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This is 演歌 30
https://open.spotify.com/playlist/46R5onMxXIaGdpjmMyvi7o?si=01dad62e47c94287
数日前、神野美伽のインタヴュー記事に触れて一個文章を書きましたが、あれ以来ずっと気になっているのは、神野が語っていた演歌の古くさいステレオタイプ・イメージって一体いつごろ成立したものなんだろう?ということです。
っていうのは、美空ひばりや江利チエミの名が出されていたように、ずっと時代をさかのぼると演歌っていろんなのがあって、わりとまだ型にはまっていなかったんだよなあというのがぼくの実感としても前からあります。
ある時期以後現在まで伝わる演歌のステレオタイプとは、ぼくのみるところ次の三つ:和服、派手でゴージャスなオーケストラル・サウンド、感情的で濃厚なドラマティック・ヴォーカル。そして、実はこれら演歌初期時代にはまだ揃っていなかったものなんですよね。
たとえば美空ひばりの「港町十三番地」(1957)。このころのひばりを演歌の枠に入れるのにはかなり強い抵抗がありますが、それでもこの曲が演歌的なもののさきがけだったことは疑えません。その後パターン化するいはゆるマドロス物ですし。
これを聴いてもですね、伴奏はきわめて簡素&スカスカで隙間だらけ。歌のメロディ・ラインは日本情緒を感じさせるヨナ抜きですが、それを歌うひばりのヴォーカルはボーイッシュにさっぱりした淡白なもの。もちろんコブシもヴィブラートもありません。このころのひばりはですね。
問題は(演歌的なものを歌いながら)そうしたポップでライトな歌手だったひばりだって、世間での演歌イメージが確立されて以後の時代における再演では、同じ曲をやってまったく様子が違ったということです。着ることのなかった和服をまとっていましたし(亡くなるまでドレスもよく着たけど)。
象徴的演歌ヴォーカリストみたいな存在だった都はるみでも、初期の「アンコ椿は恋の花」(1964)なんかはまださほど演歌的じゃないぞという印象があります。歌いくちはたしかにはるみらしさ満開ですが、伴奏は大げさでも劇的でもありません。コミカルなタッチすらありますし。
はるみは後年の述懐で「わたしたちがデビューしたころは、まだ “演歌” という言いかたはありませんでした、”流行歌” とみんな言っていました」とふりかえっていたことがあります。大歌手になってからの定番スタンダード「大阪しぐれ」(1980)でも伴奏はコンボ編成中心ですからね。ナイロン弦ギターが目立っているのは演歌定型の一つではありますが。
以前記事にした島倉千代子なんて、あんな細い声で弱々しく歌うヴォーカル・スタイルの持ち主だったんで、およそ演歌唱法のお決まりパターンから外れた歌手だったのが、それでもこのジャンルを代表する一員として売れに売れて世間にちゃんと認められていたわけです。
こうみてくれば、1950〜60年代にデビューした演歌初期時代の歌手たちに、ある時期以後世間が持つようになった「ザ・演歌」のステレオタイプはあてはまらないとわかります。それなのにそうした固定イメージをそれらの歌手に対して強く持っているような演歌ファンや関係者は、実はちょっとおかしいでしょう。
世代を下って聴き進むと、演歌のイメージが固定化されはじめたのはどうも八代亜紀(1971年デビュー)あたりからじゃないかと思えます。73年の「なみだ恋」、77年「おんな港町」あたりを聴けば、そこに後年いだかれるようになった演歌<らしさ>の定型がすでにしっかりあるとわかります。亜紀はこれまた大成功したので、このイメージの普及に役割を果たしたんじゃないでしょうか。
その少し前、藤圭子もこの固定イメージを強力に発散していました。「新宿の女」(1969)、「圭子の夢は夜ひらく」(70)など、圭子は着物こそ着なかったものの(これは亜紀もそう)ドスの効いたハスキー・ヴォイスとすごみのある歌いまわしで、演歌とはこういうものだと世間に知らしめたと思います。
コブシ遣いとヴィブラートが強すぎると思うほどのヴォーカリスト、森進一の活躍も同じころで(「港町ブルース」69、「おふくろさん」71)、やはり豪華で派手なオーケストラ伴奏に乗せて声を揺らしまくる濃厚唱法で時代を画しました。
進一本人は演歌の枠にくくられることを嫌い、たとえば74年の「襟裳岬」(吉田拓郎)や82年「冬のリヴィエラ」(松本隆大瀧詠一)などといったポップな曲もよくやって、それらではヴォーカルも抑制の効いたさっぱりした感触にしあげてはいます。
そして石川さゆり(1973年デビュー)。さゆりこそ、いまに伝わる演歌ステレオタイプを最もティピカルに体現していた代表格でしょう。着物姿、ゴージャスなオーケストラ伴奏、シリアス&エモーショナルな歌いまわしの完璧三点揃いで、77年「津軽海峡・冬景色」、86年「天城越え」の二大ヒット・ソングを放ち、演歌イメージの固定化に尽力しました。
さゆりのこの二曲が持った影響力は実に甚大で、その後の演歌界の方向性を決定づけ <演歌かくあるべし>という固定観念の確立に大きく寄与したのです。さゆりにあこがれて歌手になった坂本冬美(1987年デビュー)にしろ、「津軽海峡・冬景色」をAKB48の歌くらべで披露したのがきっかけで切符をつかんだ岩佐美咲(2012年デビュー)にしろ、そうです。
さゆりだっていまだ第一線ですが、おもしろいのはたとえば冬美にしたって演歌の固定イメージをしっかり守りながら活動してきたようにみえながら、近年は坂本昌之アレンジで従来演歌をさっぱり淡白&薄味に歌うという『ENKA』シリーズ(2016、17、18)を発表し、新世代的なあっさり演歌スタイルをベテランでありながら表現していると思えるところ。
冬美みたいな存在がこうした世界へと足を踏みいれるのは、やはり時代の要請に即応したというか、いはゆる第七世代的な新感覚若手演歌群が台頭してきている現状を鑑みてのことだったんじゃないでしょうか。演歌も時代にあわせてアップデートしていかないと生き残れませんから。
今日このように考えてくると、これが演歌だっ!という固定的な典型イメージが樹立されたのはそんな古い話でもないし(せいぜい70/80年代あたりから)、それにしてからが2010年代以後は塗り替えられつつあるのかもしれないですから。
(written 2022.11.7)
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