

まるで「自分たちが駆け出しだったころに憧れていたひとたちのようにいまはなった」と言わんばかりに、自分たちはここにいるよ、めぐりめぐってここへ戻ってきたと、しかもそれを自然体で気楽に演奏している姿がアルバムのサウンドに聴きとれて、なんだか頼もしく胸がときめきます。

 

(written 2022.4.27)

2022/04/27

上質なシルクのような 〜 ルーマー『B サイズ&レアリティーズ Vol.2』

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(4 min read)

 

Rumer / B Sides & Rarities Vol.2
https://open.spotify.com/album/0CNhXKYx4kOOZrelgXiGUr?si=9VPX9Dk7Rua2gJwrEEDfBg

 

4月22日には待望の新作が三つも出ました。タジ・マハール&ライ・クーダーの『ゲット・オン・ボード』、ルーマーの『B サイズ&レアリティーズ Vol.2』、ボニー・レイットの『ジャスト・ライク・ザット…』。一日に好作リリースが集中して聴くのが追いつかずうれしい悲鳴っていうのはよくあること。

 

タジ&ライのニュー・アルバムについてはみんなが話題にしていて耳目をさらっているので、いつものんびりのどかなぼくのブログではあとまわし。ゆっくりマイ・ペースでやればいいでしょう。ボニーもそこそことりあげられています。

 

ということで、ほとんどだれも言及しないルーマーの新作から書いておくことにしましょう。Vol.2となっているのでおわかりのとおり、2011年の『B サイズ&レアリティーズ』の続編。シングルのみだった曲やそのカップリング・ナンバーなど、いままでアルバムに入っていないものを中心に集めています。

 

2015年にアメリカに来てピアニスト&プロデューサーのロブ・シラクバリを公私とものパートナーとするようになってからのルーマーはすっかり落ち着いていて、自分の人生をみつけたっていう感じ。水を得た魚のようなのびやかさを聴かせています。

 

やや翳りと憂いをもたたえた美声を持つルーマーのヴォーカルは、1960〜70年代ふうのレトロでオーガニックなポップスをやらせるのにこれ以上の歌手はいないかもと思わせるほどみごとにはまっていて、ここ10年近くの(ややジャジー・カントリー寄りな)アメリカン・ポップス界ではきわだった存在です。

 

今回も、そもそもアルバム題だって、いまはもうシングルもデジタル・リリースだけになったから「B面」なんてないのに、あえてこのことばを使うあたりがいかにもなこの歌手らしい世界観ですね。

 

ルーマーのヴォーカルにはリキむところがまったくなく、すーっと軽くおだやかに声を出しながら、微細な部分にまで神経がいきとどいていてデリケート。それでいて丸みや芯の太さ、信念みたいなものを感じる声質で、ほんとうに近年のぼく好み。ますます磨きがかかってきていますよね。

 

バート・バカラックの音楽監督を務めていたロブ・シラクバリをパートナーにしたことが成功と成長に著しく貢献しているというのもわかります。本作もやはりロブのプロデュースで、聴こえるピアノもたぶんそうでしょう。おだやかで淡々としたオーガニックなサウンド・メイクなのは変わらず。

 

バカラックの曲も今作に一個ふくまれていますし、サラ・ジョイス名義での自作もあり。また今回は個人的にとても耳を惹くものが二曲ありました。9「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」と12「ザ・フォークス・フー・リヴ・オン・ザ・ヒル」。いうまでもなく前者はビージーズの名曲で、いまやスタンダード化していると言っていいでしょう。

 

後者はジャズ歌手なんかがよく歌うジェローム・カーン作のポップ・スタンダードで、やはりたいへんすばらしいですね。それらはいずれもいまの幸福感につつまれたルーマーの私生活をそのまま反映したような曲で、それを大切に大切にそっとやさしく平穏につづっていく声に魅せられてしまいます。

 

ロブがつくった伴奏サウンドもほんとうにきれい。後者では自身の弾くピアノだけ、前者ではそれに軽いストリング・アンサンブルが付与されているのみっていう、なんともしずやかでおだやかなテクスチャー。それに乗って上質なシルクのようなルーマーの美声が流れていくさまにはためいきしか出ませんね。

 

(written 2022.4.25)

2022/04/26

青春のスーヴニア(2)〜 ビル・エヴァンズ『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』

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(3 min read)

 

Bill Evans / You Must Believe In Spring
https://open.spotify.com/album/2B583jxnkHmIyBU6Z8VlmI?si=iSrA1m7UTW2I3Yx-1c8yAA
(オリジナル・アルバムは7曲目まで)

 

高三1979年で電撃的に突如ジャズ熱愛者に豹変したんですが(しつこい)、本格的にはお金と、なにより時間的な余裕が手に入った80年4月からの大学生時代がジャズざんまいの日々でした。

 

そんなジャズきちとしての青春にいちばんのBGMになっていたのがビル・エヴァンズ。そりゃあ個人的にはウィントン・ケリーみたいなスタイルのほうが好きでしたが、エヴァンズはジャズ喫茶など関係各所で、もう流れまくっていたんです。

 

1980年の9月に亡くなったというのが、こりゃまたそのころのエヴァンズ熱にいっそう拍車をかけていました。これはあの当時のことをリアルタイムで経験したジャズ・ファンなら間違いなく記憶があるはず。

 

死の翌81年にリリースされたアルバムが『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』。録音は77年に行われています。追悼盤みたいになっていて、実を言うと自分では当時レコードを買わなかったんですが(CD買ったのはたしか1990年代末)それでも鮮明に音楽を記憶していますから。ジャズ喫茶などでこれでもかというほど聴いたんです。

 

大学四年間のジャズ狂生活でいちばん耳に入ってきていた音楽がエヴァンズの『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』だったとしても過言ではないと思うほど。当時から「さほど好きじゃないよ」と意識したり発言したりしていたのは、周囲のそんなフィーバーぶりへの反発というのもあったんじゃないかといまでは思います。

 

そこから長い年月が経ってぼくも還暦。自分の心に素直に、好きなものは好きだと、イマイチなものもそう言おう、偽らずウソをつかず正直に対応しようという気分になっているんですが、するとやっぱりエヴァンズみたいなピアニストはほんとうにそれほど大好きというほどには感じず。猛然とスウィンギーにドライヴする黒人ピアニストのほうが個人的な嗜好には合います。

 

それでも(エモーションは内に秘めて)おだやかで静かで淡々と美の世界に耽溺しているような音楽をどんどん聴き、そういうのがいいなと心から感じるようになってみて、平穏でなにもない日々に若かったころのことをなつかしく思い出し、ぼんやり感慨にふけって、いい気分といういまのぼく。

 

そうすると、エヴァンズのピアノ、特に『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』みたいな体内の芯奥に沁み込んだ青春の音記憶は、いま聴きかえすと、あぁすばらしい、なんてきれいな音楽だろうか、これこそがぼくのジュヴナイルだったなあと思い出し、その後約40年の経過で失ったものと、だからこそ得たものに思いをいたします。

 

こんなところまで来たんだなあと、同じアルバムを聴いて、そう思うんです。

 

(written 2022.3.18)

2022/04/25

青春のスーヴニア(1)〜 ビリー・ジョエル『ストリートライフ・セレナーデ』

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(5 min read)

 

Billy Joel / Streetlife Serenade
https://open.spotify.com/album/57nvMIu4PQLLXRbmKESigL?si=FF7tICquT0yb5n0qoMrZKA

 

1979年、17歳高校三年生でモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)に出会い電撃的にジャズきちがいに豹変する前のぼくが好きだった洋楽は、レッド・ツェッペリンとビリー・ジョエル。なんども書いてきたことです。

 

ツェッペリンは聴いてもいいけどコピーしてスクール・バンドで歌っていたわけです。自宅でレコード聴いてはまっていたのはビリー・ジョエルのほう。ぼくが出会ったころには、ヒットした代表作『ザ・ストレインジャー』(1977)も、次作でフュージョン色の濃い『52nd ストリート』(78)もすでにありました。

 

しかし大学生になって、その時点で買えるビリーの全レコードを聴いてみて、なぜだか好きだと感じてよく聴いていたのが不遇のロス・アンジェルス時代二作目『ストリートライフ・セレナーデ』(1974)。一般的には佳作とすらもみなされていないものです。

 

むしろ1980年代時点では忘れ去られるべき過去みたいに扱われていました。それでも大手コロンビアからの実質デビュー作『ピアノ・マン』(1973)以後のものは松山みたいな地方都市でもレコードがすべてかんたんに買えたし、ブレイク後にビリーに出会った身としてはそこらへんのストーリー(下積みの西海岸時代とニュー・ヨーク帰還後の大成功とか)はあまり関係なかったのです。

 

とはいえ『ストリートライフ・セレナーデ』が好きだというあのころの気持ちは間違いなくLA臭が音楽に色濃くただよっていたからなんですが、このことはいまふりかえるから気がつくことです。ニュー・ヨークと西海岸の音楽性の違いなど大学生当時はなにもわからず、ただなんとなく心地いい、なんだかなつかしいような感じがしていただけ。

 

いまではその感想がなんだったのか、なんとなくわかる気がするようになってきました。人生の影の部分を掘り下げたノスタルジアあふれる音楽だからじゃないかと思うんですよね。LAでのビリーがやや暗い不本意な音楽生活を送っていたことと関係があったかも。

 

いはばビリーのプライベイトな心象風景を描いた音楽といえるわけで、哀感がやや濃いめにただようサウンドとメロディ・ライン、歌詞もかな、そのへんが大学生時代に好きで、青春時代のぼくの日常にぴったりくるBGMになっていたんです。なんだか切ないフィーリングはいまでも大好き。

 

ニュー・ヨークに戻ってきて大成功してからのビリーの音楽にも一定程度は残っているこうしたサウンド、『ストリートライフ・セレナーデ』ではそれが中心を占めているわけなので、いま聴きなおしてもそうだし大学生時分から好きでした。3曲目「ザ・グレイト・サバーバン・ショウダウン」のサビのメロなんか、もうほんとうにねえ。

 

キーボード・シンセサイザーの多用(ビリー自身が弾いていると思う)もこの音楽家のほかのアルバムにあまりない顕著な特徴で、決して主役だったりはしないんですが、サウンド・エフェクト的に随所に挿入され、それがまた青春のちょっと臭めなフィーリングをうまくふちどっていました。

 

それでもやはりビリーはピアノ・マンであるに違いなく、4曲目「ルート・ビア・ラグ」みたいなインストルメンタル・ナンバーは(ライヴ以外では)しかしその後は登場することがなくなりましたけど。それとは違って技巧を示すものではありませんが、アルバム・ラストの「ザ・メキシカン・コネクション」も歌なしのピアノ・インスト。

 

そしてなんといってもその直前におかれた9曲目「スーヴニア」。これこそビリーの全作品で現在でもぼくがいまだ最も溺愛する一曲。なんだか切なく哀しくわびしげな、しかし人間だれしもいだく心情を淡くつづったこの小品は、ピアノだけの弾き語りでしんみりと歌われています。

 

ぼくの青春はこんな音楽にいろどられていたんです。

 

(written 2022.3.12)

2022/04/24

モダナイズされたゲール古謡 〜 イニ・ケー

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(2 min read)

 

Inni-K / Iníon
https://open.spotify.com/album/5KKhWoDwfhc7W8pAj0VxGX?si=anIAul6ZSxaVemkce-rPKw

 

ダブリンの歌手、イニ・ケー(でいいの?読みがわからん Inni-K)の最新作『Iníon』(2022)がとても美しいです。この歌手のこともアルバムのことも、いわもさんのツイートで知りました。
https://twitter.com/skanpinchoice/status/1515532716963352578

 

シャン・ノース(sean-nós)と呼ばれるゲール古謡を、モダナイズした音楽。元来は無伴奏独唱されるものですが、このアルバムでは自身の弾くフィドル、ピアノ、シンセサイザーにくわえ三名、ドラムス、クラリネット、チェロが参加していて、ややジャジーな響きもあります。一曲だけ独唱も。

 

イニ・ケーはソングライターでもあって、アルバムの収録曲はすべて自作なんですが(Eithne Ní Chatháin名義でのクレジット)、まったくアイリッシュ・トラッドのマナーに沿ったもの。英語曲もあります。歌いまわしだって伝統的なのに、伴奏のサウンドはかなり斬新でコンテンポラリー。

 

そこに本作が耳を惹く最大の理由がありますね。現代音楽や21世紀ジャズのファンが聴いても入っていける衣をまとっていて、アイリッシュ・トラッドの世界でのこうしたチャレンジはいままで聴いたことがないですが、すばらしいと思います。

 

イニ・ケーのヴォーカルにはエモーションが込められておらず、きわめてクールで冷徹、淡々としていて、聴き手と距離を置いているかのようでありながら、それでもやさしくてあたたかく親しみやすいフィーリングがあります。着地せずただよっているかと思えばアーシーにも響いたり。鮮烈な印象を残す歌です。

 

(written 2022.4.23)

2022/04/23

亡命者としてのアラブ・アンダルース・ジャズ 〜 アヌアール・カドゥール・シェリフ

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(3 min read)

 

Anouar Kaddour Chérif / Djawla
https://open.spotify.com/album/1ClG7ZPAWMZTUdLTwCG04T?si=zxyp7NDcTeyLi24v4YyHzQ

 

マンドール奏者のアヌアール・カドゥール・シェリフはアルジェリアでバンド・リーダーとして活躍してきた存在ですが、2019年に24歳でスイスへと亡命。その後三年目にしてリリースしたのが今回の新作『Djawla』(2022)です。インターナショナル・デビューとなりました。

 

いままでになかった、一種のアラブ・アンダルース・ジャズとでも呼べそうな内容になっていて、なかなかおもしろいと思います。アヌアールのマンドール以外はスイス人ミュージシャンでしょうか、バス・クラリネット、コントラバス、ドラムスという編成での演奏。

 

アラビック・ジャズというか、アラブ・アンダルース伝統に沿った曲づくりとマンドール演奏なのがわかりますが、それをコンテンポラリー・ジャズの語法でやっているというのはちょっとビックリですよね。聴いたことない音楽です。

 

たとえば5曲目「Sirocco」なんかでも、アヌアールのマンドール演奏はシャアビふうにアルジェリア音楽ルーツに則しながら、三人のバンド・アンサンブルは躍動的な現代ジャズそのもの。即興的演奏力も卓越しています。

 

どの曲もヨーロッパにおける亡命アルジェリア人という哀感と、日々の生活の厳しさから来るものであろう灰汁のようなフィーリングが強くにじみでていて、しかしそれが音楽にさほどのエッジをもたらさないのはやはりヨーロッパ人三名によるジャズ・マナーゆえかもしれません。

 

アップ・ビートの効いた8曲目「Vigule」はアラブ要素抜きの純正ジャズとして聴いてもすばらしい演奏で、アヌアールふくむバンドの四人でエモーショナルにもえあがり、ジャジーな意味ではアルバム中いちばん聴きごたえがあります。

 

続くラスト9曲目「Amiret Erriyam」では冒頭なぜか親指ピアノが聴こえますが、おそらくドラマーが演奏しているんでしょう。アヌアールはシャアビ・マナーな歌も披露しますが、そのあいだも伴奏はジャジー。ヴォーカルはほかにも使われている曲があります。

 

亡命者としての生活実感や心象風景がかなり鮮明に刻まれているようですが、ジャズ・バンドでそれを表現したいと思ったのはなぜだったんでしょうか。

 

(written 2022.4.21)

2022/04/22

電話嫌い

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(4 min read)

 

以前も一度言いましたが、大の電話嫌いなぼく。どうしてかって、電話はこっちの生活に遠慮なく土足で上がり込むでしょう。いまなにをしているかに関係なくかかってくる。お風呂とか寝ているとか、いま都合悪いかもしれない、出られないかもしれないとか、あまり配慮せずかけるほうはかけます。

 

だから、あらかじめなにか別の手段で打ち合わせして「何月何日何時に電話でおしゃべりしよう」との合意のもとのもの以外は、大きな迷惑だとずっとみなしてきました。あとはなにかのカスタマー・サポート窓口とかコール・センターとか、そんなのしかちょっとねえ。

 

吃音者だっていうのも、電話嫌悪に拍車をかけてきたかも。

 

とにかく、予告なしに突然かかってくる電話ほど生理的に受けいれられないイヤなものはありません。

 

もちろん商売をしているみなさんはそういうわけにいかないでしょう。自営じゃなくても職場での仕事上の電話もあるでしょう。きょう言っているのは個人の日常生活での話です。

 

電話はかけられるほうの都合も考えないといけないという認識がさすがに最近はひろまってきているみたいで、私用電話でもまず開口一番「いま電話していいですか?」みたいな断り文句が告げられるケースも増えました。しかしそう言われて「いまはダメです」とは言いにくいこともあったり。水仕事している途中だって無視するわけにはいかないんですから。

 

それにですね、ぼくはこれまた特殊な人間かもしれないですけど、一日中ず〜っと音楽を聴いているんですよ。自室では、寝ている時間を除き、そこそこ大きな音量で間断なく音楽が流れています、一日中。電話がかかってくる or かけようとすると、それを止めないといけないのもつらいんです。無視するにしたって着信音が鳴れば音楽のジャマです。

 

音楽を止めたくないから自分からも滅多に電話をすることはありません。ほぼゼロと言っていい。母なんかはパソコンもスマホも使えないヴィンテージ人間だから、たがいに要件があるときは電話しか手段がなく、だから個人的にはそれだけかも。

 

うん、もういまはネットにつながったデジタル端末があるんですからね、使える人間はそれで連絡をとりあえばいいでしょう、なにも快適な日常を寸断する電話なんか使わなくたって。ソーシャル・メディアのメッセージング機能とか、メッセージ交換アプリとか、メールとか、手段はいくつもあります。

 

というわけなんで、だれにも電話なんかしなくなったし、だれからもほぼかかってくることがなくなってはいます。昨年8月に現在の居所に引っ越してからは自宅の固定電話回線を引いていません。NTTとの契約はインターネットのみ。これは大洲時代の2013年ごろからそうです。家電なんて、いまやセールスや勧誘など迷惑電話だけになったんですから。

 

電話、特に固定の家電は、個人の私生活においてほぼ(精神的)老人層だけのものになりつつありますが、携帯電話だっていまやネット端末、モバイル・コンピューター、カメラ機器という位置付けで認識されているんじゃないですか。そうじゃなかったらこの電話嫌いのぼくがiPhoneを買うわけはありませんでした。

 

だから電話機といえばiPhoneしか持っていませんが、それを買った2017年6月以後、はたしてどんだけ音声電話をかけたりかかってきたりしたか、合わせても、ほんとうに両手の指で数えられる程度しかないと思います。電話のない生活。心地よく一日中音楽を部屋で楽しみながら、ゆっくりと時をすごすことができて、快適です。

 

(written 2021.10.30)

2022/04/21

復帰後マイルズのベスト・パフォーマンスはこれ 〜「タイム・アフター・タイム」in 東京 1987

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(4 min read)

 

Miles Davis / Time After Time (1987, Tokyo)
https://www.youtube.com/watch?v=Ia1PaaFvBPk

 

1981年復帰後のマイルズ・デイヴィスが84年からライヴで頻繁に演奏しはじめ、同年にスタジオ正式録音もしてアルバム『ユア・アンダー・アレスト』(85)に収録発売されたシンディ・ローパーの名バラード「タイム・アフター・タイム」。

 

結局亡くなった1991年までこれを演奏しなかったライヴ・ステージは(企画ものなどを除き)およそ一つもなかったとしても過言ではありませんから、ラスト10年のマイルズを代表する一曲だったでしょう。

 

だから、なんらかのかたちで録音されたものだけでも星数ほどあるマイルズの「タイム・アフター・タイム」のそのなかでも1987年7月25日、東京でのライヴ・アンダー・ザ・スカイで演奏されたヴァージョンはひときわスペシャルです。

 

これこそがぼくが耳にした範囲ではマイルズによる同曲のベスト・パフォーマンスに違いなく、復帰後マイルズの最高名演といえるもの。まるで天から音楽の神が降臨しているかのような演奏ぶりで、マイルズだけでなくバンド全員にミューズが取り憑いていたとしか思えません。

 

特にMIDI同期のキーボード・シンセサイザーを弾くロバート・アーヴィング IIIが絶品。こんなフレイジング、一曲にわたって切なさ爆発しそうですが、事前にかっちりしたアレンジが用意されていたかも?と思えるほど同じモチーフを反復しながら一貫して整っています。

 

ライヴでは事前のアレンジやリハーサルを嫌うマイルズで一度もやったことがありませんでしたから、これもその場だけの即興だったのだと思うとますます鳥肌が立ちますね。それはバンドのみんなに言えること。リッキー・ウェルマン(ドラムス)のフィル・インもみごとです。

 

そしてマイルズのハーマン・ミューティッド・トランペット。キーボード・イントロに導かれまず吹く最初の第一音からして狂っています。どこからこんなフレーズが浮かぶのか?本編歌メロとはなんらの旋律関係もないプレリュードなんですが、そのパートの組み立てが天才的。これも即興なんですから、やはり神が降りていたでしょう。

 

歌メロ部に入り、どこまでも切なくリリカルに、歌詞の意味をじっくりかみしめるように淡々ときれいに吹いていくマイルズの美と、巧妙なフレイジングで寄り添うロバート・アーヴィング III。

 

そしてそのままの雰囲気を保ったままサビに入った刹那、いきなりマイルズはミュート器を外し、ぱっとオープン・ホーンで吹くんです。あたかもみずから抑制していたエモーションを瞬時解放するかのごとく、ただよいながら高らかに舞います。

 

しかしそれはサビだけ。終わるとその後はふたたびハーマン・ミュートをつけクールな世界へと戻っていきますが、サビだけオープンで吹いたドラマにはとても強い音楽的必然性と意味が感じられ、一音の過不足もない表現のなかにタイトにおさまっているというのが、晩年のマイルズにしてはありえないと思えるほど至高の美的構築品。

 

Miles Davis - trumpet, keyboards
Kenny Garrett - alto sax, flute
Foley - lead bass
Robert Irving III - keyboards
Adam Holzman - keyboards
Darryl Jones - bass
Ricky Wellman - drums
Mino Cinelu - percussions

 

https://www.youtube.com/watch?v=rj3xCgcOxlA&t=23s

 

1. One Phone Call / Street Scenes
2. Human Nature
3. Wrinkle
4. The Senate / Me and U
5. Tutu
6. Splatch
7. Time After Time

 

(written 2022.2.19)

2022/04/20

声の美しさとリリカルさがいい 〜 カロル・ナイーニ 2013 & 21

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(3 min read)

 

Carol Naine / Carole Naine
https://open.spotify.com/album/1EPbUU9zUrqykndhogcywF?si=r5iTyuU3T4CCNRt26a7rnw

 

Carol Naine / Ao Vivo
https://open.spotify.com/album/4G5iZbYygHbTXxC5OppOsR?si=zwCi9-f6Rl-I3w2EfwUSLA

 

bunboniさんのブログで知った歌手です。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-09-11

 

カロル・ナイーニ(ブラジル)のデビュー作『カロル・ナイーニ』(2013)は、たしかにとにかくアレンジが先鋭的。プロデュース、アレンジ、音楽監督を務める鍵盤奏者のイヴォ・センナがとんでもないサウンドをつくりあげています。

 

曲はソングライターでもあるカロルが書いていて、サンバを基調にした通常的なものですが、こんなすさまじく鋭角的なアレンジと音響がついて、それでいてヴォーカルはそれに引っぱられることなく平常心で美しいっていう。

 

アレンジ・サウンドが先鋭的すぎるせいでそっちばかり聴いてしまいますが、ぼくとしてはそれと曲と歌(声)との三位一体のバランスっていうか、かみあっていないかのように同時並行する感じ、ぶつかりあいがなかなか楽しくて。

 

メタリックに硬質で乾いたイヴォ・センナのペンとは対照的に、カロルの持ち味はしっとり湿っていてリリカルだというのが実際のところ。体温を感じる人間味にあふれていると聴こえます。サンバ・クラシコの持つ深い情緒とメランコリアをそのまま継承しているようで、このデビュー作はそれも聴きどころの一つかもしれません。

 

特にアルバム・ラスト10曲目「Nasso Lar」で聴かせるバラード表現なんか、マジですばらしい。クイーカを効果的に使ったイヴォのアレンジも曲と声のリリカルさをきわだたせることになっていて絶妙ですが、ここではなんといっても歌の情緒感がいい。

 

このデビュー作がかっとびすぎているおかげで、パートナーをチェンジしてしっとり路線になった二、三作目がかすんでしまいますね。昨2021年に出た三作目『Ao Vivo』も、フィジカル・リリースなきゆえか話題にすらなっていませんが、内容はいいと思います。

 

ライヴ・アルバムという題名ですが観客の気配すらありませんから、無観客スタジオ配信ライヴみたいなものなんでしょうね。いや、配信すらせず、ただライヴな生演奏をそのまま収録したというだけの意味かも。

 

さわやかな清涼感すらただよう音楽で、それはピアノを弾くアレシャンドリ・ヴィアーナのスタイルゆえでしょうか。基本ピアノだけの伴奏で歌っていますが、曲によってはチープなビート・ボックスの音も聴こえます。カロルは二作目以後アレシャンドリと組んでこんな路線。サンバ・ベースのMPBというより、かなりジャジーな雰囲気に傾いていて、個人的には好きです。

 

カロルの声の美しさ、高音部でひときわ目立つ繊細な歌いまわし、曲のメロディのよさなどは、こういった路線のほうがわかりやすいかもしれず、上品さと端正さが前に出ていてけっこういいという面だってあるのでは。

 

(written 2022.2.20)

2022/04/19

だれだっていつも他力本願

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(5 min read)

 

ブログやインスタ投稿(から連動しているTwitterとFacebook)でぼくがとりあげる音楽家やアルバム、曲などを、どこでどうして知るか?というと、100%近くが他人のブログや各種投稿やお店のHPなどでです。つまりほぼ完全に他力本願。以前も言いましたが。

 

自分で見つけたことなんて、ほんとうにちっともない、というに等しいくらいなんですよね。だれ経由でもなく自力で見つけたというのは(おぼえている範囲では)上に画像をタイルしたアンガーム(エジプト)の2019年作、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(パキスタン)のウォマド・ライヴ1985、ノナリア(インドネシア)の2020年新作とか、たぶんそれくらい。

 

それらはすべてSpotifyをブラブラしていて、アンガームならアンガームで検索してみたら(もちろんそれには理由があるわけですけど)、あっ、なんと、新作が出ているじゃないか!と気がついて、聴いてみたらとてもいいので驚いて、紹介したという次第でした。

 

サブスク・サービス徘徊で見つけるのを「自力」発見と言っていいかどうか微妙ですけどもね。レコードCDショップ店頭をぶらついていて見つけるのと同じことですから。路面店にはバイヤーがいて、輸入盤にしろ「これがよさそうだから仕入れてみよう」という他者判断が介在しています。そうじゃなきゃ店頭に並ばないわけで、サブスクにはそれがありませんけども、代わりにAIが自動でオススメしてきます。

 

そう、だから新着音楽を知るのに「他者の判断」が介在している/していないが、ぼくにはちょっぴり意味のあることなのかもしれません。といってもほぼ100%他人の紹介によってニュー・アルバムなど知っていますが、それがなく自分でたどりついて聴いてみてよかったと思えたものは、なんだかすがすがしい気分です。そんなことほぼないんですけど。

 

考えてみれば、他人の判断があいだに入らず、完全自力で、あたらしい音楽や音楽家、新作などを見つけるだとか、そんなことはたぶんどなたにとってもほぼ不可能なことなのかもしれないです。本人からでもまったく情報発信されていなければ見つかりようもないわけですから。

 

たいていはショップとかAIとか紹介者の案内で知る、それでよさそうだと自分でも思って(買うなりサブスクなりで)聴いてみる、それで感動したり一定の感想を持って、ごひいき作品になったりするというプロセスが一般的で、そこに他人の判断が介在しているからといって引け目を感じることもないんでしょうけど。

 

だから、まったくこの世で知られていないローカル歌手、ローカル・ミュージシャンというのが、世界各地にかなりたくさんいるだろうなと想像します。レコード、CD、カセット、配信、なんでもいいけど録音作品をリリースしているのなんて、実はほんの一握り、音楽の世界の氷山の一角であって、結婚式とか祭事など地元現場で歌ったりして生計を立てたり、あるいは副業であっても、活動しているというひとたちが、それこそ無数にいるでしょう。

 

しかし世界各地の音楽現場にまで足を運ばず日本に住んで部屋のなかで音楽を楽しんでいるぼくにとっては、つまりリリースされている録音音楽こそがすべてであって、リリースとなればそれなりの宣伝もされるし、情報が拡散して、いまのネット時代には世界のだれかが知る、ということになっています。結果ぼくの耳に届いたり(届かなかったりも)します。

 

そういうものを、ただ自宅の椅子にじっとすわりながらにして知る、ということなんですから、完全独力での情報獲得なんてありえないわけであって、ショップに足を運ぶにしたってそうで、この世にあふれかえっている録音音楽作品は、必ずだれか紹介者、輸入者の判断と介在があってこそぼくらのもとに届くということなんです。

 

ここまで考えれてくれば、いつもいつも他力本願で申し訳ないとぼくは感じることがあるけれども、そんなふうに感じる必要なんて実はぜんぜんない、本質的にほぼ全員がいつもだいたい他力本願なのだ、ともいえましょう。

 

どんな音楽が、どの作品が、自分向きか?ということに、あらかじめ他者の思考が介在してしまう、他者なくしては自己もありえない、というのはちょっとあれですけどね。自分の好みを自分で決めているわけじゃないかもなんですから。

 

(written 2021.10.9)

2022/04/18

二枚組の楽しみ 〜 ビートルズ『ホワイト・アルバム』にある小好品

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(4 min read)

 

The Beatles / minor little tunes in The White Album
https://open.spotify.com/playlist/6NH1q0Hw6CRiLSk3AvrRXM?si=49e62fa640924625

 

ビートルズの通称『ホワイト・アルバム』(1968)にかぎらず、フィジカルでいうところの二枚組とか三枚組とかであれば、人気がなく地味で目立たないし傑作でもないけれど、隠れた良品っていうような曲がいくつかあったりしますよね。そういうのが好き。

 

二枚組LP偏愛志向がぼくにはあったと以前書いたこともありました。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/lp-5fe8.html

 

アルバムのトータル再生時間が長くまるごとぜんぶを集中しては聴けないし、音楽家側もどんどん放り込み雑多な曲がごった煮になっているしで、そういうことが起きると思います。リスナーとしての個人的感覚でそういうマイナー良品を見つけては、いつくしんできました。

 

最近はSpotifyのデスクトップ・アプリで曲ごとの再生回数が出るので、人気のある/なしが客観的に裏付けられるようになっています。それによれば、ビートルズ『ホワイト・アルバム』でよく聴かれている人気曲は、やっぱりね!というものばかり。

 

「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」「ワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ブラックバード」の三曲が突出していて、いずれも億回数以上再生されています。なんだよ、サブスク、それもSpotifyだけでの話じゃねえか、と言うなかれ。こういうデータを根拠に全体の傾向を推定するのが科学的統計というものの考えかた。

 

実際、レコードでもCDでもこれら三曲はたいへんよく聴かれてきていてみんなのあいだで大人気だというのは、長年の経験的な実感としてもあります。反対にこのアルバムで再生回数が最も少ないのは「レヴォルーション9」の約980万回なのですが、それがかえって物語っているようにこの曲は別な意味であまりにも目立っていて、知らぬひとのないものですから。

 

ぼくのいう『ホワイト・アルバム』での私的マイナー嗜好品とは、たとえばディスク1だと断然「ロッキー・ラクーン」。これ、どうして好きなんでしょうかね、たぶん一枚目ではいちばんいいんじゃないかっていうくらい。でもむかしからそうだったわけじゃありません。ここ10年くらいの趣味です。

 

ディスク1だとそのほか「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」「ワイ・ドント・ウィ・ドゥ・イット・イン・ザ・ロード?」とかも大好き。前者はやや有名でしょうか、でも再生回数はかなり少ないんですけど。熱心なマニア、ジョン・ファンが言及する機会が多いということかな。

 

最近こうなったというんじゃなくむかしから好きだった小良品となれば、たとえばディスク2の「ハニー・パイ」と「サヴォイ・トラッフル」。目立たない地味曲に違いありませんが、ぼくのフィーリングにはピタッときます。前者はわかりやすいですね、1920年代のオールド・ジャズ・ソングふうに仕立ててあるレトロ・ポップ・チューンですから。私的嗜好のどまんなか。

 

ジョージの「サヴォイ・トラッフル」が大好きだというのがどうしてなのか、出だしのドラムスどこどこが好きなのか、各コーラスともいったんパッとブレイクが入ってから歌がはじまる構成が楽しいし、サックス・セクションのリフだって快適。

 

ほかにも、たまらないほど好きな「マザー・ネイチャーズ・サン」や、そうでもないけど「レヴォルーション1」や、あんがい再生されていないんだなと知った「ヤー・ブルーズ」もブルーズ・ロック(のパロディだけど)だからもちろん好き。「アイ・ウィル」だってポールのアクギがいい感じ。

 

(written 2022.2.6)

2022/04/17

平穏な日常にトミー・フラナガンの『ソロ・ピアノ』がよく似合う

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(4 min read)

 

Tommy Flanagan / Solo Piano
https://open.spotify.com/album/5SNof6oUTrG6W0xWBg0iyc?si=RJzVD978QlmjI6z8m5j3pA

 

まったく素っ気ないアルバム題とジャケット・デザインですが、音楽は極上のトミー・フラナガン『ソロ・ピアノ』(2021)。このひとのソロ録音はあまりなく、これを入れて生涯三作だけ。

 

録音は1974年にスイスのチューリッヒで行われています。ちょうどエラ・フィッツジェラルドの伴奏をしていた時期で、その楽旅で訪れたついでにスタジオ入りしたんでしょう。

 

2005年に今回と同じストーリーヴィルから一度CDリリースされはしたんですが、違うピアニストの音源も混ざって収録されていると判明、そのまま長期にわたりカタログから消えていました。

 

フラナガンの演奏だけ全11トラックをきちんとまとめなおし、昨年再リリースされたというわけです。このピアニストにとって生涯初のソロ録音である本作、演奏されているのはスタンダードや有名ジャズ・オリジナルばかり。

 

ぐいぐい迫るドライヴ感とかファンキーさ、ブルージーさとかじゃなく、リリカルで美しいメロディをじっくり静かに、とことんきれいに弾いているのは、このピアニスト本来の持ち味。そういう傾向に沿って選曲されたであろうものが並んでいて、おそらく自身でチョイスしたんでしょう。

 

しっかりした鮮明なタッチで弾くビ・バップ・ナンバーが最初に二曲、その後スタンダード・バラード・セクションへと移っていきますが、タッチは決してハードではなくどこまでもおだやか。特にリリカルなスタンダード・バラードでは、メロディの美しさをそのまま活かすように淡々とつづっているのが好印象です。

 

ちょっとした注目は7トラック目「ビリー・ストレイホーン・メドレー」と10「ルビー・マイ・ディア」(セロニアス・モンク)。ストレイホーンはデューク・エリントン楽団に印象派ふうのきれいな情景描写を持ち込んだコンポーザーで、ここでのフラナガンもそれをよく理解しての演奏。

 

そもそもずっと前からストレイホーンの曲が好きだったとみえて、1957年のトリオ名作『オーヴァーシーズ』でも「チェルシー・ブリッジ」をやっていましたね。今作のメドレーでも演奏されています。このピアニストのスタイルはメロディが美しくリリカルなストレイホーン・ナンバーをやるのにぴったり。

 

モンクの「ルビー・マイ・ディア」はご存知のとおり美しくチャーミングなメロディ・ラインを持っていますから、ここで選ばれたのも納得です。個人的なことを言えば、これとか「クレパスキュール・ウィズ・ネリー」とか「リフレクションズ」とか、モンクの書くきれいなメロディはこの上ない好物なんですね。

 

フラナガンの、確実で輪郭が鮮明で、音の粒だちがよく、滑舌のいいおしゃべりみたいなあざやかな鍵盤さばきで、全11トラック、曲の持ち味やよさが活きるできばえ。なんでもないような平凡な音楽と聴こえるかもしれませんが、おだやかで静かな日常にはこれ以上ない心地よさでくつろげます。

 

(written 2022.2.22)

2022/04/16

トンブクトゥ写本に思いを馳せて 〜 ファトゥマタ・ジャワラ

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(3 min read)

 

Fatoumata Diawara / Maliba
https://open.spotify.com/album/44oE0ouhsot3puH8OFuwXt?si=yqRrGVpSTLmR9lL18ttdvg

 

コート・ジヴォワール生まれマリの歌手でフランス在住のファトゥマタ・ジャワラについては、日本語でもしっかり紹介されているので、ぼくがあらためて説明しておく必要はありませんね。ご存知ないかたはちょちょっと検索してみてください。

 

2022年の新作『Maliba』が出たことは、たしか菊太郎さんのツイートで知ったんでした。いまのところデジタル・リリースのみの模様。EP扱いですけど32分あるので、しっかりしたアルバムでしょう。
https://twitter.com/sekinongk/status/1507882571920654337

 

Google Arts & Cultureとのコラボで、いはゆるトンブクトゥ写本プロジェクトのためのサウンドトラックとしてオンライン提供されたのがファトゥマタのこのアルバム。「トンブクトゥ写本」とはマリ北部の都市トンブクトゥで13~17世紀ごろに作成されたさまざまな写本を包括的に指すもの。長らく個人が所蔵していましたが、20世紀に入ってからは公共施設による組織的な収集・体系化が進みました。

 

2012~13年のマリ北部紛争の際、イスラム過激派の手によりこうした写本群のほとんどが焼却されたと一部で報道されたんですが、紛争中ひそかに首都バマコへと搬出され、安全に保管されていたことがわかりました。

 

Google Arts & Cultureによるトンブクトゥ写本プロジェクトとは、世界が容易にアクセスできるように、この写本群のデジタル化を推し進めようというもの。ファトゥマタはこうしたプロジェクトのための音楽を依頼され、できあがったのが『Maliba』というわけです。

 

音楽としては、おだやかな質感をたたえつつ躍動的な生命力あふれるグルーヴに支えられているのもわかるのがファトゥマタらしいしなやかさ。女声のウルレーションが一瞬入ったりするものは、いはゆる砂漠のブルーズっぽい感触もあります。かと思うとグナーワみたいな微妙にずれ重なるカルカベ・アンサンブルが聴こえてトランシーになったり。

 

西アフリカ系の打楽器を使いながらも、むしろインターナショナルなサウンド・メイクに寄っているのも以前と同じ。なおかつ全曲を書いているファトゥマタのソングライティングには間違いなくマリ音楽だというアイデンティティ・ルーツ志向があって、今回トンブクトゥ写本のための音楽ですから、いっそうそこを自覚したはず。

 

ギターやエレベのサウンドもくっきりしているし(特にベースの音が浮き出ている印象)、またストリングスが全曲でやわらかなサウンドの彩りを添えているのもいいですね。主役のヴォーカルはたくましくも落ち着いたやや渋めの響きで、コーラスも多用。タイトル曲では男声ラッパーが客演しています。

 

(written 2022.4.13)

2022/04/15

演歌新世代を先取りしていた島倉千代子の軽み

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(5 min read)

 

島倉千代子 / 全曲集 2022
https://open.spotify.com/album/5PFAkB68xy0LPr88XKNw5Q?si=r9-Htj-iQCmrhGP_hAIxww

 

理由があってここのところ島倉千代子を聴くことがあるんですが、以前は大嫌いな歌手でした。演歌というジャンルはこどものころから(17歳でジャズに目覚めるまで)好きでずっと親しんできたのに、千代子だけはなんだか生理的に受け入れられないものがあると感じていました。

 

なぜかってたぶんあの世代(千代子は1955年デビュー)の演歌歌手としては声が異様にか細かったから。「演歌」というステレオタイプからかけ離れた存在を理解できなかっただけというこちらの未熟さゆえですけどね、結局のところ。

 

おととい書きましたように、あの時代のティピカルな演歌ヴォーカルといえば強く張ったノビのある太く丸い声で、コブシやヴィブラートを多用しながら、ぐりぐり濃厚&劇的にやるというもので、ぼくだってそんな演歌歌手が好きでずっと親しんでいたんですから。

 

(余談)最近はあっさり淡々としたおだやかな薄味嗜好に傾いていますけどね、洋楽に目覚めてもやはり(歌手であれ楽器奏者であれ)同様に濃厚な発音スタイルを持つ音楽家のほうが長年好きだったのは、そうした演歌ヴォーカルに親しむことで素地ができていたのかも。アリーサ・フランクリン、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、サリフ・ケイタ、ユッスー・ンドゥールなどなど。

 

ともあれ、演歌唱法の常道から千代子は大きく外れていました。このひとだけあまりにもか細く頼りないひ弱なヴォーカル。歌った瞬間に消え入りそうで、かわいいとか可憐とか女々しいっていうようなヴォーカルが要は嫌いだったんですよね、前は。でも千代子のレコードは売れに売れて、大人気歌手でした。年末の『紅白歌合戦』にだって30年も連続出場していたんですから(当時の最高記録)。

 

そんな千代子の歌を「あっ、これはひょっとしたらいいかも」とごくごく最近感じるようになったきっかけは、おととい書いた『This Is 演歌 30』のプレイリストを今年二月に作成したこと。大ヒット曲「人生いろいろ」「からたちの小径」の二つ、やはり演歌史を代表するものだからと(最初はしぶしぶ)入れておいたんです。

 

それでプレイリスト全体をじっくりなんども聴くうち、九割以上を濃厚演歌歌手が占めているなかで千代子の声が流れてきたら、あれっ、ひょっとしてこれは新しいんじゃないか、2010年代以後の演歌新世代に通じるストレート&ナイーヴなヴォーカル・スタイルじゃあるまいか、千代子はそれを先取りしていたかも?と気づくようになりました。

 

あの世代としては例外中の例外だった千代子の発声と歌唱法。それでもちゃんと世間に理解され売れて厚遇されましたが(20歳で一軒家を購入した)、いはゆる演歌第七世代的なニュー演歌タイプが流行している現在2010年代以後に千代子がもっと再評価されてもいいように思えてきましたよ。

 

激しくなく劇的でもない細いヴォーカルで、重々しくせず軽やかに歌いつづる千代子のスタイルは、コブシもヴィブラートも使わずストレートであっさりした淡白な薄味の演歌新世代歌唱法を、数十年前にまさしく予見し実践していたのかもしれません。

 

裏返せば、岩佐美咲や中澤卓也など第七世代のニュー演歌に親しむようになった現在だからこそ、ふりかえって千代子のこういった歌がなかなかいいぞと感じられたんです。だから、その意味ではこれも「美咲のおかげ」だっていうことなんですが、島倉千代子の21世紀的重要性を考えるようになったわけです。

 

歌の内容は千代子のばあいも(演歌定型らしく)重く暗くつらいものが多いですが、こんな声と歌いかただからシリアスな悲壮感みたいなものがただよわずさっぱりしていて、リスナー側も落ち込むことなくすんなり気楽に親しめたんじゃないでしょうか。それは、トゲがとれ人生を達観した熟年の境地に置きかえることができるような気もします。

 

(written 2022.4.9)

2022/04/14

This is 演歌第七世代

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(3 min read)

 

This is 演歌第七世代
https://open.spotify.com/playlist/2tL0MOVSbdg1kkipEYWpPo?si=35d75ed49c804696

 

さてさて、きのうは「これが演歌だ」という古典的なスタンダードどころを30曲まとめてド〜ンと聴いたわけですけど、記事のおしまいで軽く触れておきましたように、2010年代以後、演歌のヴォーカル・スタイルも時代にあわせてアップデートされるようになっています。

 

それがいはゆる「演歌第七世代」。これについては以前くわしく書いたことがあるので、具体的な歌唱特性や活動様式など、ぜひそちらをご一読いただきたいと思います。岩佐美咲をその先駆けと位置づけた内容です。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2021/11/post-46c7a9.html

 

具体的にどんなもんなの?どういった歌なのかちょっと聴いてみたいんだけど?というみなさんのために編んでおいたプレイリストがいちばん上でリンクを貼った「This is 演歌第七世代」というわけです。全14曲、約58分。

 

演歌第七世代の代表的名曲は、中澤卓也(1995〜)の「青いダイヤモンド」(2017)だとぼくは思っていて、これは曲も最高だし、さわやかメロウな声の質といいソフトでありながら強さも感じる歌いまわしのチャーミングさといい、歌手として間違いなく次世代の日本歌謡界を背負って立つ資質の持ち主が卓也です。

 

「青いダイヤモンド」はマジ曲がこれ以上ないほどすばらしいんですよね(田尾将実作曲)。さわやかで涼しげな調子、しかもサビ部分で軽く効いているグルーヴィなラテン・ビート香味がえもいわれぬ快感で、もうたまりません。パッと青空が開けたような爽快感とノリのよさがただよい、卓也の甘くソフトなミラクル・ヴォイスでとろけてしまいます。もうこればっかり聴いてしまう。

 

第七世代の先駆とぼくは考えている美咲と、そんな卓也を三曲づつ選び、そのほかはこの分野で名前が一般的にあがる歌手たちを一曲づつ入れておきました。似たようなスタイルを持つ若手演歌歌手はたくさんいて、あきらかに演歌新世代という潮流があるのを感じさせるんですが、キリがないので代表的な存在だけに限定しました。

 

例外は二曲入れた辰巳ゆうと。第七世代的なあっさり淡白で薄味の演歌は代表曲「誘われてエデン」で味わえますが、今2022年の新曲「雪月花」にはやや驚くかもしれません。まるで50年くらい時代をさかのぼったような、浪曲ベースの古典演歌そのもので、こりゃいったいどうしたんでしょう。

 

ゆうとだけでなく、氷川きよしその他の新曲にも同様に古典回帰傾向がみられますし、どうもひょっとしたら今年以後こうしたレトロでクラシカルな演歌復興がこの世界のニュー・トレンドになっていくのかも?という可能性の兆候を感じないでもありません。もうしばらく観察してみないとなんともいえませんけども。

 

ともあれ、ここ数年ほどで大きくなった「第七世代」に代表される演歌界の新潮流、これが確固たるものになってきたというのは、だれも無視できないしっかりした事実に違いありません。これで、ファン層が固定的で高齢化している演歌が、若年ファンを獲得できるでしょうか。

 

(written 2022.4.6)

2022/04/13

This is 演歌 30

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(4 min read)

 

This is 演歌 30
https://open.spotify.com/playlist/46R5onMxXIaGdpjmMyvi7o?si=064484a248a94fa2

 

「これが演歌だ」という古典ナンバー、おなじみのスタンダードなところを存分に味わえる30曲をピック・アップし、二時間弱のプレイリストにしておきました。たかだか1960年代に成立したばかりの新しいポップス・スタイルですから、まだそんなに歴史はありません。セレクトはむずかしくなかったです。

 

参考にしたというかこういうものを自分でつくって聴いてみよう、それでなにか思うところがあるだろう、そうしたら書けることがきっとあるはずとなったきっかけは、Twitterで流れてきた今年二月の以下のネット記事です↓

 

・「北島三郎、島倉千代子…1960年代の記憶を今に伝える「昭和の演歌」のベスト1を決めよう」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92164

・「石川さゆり、八代亜紀…今も歌い継がれる、昭和の演歌「名曲ベスト40」をすべて明かす…!」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92165

 

後者の記事3ページ目に「昭和の演歌 ベスト40はこれだ」という一覧表が掲載されています。眺めてみたら、なんと、このぼくでもぜ〜んぶよく知っているものばかりじゃあ〜りませんか。これを踏み台に自分の考えで抜いたり入れたりしながら、30曲のセレクションを作成しました。

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このへんの曲の数々が「演歌とはなにか」というステレオタイプ・イメージを決定づけてきたものでしょうね。ステレオタイプというと否定的な用語ですが、きょうここではみんなが一般的に抱く共有の印象という程度に理解してください。それであるがゆえ、一部の音楽ファン、特にジャズやロックなどを聴く洋楽リスナーからは見向きもされないのですけど。

 

個人的には小学校高学年(1970年代初頭)から中高生のあいだ、こういった演歌名曲の数々をテレビの歌番組でほんとうにたくさん楽しんでいて、ぼくが現在のようなキチガイ音楽愛好者になる素地を形成していたんです。レコードは一枚も買いませんでした。あのころ多くのテレビ歌番組がありましたから、不自由しませんでした。

 

30曲とも、いま聴いてぜんぶよく知っているし、それどころか血肉骨髄の深部にすっかり沁み込んでいるノスタルジアを刺激されて、実に快感。心地いいです。リラックスできる、なんというか「本来のぼく」というDNAが発現しているような、そんな感じですかね。17歳でジャズにはまって以後は長年遠ざけ毛嫌いしていたものなのに、まさに三つ子の魂百まで。

 

ここにある30曲を歌う演歌歌手たちは、島倉千代子を唯一の例外として、だれもみんな強く張ったノビのある濃厚な発声をしています。抑揚をつけ、ドスを効かせたり、強く大きなヴィブラートを使い、コブシをまわしたりガナったり巻き舌発声をしたりなど、つまりそういった激しく劇的なヴォーカル・パフォーマンスが日本歌謡界では演歌の標準的なスタイルとして確立されていたものです。

 

それを刷新した、あっさり淡白でストレートに歌う2010年代以後の演歌新世代も、こうした古典的演歌歌手たちのスタンダードな曲や歌唱法にちゃんと学び、土台としてふまえているんだとわかっています。若手のなかにも三山ひろしのようにカンペキ旧世代歌唱法を実践する歌手だっていますからね。

 

歌詞の世界は、「強い男と耐える女」という固定的なジェンダー観や恋愛観 + 酒&タバコという、もうなんというか21世紀には通用しえない旧弊なもので、鼻をつまみたくなるんですけど、そこだけ目をつぶればメロディは美しいしビートだって楽しい。さらにラテン・ミュージックからの流入色が濃いのも印象に残ります。

 

「古い」と笑えば笑え。これが高三17歳(1979年)でジャズにはまる前までのぼくのティーネイジを形成した思春期の最も重要なワン・ピースだったんですから。思い出すきっかけをくれたのは、わさみんこと岩佐美咲でしたけど。

 

(written 2022.4.5)

2022/04/12

いまは『サム・ガールズ』が心地いい 〜 ローリング・ストーンズ

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(3 min read)

 

The Rolling Stones / Some Girls
https://open.spotify.com/album/1Jv2AqzhgsduUik2p4k3cS?si=b6LIJpJHRUmR5Na5LmFo5A

 

ローリング・ストーンズの諸作中、このところ(最近一、二年?)の気分では『サム・ガールズ』(1978)がいちばん好きになってきています。個人的No.1ストーンズは長年『エクサイル・オン・メイン・ストリート』(72)とその近辺だったのにねえ。

 

サイズのコンパクトさといい、トンがっていない内容の中庸さ加減といい、ちょうどいい聴きやすさなんですよ。これ以上でも以下でも、老齢の入口にさしかかりつつあるいまのぼくの気分にはフィットせず、その中間のちょうどよいバランスの上でこのアルバムは成立しているように思えます。

 

ですからディスコとかハードなロックンロールとかはイマイチで、いまのぼくが好きな『サム・ガールズ』とは「ジャスト・マイ・イマジネイション」といったソウル・カヴァーと、カーティス・メイフィールドっぽい「ビースト・オヴ・バーデン」、そしてなによりおだやかなカントリー・ソングである「ファー・アウェイ・アイズ」あたり。

 

特にレコードではB面1曲目だった「ファー・アウェイ・アイズ」が最高に心地いいです。淡々としたアクースティック・ギターのカッティングとピアノと、絶妙にからみあうペダル・スティールで表現するベイカーズフィールド・サウンドに乗せミックがトーキング・ヴォーカルを聴かせています。決してシャウトしたりギターが派手に鳴ったりしないっていう、この平穏さ。

 

テンプテイションズ・ナンバーだった「ジャスト・マイ・イマジネイション」もオリジナルの「ビースト・オヴ・バーデン」も、激しくなくザラついていないのがいいと思うんですよね。基本的にアメリカ黒人音楽に沿いながら、適度にそれを希釈しているその加減が、いまの気分にはぴったりなんです。

 

アルバム・ラストの「シャタード」だって、ノリのいいグルーヴ・ナンバーではありますが、ファンキーさのなかにユーモアがあって中庸な雰囲気を感じますから、けっこう好き。空間をビッチリ音で敷き詰めすぎないのがいいので、ロックンロール・ナンバーだけど「ビフォー・ゼイ・メイク・ミー・ラン」(ヴォーカルはキース)も好き。このスカスカ骸骨サウンドが<やりすぎない>感を出しています。

 

なんだかんだ言ってスキップしたりせず通してぜんぶ聴くんですけど、アルバム・サイズも全10曲約40分という適切さ。むかしのLPレコードってどれもだいたいこんなもんでしたけど、2020年代の新作アルバム短尺化傾向にも合致しています。

 

そして、いくら書いても説明しきれない<なにか>の心地よさ、快適さがこのアルバムにはあります。トンがっていない、時代の先鋭流行を追いすぎない、ちょっと立ち止まっていったんのんびり休憩しているみたいな、そんなのどかなリラックス・ムードがいまは好きなんですよね。

 

(written 2022.1.14)

2022/04/11

音楽に惚れたんであって、見た目が好きなんじゃない

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(5 min read)

 

写真はチェンチェン・ルー(魯千千、台湾出身在NYCのジャズ・ヴァイブラフォン奏者)の公式Instagramに2021年夏ごろ上がっていたもの。当時の渋谷タワーレコードでの様子で、ちょうどPヴァインがアルバム『ザ・パス』のCDを日本で発売したころでした。

 

問題は付属しているポップに書いてあることば。「Cool & Beauty」くらいはなんでもありませんが、「美しすぎるヴィブラフォン奏者」ってなんですか。ルックスが美しいかどうかで音楽の価値が決まるんですか?「すぎる」ってなに?

 

この手のことは以前からぼくも言い続けていますし、一度は演歌歌手、丘みどりきっかけで徹底的に書いたことがありました。ほんとムカつく。容貌の美醜と音楽性は関係ないのに。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-63f03b.html

 

チェンチェン・ルーでこうやってルックスをどうこう言うのは、実はぼくが『ザ・パス』LPレコードを買ったディスクユニオンの通販サイトにも書かれてあって(「美しきヴィブラフォン奏者」)、ってことはそれぞれのお店じゃなく発売元のPヴァインが考え一斉に提供しているのかもしれません。

 

ふだんぼくはサブスクで音楽に出会いサブスクで聴いていますから、チェンチェン・ルーのときもそうだったけどこういった種類のことに気づかないことがよくあります。あとから知ってゲンナリするっていう。

 

ここ日本では、レコード会社など音楽業界が女性の歌手や演奏家のルックスを「美しい」と表現することで、それでもってセールスにつなげたい、つながるはずだろうという商慣習、メンタリティが根っこにいまだしつこくあって、どうにも抜きがたいということです。

 

音楽家なんですから、あくまで音楽の実力を言えばいいんであって、歌や演奏をアピールして売っていけばいいと思うんです。音楽好きが魅力を感じるのもそこであってルックスは関係ないだろうとぼくは確信していますし、そんな商慣習はなくなってほしいんですが、いまのところどうにもならないような印象。

 

エル・スールのサイトなんか、もうこういった「美人」「美形」のオン・パレード。「〜〜嬢」「〜〜女史」という表現もよくやっていて、店主や常連客などつまりあの界隈では女性音楽家をひとつの音楽人格としてちゃんと認めていない、人形のような愛玩品と考えている証拠です。オフィス・サンビーニャも同じ。

 

どのレコード会社もどのお店も「売りたくて…」という一心でやっていることだと理解はしていますけど、そもそも見た目が美しいというセリフをつけくわえておけば売れるだろうという発想があるということですから。実際それで売れるのか知らんけれども。

 

もちろん歌手とか演奏家とか、ぱっと見て美人だ、かわいい、カッコいい、イケメンだというのをイイネと感じるのは当然で、売り手もぼくらファンもそれが目に入り思わず言及したくなるというのは不思議なことではありません。

 

問題だと思うのは、そんなちょっとイイネと感じて思わず言ってしまうという部分じゃなく、音楽ビジネスの根本に性差別があって、ジェンダー・バイアスやルッキズムなしで商売が成り立たない、そもそも社会が根っこからそういう差別構造の上に成立しているということです。

 

じゃなかったらこんだけ歌手や演奏家を宣伝するのに「美人」「美しすぎる」なんていうポップやコピーがあふれかえるわけないですから。ひとりひとりの意識を刷新していかないとダメだとも思うと同時に、システムから変えていかないといけませんよね。

 

音楽は、やっぱり「音」を聴けよ、音の魅力で宣伝しろよ、と思います。声のよさ、ヴォーカル・パフォーマンスの魅力、演奏能力の高さ、どんだけチャーミングなサウンドを奏でるか、っていうことで売るようにしていってほしいし、うんそういう音楽だったら聴きたい、買いたいねとファンも思うようなビジネス・モデルにOSをアップデートしないとダメでしょう。もう2022年なんですから。

 

(written 2022.2.15)

2022/04/10

ブルーズは心の安心毛布 〜 ブルーズ・ロック・ギターをちょっと(2)

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(5 min read)

 

Some Blues Rock Guitars
https://open.spotify.com/playlist/4C3lknWolY212BM93KqBKU?si=baab0f10a8714366

 

2018年に書いた文章のくりかえしになってしまうんですけども、ほんとうに好きでいつでもよく聴く癒しなので、また言ってもええじゃないか。個人の趣味ブログですから。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-08e7.html

 

ナスティな感じのブルーズ・ロック・ギターをたっぷり浴びるほど聴きたいっ!という気分になることがぼくにはときたまあって。なにを聴いてもなんだかピンとこない、心が寒いっていう不調時の安定剤としてもいいんです。

 

だからいつでもぱっと聴けるように、根っから大好きなものだけ集めてプレイリストにしてありますが、問題はSpotifyでのそれとMusicアプリ(旧名iTunes)でのそれがちょっとだけ違うってこと。

 

というのもプリンスの「パープル・ハウス」がサブスク配信されていません。ジミ・ヘンドリクスの「レッド・ハウス」をリメイクしたもので、これが収録された2004年の『パワー・オヴ・ソウル』というジミヘン・トリビュート・アルバムはCDしかないんです。

 

なので「パープル・ハウス」だけはSpotifyプレイリストのほうには入れられず、残念ですけど。これも聴き逃したくないので、ブルーズ・ロック・プレイリストを再生したくなったらいつもMacのMusicアプリを起動させています。CDをお持ちでないかたのためYouTubeリンクを貼っておきましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=whbewejw-g8

 

今回のプレイリストは、前回2018年に作成して記事にしたのを基本的にそのまま活かしながら、数曲は新規に足したり削ったりもしているので、いちおう以下に演者と曲名を書いておきましょう。

 

1. The Allman Brothers Band / Statesboro Blues
2. Mike Bloomfield / Albert’s Shuffle
3. Fleetwood Mac / Shake Your Moneymaker
4. Jeff Beck / I Ain’t Superstitious
5. Derek & The Dominos / Have You Ever Loved A Woman
6. Frank Zappa / Cosmik Debris
7. Led Zeppelin / I Can't Quit You Baby
8. The Rolling Stones / Stop Breaking Down
9. Van Morrison / Bring It On Home To Me
10. Stevie Ray Vaughan / The Sky Is Crying [Live]
11. Jimi Hendrix / Red House
12. Prince / Purple House
13. Prince / The Ride
14. Paul McCartney / Matchbox

 

ジャズにしろロックにしろ、このへんのくっさぁ〜いブルーズ系のものはイマイチだという向きもいらっしゃるようですし、近年の最新音楽トレンドからすればますますそうなりますよね。

 

時代遅れだなと思いはするものの、個人的に好きでたまらない、聴けば快感で心地よく、特にそれ系のロックでエレキ・ギターがぎゅんぎゅん鳴っているものなんか、これ以上に安寧できる音楽が個人的にはないなあと思うほど。どうにも抜けない嗜好なんですから。

 

ダーティな弾きまくりじゃないものも一曲だけ入れてあって、9曲目のヴァン・モリスン「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」(サム・クック)。2017年のアルバム『ロール・ウィズ・ザ・パンチズ』からと、本プレイリスト中最も近年の作品。ブルーズというよりソウル・ナンバーですが、ジェフ・ベックのギターが美しいので。

 

これ以外は1960年代末〜70年代前半のものが多く、しかもUK勢中心ですよね。これはあきらかに一つの傾向を示しているといえます。60年代デビューのUKブルーズ・ロック・バンドがこういった世界をリードして一時代を築いたのはまぎれもない事実。

 

個人的には高校二年でレッド・ツェッペリンにはまって、スクール・バンドでコピーするようになり、それをきっかけに同様のロックが好きになりました。高三で電撃的にジャズ・ファンになってもやはりブルーズやそれベースの曲や演奏が大好きだっていうその素地は、UKブルーズ・ロックを聴くことで養われたものでしょう。

 

とことん突きつめて、そんな数々のUKブルーズ・ロック・バンドがカヴァーしていたオリジナルの米黒人ブルーズ、リズム&ブルーズ、ソウルなどアメリカン・ブラック・ミュージックが血肉にしみわたるようになりました。1990年代の戦前ブルーズCDリイシュー・ブームだって、はまる地固めができていたのはローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンらのおかげだったんですから、ぼくのばあいは。

 

でも、ブルーズ・ロック・ギター、聴けば気持ちいいっていう、たんなるピュアでシンプルな生理的快感なだけですから、ここに理屈なんかあるわけないです。だれがどう言おうとも、好き!

 

(written 2022.2.14)

2022/04/09

カテゴリー分けをやりました

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(3 min read)

 

ちょっと前にやったことなので既にお気づきのかたも多いでしょうが、長年ノン・カテゴリーで、というかぜんぶ「音楽」にして、すべての記事をべたっと平たく並べてきたこのブログBlack Beautyも、とうとうカテゴリー分別を実施したわけです。

 

・コーヒー
・ジェンダー
・プリンス
・マイルズ・デイヴィス
・原田知世
・岩佐美咲
・自分語り
・音楽

 

これは表示順です。ほんとうだったら記事数の多い順とか重要に思っている順とかに並べかえたかったですが、どうやらこのココログ(@niftyのブログ・サービス)ではそれができないみたい。

 

パソコンでアクセスなさっているみなさんは右サイド・バーにカテゴリー一覧が出ています。スマートフォンでごらんならば右上のオレンジ三本線をタップするか、

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記事一覧下にある「このブログの人気記事ランキング」の下の「カテゴリー」をタップしてください。

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カテゴリー分けをしたといってもこういう状態なので、なおも九割が「音楽」のなかにごた混ぜになったままです。しかしここをさらに細かく分類するという気にはなれませんでした。相互関連していたり複数の音楽家やジャンル、地域を横断していたりで、整理不可能と思えました。

 

それでも、これも音楽に違いないマイルズとプリンスと知世と美咲を別枠にしたのは、特に数が多いということと、熱心にそればかり聴くオタク的ファンがついていて、それ関連の記事だけまとめて読みたいという声をいただくことがありました。

 

大切に思っていて記事数が多い音楽家は、ほかにもルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどいくつもありますが、分別しすぎは性に合わないので。個人的に上の四人はほんとうにスペシャルな存在です。

 

コーヒーとジェンダー。前者は二個しか記事がありませんが、音楽の話題じゃないし、分けとかないと埋もれてしまうと思い(ぼくの人生で最も重要なものの一つ)。後者はそこそこ記事数があって、2019年来の個人的問題意識を反映しています。性や外見などに関連する偏見や差別を語った記事を書くようになり、なんとか読んでもらいたいと思うようになったのも、カテゴリー分けを考えたきっかけです。

 

自分語りは、ぼくが発達障害の当事者、なかんずくASD(自閉スペクトラム障害、俗に言うアスペルガー)であることを、やはりちゃんときわだつように言っておきたい、そうでないとなにかとコミュニケーションに齟齬が生じたり誤解されたりして、たがいにつらい思いをすることが人生で多かったので。

 

そして、ぼくのそういう部分は、音楽にどう接しどう聴いているか、どんな音楽が好きかといったことをおおいに左右してきたと、いまでは思います。

 

(written 2022.4.8)

2022/04/08

昇竜の刻印 〜 MTVアンプラグドのマライア・キャリー ’92

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(6 min read)

 

Mariah Carey / MTV Unplugged EP
https://open.spotify.com/album/0jpGebANqbNNKbWHq2XhEM?si=E-HwCqjuS1-stfq15usJjg

 

きのうマライア・キャリー・ヴァージョンの「アイル・ビー・ゼア」を絶賛しましたが、そう、それが収録されているマライアのライヴ・アルバム『MTV アンプラグド EP』がぼくは超大好き。

 

もう好きで好きでたまらず、マライアでいちばん聴くのはこれですし、個人的マライア最高傑作でもあります。いままでも一度か二度強調してきたことなんですけれども、きのう「アイル・ビー・ゼア」を聴きなおしたら、ふたたびたまらない気分になってきました。

 

たくさんあるMTVアンプラグド・アルバムぜんぶのなかでも最愛好作品なんですけど、そんな音楽ファンあまりいないでしょうね。一般のマライア・ファンだってそういうこと言っているひといないみたいだし。でもぼくのアンテナというか嗜好というか、なにか琴線に触れるものがあるんです。

 

マライアの『MTVアンプラグドEP』は1992年3月16日にニュー・ヨークにおきスタジオ・ライヴ形式で収録され、同年6月に発売されました。キャリア初のライヴ・アルバムだったのはもちろん、全作品でみても大ブレイクした二作目『エモーションズ』が91年9月のリリースだったのに続くもの。勢いに乗っていた時期です。

 

そんな上げ潮ムードは、MTVアンプラグド・ライヴ1曲目の「エモーションズ」から全開です。アルバム『エモーションズ』でも1曲目のタイトル・ナンバーだったものですが、このアンプラグド・ライヴには曲を書きプロデュースした中心人物、デイヴィッド・コール(C+C ミュージック・ファクトリー)が、これだけ、ピアノで参加しています。

 

スタジオ・ヴァージョンは1990年代らしい打ち込みビートを軸に据え、エレクトロなサウンド・メイクの上でマライアが飛翔するものでした。アンプラグド・ライヴでは、それらすべてをアクースティックな生人力演奏に置きかえているんですが、そ〜れがもう絶品ですよね。

 

コールのピアノ(といってもデジタル・ピアノの音ですが)に続きゴスペル・クワイアふうのコーラスが入ってきて、本編前のテンポ・ルバート部ですでに「これはスペシャルなものだ、なにか違う」との感を強くしますね。異様な雰囲気が漂っているでしょう。マライアの声も最高に伸びています。

 

ドラマーのスティック・カウントでアップ・テンポのビートが入ってきたら、もうノリノリの夢見心地。コールのピアノ演奏がバンド全体をぐいぐい牽引しているのがよくわかりますが、コーラス隊もふくめアレンジ/プロデュースもやったはずです。合奏によるキメなど細かなリフが効いていますからね。

 

ふわっとしたさわやかで軽快なノリを持っていたスタジオ・ヴァージョンとやや趣きを異にし、このアンプラグド・ライヴの「エモーションズ」はずしりと重心が低く、ずんずん迫るヘヴィなグルーヴ感。中高域はもちろん、低域でもドスを効かせてうなるマライアのヴォーカルにも鬼気迫るものがあります。

 

個人的にはスタジオ・ヴァージョンよりはるかに好きなこのアンプラグド・ライヴの「エモーションズ」、2022年までのマライアのトータル・キャリアでみてもこれこそ最高傑作チューンだったと個人的に信じています。デビューして二年で大ヒットのまっただなかという昇竜の刻印がここにはあります。声にそれを感じることができるはず。

 

アルバム全体は、そんな「エモーションズ」に似たビートの効いたアップ・ナンバーと、堂々とした歌唱力で説得するお得意のバラード系との二種類が並んでいますが、オープニングの「エモーションズ」の圧巻に続く絶品パフォーマンスは、やはりきのう書いた6曲目「アイル・ビー・ゼア」でしょう。

 

このジャクスン5ナンバー以外はそれまでに二作あったオリジナル・アルバム収録曲で占められていますから、「アイル・ビー・ゼア」はこの日のために用意されたスペシャル・メニューだったんだとわかります。

 

冒頭のピアノ・イントロから、チェレスタを使っていたジャクスン5ヴァージョンをほぼそのまま踏襲していますが、マライアの声だってマイケルを強く意識したetherealなもの。まさにこの英単語がこの曲でのマライアの声を形容するのにピッタリだと思うんですよね。まさに天上の声。

 

オリジナルではジャーメインが担当していたパートをここではトレイ・ローレンスが歌っています。トレイによるサビが終わってAメロに戻ったときのマライアの声のハリと歌いまわしがこりゃまた降参ものの絶品さ加減で、説得力があって、とろけちゃいますね。

 

(written 2022.1.9)

2022/04/07

呼んでね行くから系

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https://open.spotify.com/playlist/2jW2lRojIDQh4ZrmPkgs5m?si=5ae7a3c4efa44ce8

 

とぼくは呼んでくくる二曲、「アイル・ビー・ゼア」(ジャクスン5)と「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」(キャロル・キング)。初演のレコード発売時期も近接していて、前者が1970年8月、後者が71年2月。

 

説明の必要もぜんぜんなく歌詞内容も曲想も酷似していると思うんですよね。まさに「困っているなら呼んでね、会いに行くから、友がいるよ」という同じ心境をつづったもの。「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」の歌詞には “I’ll Be There” というフレーズまで出てくるんですからね。

 

もっとも、ジャクスン5の「アイル・ビー・ゼア」のほうはひたすら感謝と献身の愛をささげる内容で、困っているなら、落ち込んでいるんなら…みたいな色は一瞬を除き表に出ていませんけど。

 

キャロル・キングが「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」を書いたのはアルバム『タペストリー』のレコーディング・セッションを行なっていた71年1月だそうですから、前年夏発売だったジャクスン5の「アイル・ビー・ゼア」を聴いていなかったなんてことはありえません。No.1ヒットだったんですし。

 

でも、これはパクリとかモノマネとかいうもんじゃなかったでしょう。偶然の類似でもなく、意識しての一種のオマージュみたいなものかなあと感じると同時に、あの1970年付近という時代の空気を両者とも呼吸していたんだという共振性を立派に証明しているだろうと考えています。

 

あきらかに「アイル・ビー・ゼア」をふまえて、暗い夜だったなら、呼んでね、行くから、みたいなソックリ・ソング「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」をキャロルが書き歌った背景には、拡大するヴェトナム戦争など不安と激動の時代であったからという理由も一つにはあったように思えます。

 

そのうえで、ジャクスン5の「アイル・ビー・ゼア」から、ややニュアンスのついた部分(もし新しい恋人がそうじゃなかったら…)をとりだし拡大して、行くから呼んでねの理由として大きく前段においたんじゃないかというのがぼくの推測です。

 

結果、どこまでも個人的な、二人だけのストーリーだった「アイル・ビー・ゼア」から発展させて、キャロルは(基本的にはプライヴェイトなラヴ・ソングでありながら)ひろくみんなの連帯を呼びかけているとも受けとれるような共感性、社会性まで帯びたような歌に仕立てあげたんじゃないでしょうか。

 

並べて続けて聴き比べてみると、なんだかほんとうにそっくりに思えてくるこの二曲ですが、決定的なカヴァーを生んだという点でも共通しています。「アイル・ビー・ゼア」がマライア・キャリーのMTVアンプラグド・ライヴのヴァージョン(1992)、「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」がダニー・ハサウェイのエレピ弾き語りによるライヴ・ヴァージョン(1972)。

 

ぼくの耳には両曲ともそれらカヴァーのほうがオリジナルよりいいぞ、すくなくとも個人的にはずっと好きだと思えるので、ちょっと興味深いですね。マライアの声質や歌いまわしとか、ダニーのちょっとジャジーなフェンダー・ローズでのコード・ワークとか、そういうのも大きく左右しての判断です。

 

ぼくだけでなくあるいはひょっとして世間一般で、「アイル・ビー・ゼア」はむしろマライア・ヴァージョンで、「ユーヴ・ガット・ゼア」はダニー・ヴァージョンで、それぞれいまではよく聴かれ継がれているんじゃないかという気すらします。前者なんか曲のWikipediaでジャクスン5の項より字数がずっと多いんですから。

 

マライアのこのあまりにもチャーミングで透き通った天上の声は(この曲を歌うときだけ)ある意味マイケルを意識し、そしてそれを超えているとまでいえるほどの無私の愛を表現できているぞという気がぼくにはします。ピアノ・イントロに導かれての歌い出し “You and I must make a pact” なんか、ゾクゾクするほど美しい。天使が降臨してきています。

 

また、ダニー・ヴァージョンの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」は、キャロル(やジェイムズ・テイラーら)ヴァージョンで色濃かった内省感から大きく踏み出し、みんなでの広域連帯を強く呼びかける内容に変貌しているのは特筆すべきポイント。観客の大合唱あればこそですが、社会性を獲得しているのはあの激動の時代の表現であったからで、だからこそ21世紀まで訴求力が持続しているのだといえます。

 

あまり話題になりませんが「アイル・ビー・ゼア」のメイン・シンガーだったマイケル・ジャクスンは、実はソロ転向後に「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」をカヴァーしています(『ガット・トゥ・ビー・ゼア』1972)。ぼくはこのマイケル・ヴァージョンの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」が大好き。

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跳ねるファンキーなエレベ・ラインも楽しくて(だれが弾いているの?ぼくの耳にはジェイムズ・ジェイマースンのスタイルに聴こえるけど?)、キャロル・ヴァージョンにもダニー・ヴァージョンにもなかったアップ・ビートを効かせポップ&キュートにこれを歌うマイケルは、個人的なラヴ・ソングという面と社会的共感性という両面をうまく共存させているように聴こえます。

 

(written 2022.1.8)

2022/04/06

マイルズの「帝王」イメージは虚像

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(5 min read)

 

https://open.spotify.com/playlist/7kaxvy66uCEMOiGUZZgWGE?si=91264f02daaa4dbb

 

マイルズ・デイヴィスの『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』(1961)について、「やっぱり帝王らしからぬタイトルにちょいと違和感を感じるのは僕だけではないはず」という文章をこないだ見かけました。あるマイルズ専門ブログでのことでしたが、リンクを貼ってご紹介するのはよしておきます。

 

これには表裏一体の二つの意味で違和感をいだきますね。(1)いつまで「帝王」などというステレオタイプ・イメージにマイルズをしばりつけるつもりなのか。(2)マイルズのトランペット・サウンドはまったくマッチョではなく、真逆のフィーメイルなタイプだったのに。

 

このばあいの「マッチョ」とはボディビルディング的な外見に言及しているのではなく、メンタル面での(旧来的な)男らしさの追求・実現や、社会的な役割として歴史的に男性に求められてきた理想像といったものを指して使っています。この記事でも、音楽的な意味、サウンド面でのイメージについての言及です。

 

つくりだした音楽でだけ判断すれば、みんなが言う従来的な意味での「男らしさ」とは無縁だったのがマイルズで、チャーリー・パーカーのコンボでデビューした当時からすでに雄々しくない、か細く弱々しいサウンドでのバラード演奏でボスと好対照を演じ、猛々しいドライヴィング・チューンなどでは居場所がなさそうにしていましたよね。

 

そんな生来の(女性的な?)持ち味は独立して以後さらに磨きがかかるようになり、特に1955年にファースト・レギュラー・クインテットを持つちょっと前あたりからハーマン・ミュートを多用するようになって、それでバラードや小唄系を演奏するときにことさら発揮されたように思います。

 

ただでさえもとから音量の小さいトランペッターで、しかもヴィブラートをいっさい使わないストレート&ナイーヴな発音スタイルの持ち主だったのが、音色も変わる弱音器なんか使えばいっそう頼りなさげなサウンドが強調されようというもの。

 

それこそがマイルズの選択と成熟で、そうなって以後ハーマン・ミュートで演奏したフィーメイル・タッチの曲ばかり、録音日付順に集めてプレイリストにしておいたのがいちばん上のSpotifyリンク。ざっとお聴きになれば、マイルズがどんな音楽家だったのか、ご理解いただけそうな気がします。

 

ブラック・ミュージックっていうと「野太い」みたいな先入観もあると思うんですが、マイルズにかぎっては正反対でした。ただしこの音楽家もマチスモなファンク方向に振れた時期があります。上のプレイリストに存在しないので一目瞭然ですが、1968〜75年ごろ。そのころはトランペットにハーマン・ミュートすらつけなかったというか、そもそも電化されていたので。

 

そんなファンク時代に「帝王」イメージがついてしまったと思うんですよね。音楽像とも一致していましたし、イキったような各種発言とあいまってこの音楽家の印象が確定して、そして1981年の復帰後はそれがさらに増幅されたんじゃないでしょうか。

 

ここ日本においては、そんな81年復帰後、中山康樹編集長時代の『スイングジャーナル』が<マイルズ=帝王>イメージの拡散につとめたようにみえました。中山さんは独立後も各種書籍などで<帝王>を乱発し、インタヴューなどでの一人称を「俺」「俺様」に固定し、マイルズの日本におけるナラティヴをすっかり確定してしまったような感じでした。

 

2015年に亡くなるまで日本におけるマイルズ・ジャーナリズムを牽引・支配したのが中山さんにほかならず、いまでも日本語でマイルズについて研究しようとすればだれもがまず参照せざるをえないのが中山さんの著作ですから、定着してしまった<帝王>イメージを拭えないまま現在まできてしまっているかもしれません。

 

マイルズのトータル・キャリアを俯瞰すればほんの一時期の例外的突出でしかなかった(が最高だった)マチスモ・ファンク期を除き、それ以前もそれ以後もハーマン・ミュートをつけてリリカルなバラードを細く頼りない女性的な(?)サウンドで奏でたのがマイルズ。

 

「いつか王子様が」みたいなタイトルの曲を語るのに(音楽的には)躊躇なんてなかった人物です。こういったディズニー・ソングはマイルズ本来のサウンド・イメージに100%合致しているものなんですから。

 

(written 2022.2.2)

2022/04/05

枯淡のエリゼッチ 〜『アリ・アモローゾ』

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(2 min read)

 

Elizeth Cardoso / Ary Amoroso
https://open.spotify.com/album/2YV6n5bt3OKpBpDraGydxS?si=ypQ42e-tQYyjc2OmQnw1Kw

 

エリゼッチ・カルドーゾ(ブラジル)晩年のアルバム『Ary Amoroso』(1991)。90年に亡くなっていますから、死後翌年にリリースされたということでしょうか。90年リリースという情報もありますが。

 

これ、ぼくはどうして出会ったんでしたっけねえ、昨2021年にCDリイシューされたんだったか、そうだったならディスクユニオンのアカウントがツイートしてくれたので気がついたんでしょうね、きっと。

 

アルバム題どおりアリ・バローゾ曲集で、エリゼッチにとってはキャリアをとおしすっかり歌い慣れているものだったはず。実際かなりの有名曲もふくまれていますが、晩年にアルバム一作全編でバローゾの曲をとりあげようというのはどういう心境だったんでしょう。

 

死が近づいて自身の歌手人生をふりかえるようにバローゾを歌いなおそうということだったのか、なにもわかりませんが、このアルバム、とても枯れていて渋くて、なかなか味わい深いものなんですよね。最近こういった落ち着いた静かでおだやかな音楽が好きになってきました。

 

エリゼッッチといえば、サンバ、サンバ・カンソーンの歌手だったわけですが、このアルバムにサンバ色はさほど強くありません。むしろジャジーな感触すらあって、ラファエル・ラベーロ(七弦ギター)、ジルソン・ペランゼッタ(ピアノ)、マルコス・スザーノ(パーカッション)ら名手たちに支えられ、細やかにやりとりしながら、淡々とバローゾをつづっていく様子が胸に沁み入ります。

 

いうまでもなく声にはもう強さや張りがないんですが、こうして装飾をそぎ落とさざるをえなくなってストレートに歌う枯淡の境地は、音楽や曲の持つ本来の魅力をかえってむきだしにしてくれるようにも思えます。ある意味純度の高い歌唱であるのかもしれません。

 

(written 2022.1.3)

2022/04/04

カリフォルニアへのヴァーチャルなノスタルジア 〜 ヴァン・ダイク・パークス

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(3 min read)

 

Brian Wilson, Van Dyke Parks / Orange Crate Art
https://open.spotify.com/album/3dl6vvWGcY36km1RCaQgSl?si=NRbYKt4-QZqoq7_WTqQVoA

 

こないだなんとなくSpotifyをぶらついていて、なんの気なしにクリックしてみたブライアン・ウィルスン&ヴァン・ダイク・パークスの『オレンジ・クレイト・アート』(1995)。それまでどうとも思っていなくても、ちょっと気が向けばふらりと聴いてみることができる、それもサブスクの利点です。

 

実際、ぼくはブライアン・ウィルスンとかヴァン・ダイク・パークスとかそれまであまり興味を持ったことはなく、ビーチ・ボーイズなど関連バンドもちょこっとCDアルバムを買って聴いたことがあるものの、どうにもぼく向きじゃないなとしか思えなかったんですよね(実はランディ・ニューマンもそう)。

 

だから、なにげなく軽い気分でワン・クリックすれば流れるサブスク・サービスが普及しなかったら、『オレンジ・クレイト・アート』みたいなCDを買って聴くことなど、絶対にありえなかったと思います。でも、聴いてみたらすばらしい美しさで降参しちゃったので、人生どこに出会いがあるかわかりませんよ。

 

『オレンジ・クレイト・アート』、ブライアンは歌っているだけで、プロデュースもアレンジ&オーケストレイションも、全12曲中10曲のコンポジションも、すべてヴァン・ダイク・パークスなので、ヴァン・ダイクの頭のなかにある音楽をサウンド化したものなんでしょう。

 

このアルバムのどこがお気に入りになったか?というと、最大のものはラテン・ミュージック要素がそこかしこにわりと鮮明に聴きとれるところ。そんな部分もいかにもカリフォルニア的というか、ワーナーの本拠地があった場所から名をとって言われるバーバンク・サウンドならではなんでしょう。

 

特に2曲目「セイル・アウェイ」。いきなりティンバレスがかんと鳴って、曲全編でラテン・パーカッションが活用されているし、リズムもメロディ・スタイルもキューバ音楽ふう。これは大好き。ブライアンってこういう曲歌ったことあるのかな?(← なんも知らんだけ)

 

8曲目「ホールド・バック・タイム」もあきらかにキューバン・ミュージックからの流入色が濃いです。アメリカ合衆国音楽におけるラテン要素がある意味(中南米人のやる)ラテン・ミュージックそのものより実は好きなくらいですから。UK白人ロッカーのやるブルーズ・ロックが大好きという嗜好との共通性?

 

エセ中国ふうな曲もあったり、つまり多民族混在の地であるカリフォルニアの文化模様をそのまま音楽にしているといった印象。19世紀後半から20世紀初頭のアメリカ合衆国音楽への懐古的憧憬というか、このへんランディ・ニューマンの音楽とも通底しますが、ヴァン・ダイクにとっても実は経験していない未知のものだったはずのものへの、つまりヴァーチャルなノルタルジア。

 

(written 2022.1.2)

2022/04/03

プリンス『ラヴセクシー』のトラックが切れました、ようやく

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(3 min read)

 

Prince / Lovesexy
https://open.spotify.com/album/6asxKdvUleeZYNrjmK81nJ?si=QAxdAgfgQtykD8p-bgM0qg

 

(同 Apple Music のほう)
https://music.apple.com/jp/album/lovesexy/1608900425?l=en

 

きょうたったいま発見したんですが、プリンス1988年の『ラヴセクシー』、サブスクだと全九曲が公式に切れた状態になっていますね。いつから?いずれにせよ歓迎したいことです。CDのほうが同様のフォーマットでリイシューされたかどうか確認していませんけども。

 

YouTubeや各種サブスクで音源が(ほぼ)ぜんぶ公式に解禁されたり、種々の未発表音源が発掘発売されたり…といった一連の動きは、もちろんプリンス本人が亡くなった(2016)からこそ可能になったこと。『ラヴセク』のトラックがとうとう切れたのだってそうでしょう。

 

もちろんアルバムをワン・トラックで発売するというのは『ラヴセク』しかプリンスもやらなかったんで、いくら自分の音楽はアルバム全体をトータルで連続体としてしっかり聴いてほしいという意向だとはいえ、かなりの不評を買ったというのを自覚していたんでしょうね。聴きにくいもんねえ。ラジオ番組なんかはどうしていたんでしょうか。

 

がしかしそれも今後は心配する必要がなくなりました。音楽的にはたいへんな傑作に違いない『ラヴセク』の人気も評価も一般的にイマイチだった最大の要因が1トラック形式だったことにあったんだと感じてきましたけど、これからはしっかり聴かれて評価されていくことを望みたいですね。

 

2「アルファベット・ストリート」、4「アナ・ステシア」、7「ウェン・2・R・イン・ラヴ」、9「ポジティヴィティ」など、このアルバムにいくつかある超絶名曲も聴きやすくなったし、なにより曲単位で抜き出してコンピレイション的なプレイリストに追加できるようになったのはかなり大きなことです。

 

1980年代中期〜後半ごろのプリンスは生涯でも創造活動の絶頂期にあったんだというのは間違いありません。『パレード』(1986)『サイン・オ・ザ・タイムズ』(87)という二大傑作に続くものだった『ラヴセク』は、発売当時ぼくも胸をワクワクさせて宇田川町時代の渋谷タワーレコードで買って帰ったものの、聴き進むうち「なんやこれ…」と思ってしまいましたからねえ。

 

そこから34年。ようやく初めてマトモなかたちでこのアルバムが聴けるようになって、もうホントうれしいなんてもんじゃありません。音楽内容はもちろん変わりませんし、音質的向上もありませんが、ちゃんとトラックが切れているとなんだか以前よりちょっといいアルバムに聴こえたりするから不思議ですよ。

 

(written 2022.4.2)

2022/04/02

マグレブ・ミクスチャー・バンド新世代 〜 ジマウィ・アフリカ

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(3 min read)

 

Djmawi Africa / Amchi
https://open.spotify.com/album/7J6ff35PaiuIv3TFSkv0HQ?si=KRfW7rTrQey-h16EuLN_Ug

 

bunboniさんのブログで知りました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-12-10

 

ジマウィ・アフリカは2004年結成、アルジェリアのマグレブ系ミクスチャー・バンド。グナーワとロックをミックスさせるだけでなく、シャアビやレゲエもあったりして、そういうところ、往時のグナーワ・ディフュジオンを連想させますね(いまどうしてんの?アマジーグ?)

 

最新作『Amchi』(2021)でぼくが最も感じ入ったのはラスト11曲目。まずゲンブリ独奏が出て、いきなり強烈にグナーワを香らせますが、すぐにドラム・セットが入りホーン・セクションも鳴りはじめるっていう。そうなってからはバルカン音楽を色濃く連想させる内容になって、グナーワとバルカンを往復するように進みます。

 

しかしそれがいったん落ち着いた曲後半にはふたたびゲンブリ・パートがあって、ヴォーカルのコール&レスポンスでグナーワっぽくなるんですね。その直前にはなぜかフィドルもからんでいるし、最後にファズの効いたエレキ・ギターがぎゅ〜んとロックっぽく鳴って、再度のバルカン&グナーワ・ミックスでフェイド・アウトするという具合。

 

なんだかワケわかりませんよね。こうした多彩な音楽性のミクスチャーこそがこのバンドの持ち味で、なんだかんだいってマグレブ伝統音楽にしっかり根ざしていたオルケストル・ナシオナル・ドゥ・バルベス(ONB)やグナーワ・ディフュジオンら1990年代バンドと比較すれば、新世代らしさがよくわかります。

 

アルバムのなかには6/8拍子でフィドルが演奏し、アイルランド伝統音楽のジグとしか思えない曲もあったりしますが(5)、北アフリカ音楽とケルト音楽の類縁性は仮説として前からこのブログで唱えているところ。

 

古代ローマ拡大とキリスト教普及以前のヨーロッパにケルト民族はひろく住んでいたし、そのうえ欧州大陸南岸とアフリカ大陸北岸はたった地中海をはさむだけの近距離なんですから、文化交流は人類史と同じくらい古くから活発だったと考えるのが自然でしょう。

 

また、ハレドっぽいライの濃厚なこぶしまわしを聴かせるヴォーカリストが活躍する曲もあって、多種の楽器を駆使してさまざまなヴォーカルを聴かせる演奏能力の高さもこのバンドの魅力ですね。

 

(written 2022.3.31)

2022/04/01

ひとが死ぬのはどうということもない

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(4 min read)

 

父は2014年の夏に亡くなったんですが、享年もちゃんとした没月日も憶えていません。ぼくってそんなやつですよ。たとえ肉親であれ死んでもべつになんとも感じないっていう。平気だったし喪失感もありません。

 

そもそも亡くなる五、六年前(だったか)に胃がんで胃を全摘出する手術を父は受けたんですが、そのころぼくは東京住まいだったため、近所で面倒を見ていた上の弟から連絡があったものの、手術に立ち会うために帰省することはしませんでした。正直なフィーリングとして「どうでもよかった」んです。

 

その後ぼくは愛媛に帰り大洲に住むようになりましたが、大洲 ⇄ 松山間はJRの特急で30分程度なんだから、いよいよ終末期ということで入院し日々弱り細っていく父の顔を見に帰ってきてほしいとの弟二名からの再三の連絡も無視していました。自宅で自分の楽しみ(音楽)に時間を費やすことのほうがはるかに大事だと思えていました。

 

とうとう亡くなって(実はその直前に一回帰りましたが、病室で父の顔を見て、まだきょうあす死ぬわけじゃないと知ったぼくは、そのまま自宅へトンボ帰りした)やっぱり通夜とか葬儀とかは顔を出さなきゃまずいんだろうという世間一般的な考えがまだ残っていたので、いちおうそのために帰りました。

 

母はまだ存命ですが、なにぶん高齢ゆえいつそのときが来るかわからないという状態かもしれません。そうなったら、こんなぼくはどう感じるか?弟二名とは断絶状態とはいえ、それでもやっぱり亡くなったら連絡くらい来るのかなあ?とぼんやり考えていますが、現在入院中であることはいっさい知らされていません(実家近所のコンビニ店員さんに聞いた)。

 

母はいはゆる「毒親」で、ぼくはずいぶんひどい目に遭いつづけてきた人生だったので、正直いまはもう顔も見たくない、ましてやしゃべったりなどしたくない(なにを言われるかわかったもんじゃないから)、要するに離れていたい、接点を持ちたくないというのが本音。ですけどさすがに亡くなったらなにか違う感情がわくかもしれません。

 

なにも感じないかもしれません。わかりません。

 

どう感じるにせよ、母の葬儀や法事関係に顔を出したくないといまは思っています。弟から連絡も来るかどうか知りませんし。

 

そもそも敬愛しているミュージシャンの訃報に接しても特になんとも思ってこなかった人生で(マイルズ・デイヴィスのときもそうだった)、死がどういうことなのかわかっていないというか、特別な感慨がわいたことがなく、ましてやショックを受けて落ち込んだりっていう経験が一度もありません。

 

もう新曲や新作アルバムが出ないのは残念だと思うものの、なんというか人間的にというか、この世から存在が消えるっていうことをべつになんとも思わないんです。音楽家でも肉親でもどんな親しい友人でも。

 

こんなぼくもいつかは死にます。しかも還暦を迎えたのでもうそんな遠くない未来の現実になりつつあるわけですが、自分の老化、衰弱、滅亡は、やはり「イヤだな」「受け入れたくない」「つらい」という気分がいまもうすでにしっかりあります。

 

生活上不便に感じるほどの変化はまだありませんが、こんな、ある種の人非人的なというか血の通った人間的感情がないようなぼくでも、いよいよ自己の死が間近という状態になれば、なにか気持ちの変化が生じるかもしれません。生じないかもしれませんが、ちょっとづつゆっくりと精神的準備をしていこうと思っています。

 

(written 2022.3.25)

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