聴く人が曲を完成させる
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リリースされたばかりの新作アルバム『Seven Psalms』(2023)が話題のポール・サイモンが『Big Issue』誌のインタヴューで「聴く人が曲を完成させるとわたしは信じている」と言ったらしく、どういう文脈での発言なのか確認したいと思っても現物をなかなか入手できずあれですけど、すばらしいと思います。
同誌でポールは「わたしが曲のなかで言うことは、自分自身がなにか意味を込めているかもしれないけど、リスナーがその意味を決めるんだ」とも語ったようで、まさしく快哉を叫びたい気分。ぼくが約40年前から考え信じてきたことを、音楽家本人サイドがようやく明言してくれました。
個人的にこうした発想に至るきっかけになったのは、大学〜大学院生時代に文芸批評の分野を読みまくったこと。特にミシェル・フーコー、ジャック・デリダあたりの構造主義、脱構築哲学に強く影響されたアメリカのイエール学派や、フランスのロラン・バルト、イタリアのウンベルト・エーコらの著作にぼくは夢中で、おおいに共鳴し影響を受けました。
影響を受けたなんてもんじゃなく、修士論文がもろイエール学派のコピーみたいになっちまったんですからねえ。そしてあのころのコンテンポラリーな文芸批評で最もさかんだったのがまさに読者論・受容論で、作品の意味は作者が支配するものではなく、作品がどういうものであるかは読者こそが決めるものだという主張というか学説。
「作者から読者へ」ということがさかんに言われていて、論理的に筋が通っているよねえというばかりでなく、小学生時分以後ふだんの読書体験から皮膚感覚で考え信じていたことをハッキリ言ってくれているという気がして、当時から61歳の現在にいたるまでぼくのものの見かた考えかたの根芯を形成する土台となりました。
音楽だってそうじゃないかと。もちろん文学も音楽も作者が創り出さなかったら、とりかかりさえもしなかったら、この世に産まれ出てくるということはなくぼくらのもとにも届かず、いくら意味は受け手が決めるなどと言ってみたところで、作品そのものが存在しなかったらどうにもなんないわけで、そこには圧倒的な、絶対的ともいえる存在力の差があるわけなんですけどね。
そこはそこで認めた上で、発表された作品のことを受容論は扱っています。いったんこの世にリリースされたら、どんな音楽にも聴き手はつくもので、つまり聴かれない作品など存在せず、もしかりに聴かれない音楽があるとしたならば、それは意味を誕生させることができない作品ということになります。
それほど聴かれるという行為は重要で、作品の意味、どういう作品であるか、どんな姿かたちをしているか、どんな主張か、どれほど楽しいか美しいか 〜〜 などなどリスナーによって千差万別であることそれじたいが、それらを決める主体は聴く人であるという立派な証拠です。
端的にいえば「ぼくにはそういうふうに聴こえたんだよ」(ポール・サイモン)ってことが音楽の意味のすべて。リリースされた音楽作品は作者の手を離れ、聴き手だれもが意味を選ぶことができ、そのひとが喜びを感じるよう好きなように構成できる。それでいいんだとポール・サイモンは言いたいようですよ。
(written 2023.6.6)
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