カテゴリー「ジェンダー、ルッキズム、エイジズム」の26件の記事

2023/06/06

Trust Over 75 〜 後期高齢者ズ

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75 Years and Older
https://open.spotify.com/playlist/3sFTdSixSXQ0v0kNbknmsg?si=06e3604879004dab

 

存命で現役活動中の高齢音楽家を思いつくまま八人、最新リリースの代表曲を並べておきましたが↑、それぞれ発表時点における年齢を書いておくと:

 

オマーラ・ポルトゥオンド 92
ウィリー・ネルスン 89
ジョアン・ドナート 87
バディ・ガイ 86
スモーキー・ロビンスン 83
ウィリアム・ベル 83
ボブ・ディラン 80
ポール・マッカートニー 78

 

新作こそごぶさたなまでもコンサート・ツアーなら活発にやっているローリング・ストーンズのミック・ジャガーもキース・リチャーズも79歳だし、こういった(日本式にいえば)後期高齢者にあたるミュージシャンたちがずいぶん元気ですよね。

 

ぼくも、自分ではちょっと衰えてきた(特に腰とかヒザとか目とか)自覚があって、61歳だから世間的には高齢者の仲間入りということになってしまいそうかもですが、見た目だけ若いけど。でも上に名前をあげた音楽家たちの仕事ぶりをみれば、まだまだこっちは甘っちょろいひよっこにすぎないでしょう。

 

つまり、オーヴァー75をいつまでもむかしの感覚で考えていちゃダメってこと。健康志向と医学や社会の進歩にともなって、バリバリ充実している現役年齢はどんどん上昇していて、(若年での円熟に驚くのはおかしいのと同様に)高齢での音楽的豊潤を「信じがたい」などと表現するのもふさわしくないわけです。

 

そんなのは(若いほうも高齢のほうも)エイジズム、つまり年齢差別だと指摘されてもしかたがないってことで、ぼくも自戒としなくっちゃ。いまの75歳以上は、ぼくらが小学生だった50年以上前の75歳以上とは違います。いまの高齢者はむかしと同じような意味でのお年寄りじゃないよ。

 

特にロックンロールの世界でかな “Don’t trust over 30” っていうことばがかつて流れていた時代もありましたけどね、ポールもミックもキースもいまの年齢になってなにも変わっていない、顔のシワなんかは増えたけど音楽的にはぜんぜんピチピチしているということを考えたら、むしろ75歳以上こそ信用できちゃうぜ〜っていう、そんな気分ですよ。

 

(若くても)歳とっても、音楽の実力に関係なんかない、すくなくともそういうひとも多い、増えてきているというのが事実でしょうね。

 

(written 2023.5.24)

2023/02/02

これって女子力?

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「女子力あるね」とか「私より女子力高い」というようなことを女性から言われることがときどきあるんですが、特にネイル関連かなソーシャルにできあがりの様子を投稿するとですね、言われます。

 

ネイルだけでなく髪でも肌でも料理でも家事全般でもコーヒー&ケーキでもファッションでも、たしかにぼくは一般に女子力があるとされるたぐいのことが好きで、得意かも。そういうのをいつもInstagramに上げているし。

 

女子力があるというのは、もちろんほめてくれているわけです。こっちがわ、仲間の一員だとして認めてくれているということ。素直にありがたがって喜んでいればいいことであって、なにも言葉尻をとらえてどうこう言わなくていいんですけど、こうしたたぐいのことを「女子」力だと(無意識裡にでも)思ってしまう発想にはやや違和感がないわけでもなく。

 

性別関係なくキレイでありたいと願い実行するのはおかしなことじゃないし、女性の特権というわけでもありません。現にネイリストさんのお話では近年サロンに男性客が(若年層で)微増しつつあるということで、見た目のおしゃれに気を遣うのは同じですよね。

 

旧来的な世間のジョーシキでは、洗顔後やアフター・バスでスキン・ケア(化粧水+乳液+クリーム)をつけたりなんてのは男はやらないんだ、やっていたら「おまえなにやってんねん!?」と言われることもあったりとかするらしく。たしかにぼくは母親にそう言われていました。

 

もちろん常用している花王Curélのスキン・ケア製品は、ドラッグストアで女性向けのメイク用品を扱うコスメ・コーナーにしか置かれていないです。かなりな乾燥敏感肌だからそれ向けにチューンナップされているキュレルを愛用しているわけですが、男性客の多くは足を向けにくいと感じるばあいがひょっとしたらあるかも。階が分かれていたりするし。

 

唇も乾燥しやすいからリップ・クリームは年中欠かせず(じゃないとヒビ割れて出血する)、その際ちょっと遊び心を出して色付きのを使って血色よく見せたりするのはアリかなって、そう思うんです。でも大州では店員さんに不審がられたことがあります。

 

眉メイク・コスメだって使うし、顔のヒゲは十数年前に永久脱毛しちゃっていてツルツルだし、ネイルのおしゃれをはじめてからはまだ一年ちょいしか経っていませんけど、ぼくの人生の必然的な流れのなかにある行為だと思いますね。

 

そういうのをなんでもレッテル貼りたがりの一部メディアは「美容男子」と呼ぶわけですが、そんなこと言ったらねえ、じゃあ床屋通いだって、カッコいい服を着てオシャレにキメるのだって、美容指向でしょうが〜っ。

 

この手のおしゃれごとは年齢性別不問の普遍的なことだというのがぼくの意識の根っこの根にあるんですけど、世間一般の男性もそうだけどむしろ女性のなかに「男がこれをやるとめずらしい」「女子力のある男性だ」と考えてしまう発想が残っている気がします。

 

この手のみだしなみに気を遣う男性は、たぶん女性になりたいとかトランスしたいとかいう気持ちでやっているんじゃありません。女性化して男性にモテたいなんて思っていないですもん。むしろネイルなんかしていると多くの男性から違和感を表明されるだけ。

 

そして、この手のおしゃれ(や料理など)で女子力云々をいうのは一定世代より上の女性にも多いような気が経験上しています。若い女性からは一度もそう言われたためしがありませんからね。ただひたすら「ネイルかわいいですね」と話かけられるだけで。こないだ松山市内の猫カフェ店内でもそうでしたし。

 

(written 2022.12.31)

2022/10/23

恋愛しない人間もいる

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(3 min read)

 

ちょっと前に、フィギュア・スケート元選手の高橋成美がセクシャル・マイノリティであることを公表しているという記事を読みました。LGBTのどれでもなくQなんじゃないかと。30年間一度も交際とかしたことがなく、彼氏も彼女もいたことがないとのこと。
https://digital.asahi.com/articles/ASQBJ6G0DQBJUTQP00D.html

 

これは正直ぼくのことじゃないかという気分になりましたよね。高橋成美のいうのはQ(クィア、クエスチョニング)っていうより、いはゆるアロマンティックっていうことなんじゃないかと感じたりもしますが、要するにだれかと恋愛する回路が脳に存在しないで生まれてきたのがぼく。

 

マイルズ・デイヴィスはじめ、そういうひとって実はわりといるんじゃないかと薄々感じてきましたから、高橋の公表はうれしかった。60年の人生で、結婚したことは一度あるけれど相手からのアプローチを断らなかったというだけ。だれかとつきあったことも交際したことも恋人だとかなんらかの関係だったことも一度もないんです。彼氏も彼女もいたことがない。

 

ほんとうの意味でだれかを好きになったことがないんですもんね。そして従来的な世間のジョーシキでいえば、人間どんなやつでもだれかを愛するもので、恋愛して、結婚したりとかがあたりまえで、していないやつは半人前というかハンパ者っていうことになるんでしょ。

 

ぼくのばあい心底愛しているといえるのは自分だけで、自己愛はとっても強いんですが、その気持ちが(血族ふくめ)他者に向くことはぜったいにありえないっていう。なんなんでしょうかこれ、やっぱおかしい?(考えこむとわからなくなる)

 

現実の恋愛はしないんですけど、あ、このひとちょっといいな、好きかもと感じることはよくありますよ。それでもって、いいなとぼんやり感じたそのかたといい関係になって懇意でいるっていうロマンティックな妄想にひたり、気持ちよくなって満足するという人生を送ってきました。

 

恋愛回路を持たないまま生まれ育ち大人になって還暦の現在までそうなんだから、今後死ぬまでずっとこのままで、そういうタイプというか種類の人間なのは間違いないことだとすっかりわかりました。高橋成美のいうQなのか、あるいはアロマンティックか、この二つは同じことなのか。

 

性自認や性指向と結びつけて考えたことが個人的にいままであまりなかったですけど、でも高橋の語っているように「カミングアウトした後に、大丈夫だよって伝えてあげられる方が素敵な社会だと思う」というのは間違いありませんよね。

 

(written 2022.10.17)

2022/09/30

年齢差別

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写真は今年八月の自撮りです

 

(6 min read)

 

あと五年で老齢年金がもらえるっていう歳の人間が「年齢差別」とかいうと、いはゆるエイジズムのことなんだろうと思われそうですが、そうじゃなく、若いからといって(音楽的に、など)円熟している/していないには無関係である、ステレオタイプにはめるな、と言いたいわけです。

 

こないだも22歳の韓国人歌手に言及し「実年齢が22と知って、驚きました。落ち着きのある成熟した歌声は、とてもそんな若さとは思えなかったものだから」と書いてあるブログを読み、なに言ってんのと思ったばかり。

 

そのブロガーは前からときどきこの手の発言をする年齢差別主義者で、実際にはそういうひと多いですけどね。そして、若いということでなにかができないと判断するのは間違っている、差別的だ、というのは、実をいうと20代のころのぼくの実体験から身に沁みて痛感してきたことなんですね。

 

大学卒業まではほぼみんな同年齢か、ぼくは早生まれだから周囲は一個上か、だいたいそれくらいの同年代といっしょに学年を一つづつ進んできたわけですが、大学院に入学したとたんもっと歳上の同級生ばかりになりました。

 

あとから知ったことですが、あのころの東京都立大学英文科大学院は現役合格するほうがまれな難関名門だったとのこと。そういわれたってねえ、こっちは卒業論文を一月末に書き終え残りの時間でちゃちゃっと英米文学史の本を通読、それも移動の新幹線のなかで、っていうだけの準備でそのまま受験に臨み、すんなり合格しちまいましたけど。

 

入学してみたら、同学年でも周囲は何浪もしていたようで数歳上ばかり。なかには社会人になって時間が経過してからというケースもありましたから。ぼくのほうはルックスも考えかたもこどもっぽいというか幼稚だということもあって、そりゃあずいぶんといじめられました。苦労も挫折も知らずすんなり上に進むエリートに対するやっかみみたいな感情もかなりあったと思います。

 

それにいっそう拍車をかけたのが、修士課程を最短の二年で終え、修論審査も無事通過、そのままストレートで難なく博士課程に合格しちゃったこと。同じ都立大英文科修士の学生でも、ここはそうカンタンに進む人間のほうが少なかったんです。たんに愛媛からお金持たずに上京し、二年で切れる育英会の奨学金しかあてがなかったから懸命だっただけですけど。

 

博士に進学すればまた博士の奨学金が出るんですが、もし浪人したらそのあいだ食べていく手段を思いつかなかったという、ただそれだけの理由でがんばりました。指導教授の杉浦銀策(メルヴィルが専門)なんかは「修士三年論」を常日頃から唱えていまして、アホかと。金がないんじゃ。無視して二年で終えました。

 

その後だって修士も博士も新規入学してくるのは浪人生ばかりで歳上。だから、いつまで経っても、どんだけ学年が進んでも、ぼくは最年少のまんまっていう。でも、そのことと英文学研究の学力(歌手なら歌唱実力)は関係ないことです。同じ大学院にいる学年が上や下や同の学生にも、教師にも、年齢のこと若いことではあれこれ言われましたけども。

 

博士課程を二年で中途退学し研究室の助手になったときも歴代最年少なら、そこから三年で國學院大學の専任講師に採用されたのだって29歳のときだったからこの世界では異例の若さで、「戸嶋くんは若いのに立派だねえ」とか言われ。「若い」ということと研究者としての実力や業績がどうして逆接詞で結合するのか、ひたすらナゾでしかなく、理解できず、イヤな思いをしました。

 

いまふりかえれば、すべてはみんなのコンプレックスと劣等感の反映にすぎなかったのだなとわかりますが、あの当時のいじめられた差別されたという精神的刻印は決して消えることがなく、還暦の現在でもぼくのなかにしっかりと記憶され実在しています。

 

現在だって、どこへ行ってもだれに会っても(ルックス的に)到底60には見えない、若いっ!と言われることばかり。この年齢になってくると逆にそれは絶大なる褒め要素、プラス・ポイントへと変貌し、自分もうれしいし、接客などでのアイス・ブレイク的な側面が多分にあるにせよ、今度はいじめられているとかいうんじゃなく、とってもいい気分ですけどね。

 

年齢不相応、それがぼくの人生です。若いか歳とっているかということと、どれだけのことができるか/できないかっていうのは、本質的に無関係なんです。なんなら10代前半でも立派に成熟した学者や歌手はいます。歌の世界ならどっちかというと多いんじゃないですか。

 

(written 2022.9.11)

2022/08/23

Say It Loud & I’m Proud! 〜 ぼくはパンセク

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(5 min read)

 

性自認はおっさんで間違いないけれど、性指向、つまり好きになったり性的欲求がわいたりするのに相手の性別がいっさい関係ないというパン・セクシャルなぼく。異性じゃないと…ってみんな言うのを信じられない思いで人生をすごしてきましたが、パンセクであることはプロフィール欄に二年ほど前から明記してあるので、ごらんになったかたも多いかと思います。

 

いはゆるセクシャル・マイノリティの一員なわけですが、セクマイはここ日本で法的に保護されておらず、異性となら結婚したりパートナーシップを結ぶのに障壁はありませんが、こと(戸籍上の)同性といっしょに…となると(いまのところは)ムリ。

 

このことについて声をあげるひとが現状でも少なくて、歌手、音楽家など有名人となると日本ではいまだ皆無。それにゲイ、レズビアン、トランスなら当事者がちょっと登場するようになっているものの、やはり激しく差別されているし、ましてやLGBTのどの枠にもあてはまらないパンセクだなんてカム・アウトしておおやけで活動している人物はゼロじゃないですか。

 

だから、きょうあたらめてはっきり言うことにしました。影響力なんかなにもないただの一般人ですけど。ぼくはパンセク。そしてこのことを誇りにも思っています。といってもですね、パンセクは異性に向かうことも多いため、ふだん周囲にヘンだともなんとも思われていないでしょうし、自身のセクシュアリティで生活上とても困るといった経験は少ないのかもしれません。

 

こどものころから同性に性欲求がわくことも多かったし、成人してからは実際に関係を交わすことだってなんどもあったため、自分はゲイなのかと思っていた時期もありました。しかし女性も好きになるし性愛への抵抗もなくむしろ積極的で、結婚も一度したことあって、日本で結婚というと異性間に限定されてしまうわけですが、現状では。

 

ここをですね、できるだけ早くすべての性自認と性指向へ解放してほしい、法的な整備をしてほしいという気持ちがとっても強くあります。もちろんぼく自身は年齢的なことと性格・人間性ゆえに、もはやだれかと、戸籍上の性別関係なく、もう一度結婚にいたるなんて可能性はまったくないと思います。ひとりで生きていきますから、法整備されなくても個人的には困りませんけど。

 

じゃあなぜ声高に叫ぶのかというと、法整備がちゃんとなされれば、その結果として社会における偏見や差別が軽減されるだろう、セクマイとしての自分も他人も多少なりとも生きやすくなるんじゃないか、それを目指したいということです。妙な目で見るひとはやっぱり残りますけど、社会制度上後ろめたいとか指をさされるとかはなくなるし、保険や医療や住居や遺産相続などで理不尽な思いをして困ることもなくなります。

 

選択的夫婦別姓制度も早く実現してほしいんですけど、同性婚ですね、きょう強調したいのは。先進国G7のなかでこの法制度がないのは実は日本だけですから。恥ずかしいことですよ。そして同性婚の法整備をしても、マジョリティの異性愛者が困ることなんてなにもありませんから。ただひたすら現状ではやるせない気分になっている人間を救うことになるだけ、ただそれだけなんで。

 

時間も予算もかからないし、考えひとつですぐできることだし、実現してもだれひとり困るひとがいないのに、なぜ法案が通らないのか、なぜ裁判で同性婚を認めない役所の判断は合憲との判決がでるのか、ちっとも理解できないです。同性婚を法的に正式導入したどの国もいまだ困っていないし、滅びてもおらず、それまでどおりの日常が淡々と続くだけなんですから。

 

同性婚にフォーカスしましたが、ぼく自身は異性でも同性でも何性でも関係なく恋愛性愛対象になるというパンセクなんであれですけど、ただそんな人間でも多少は生きやすく他者とコミュニケーションしやすく、社会で理解されやすくなり、むやみに隠す必要もなくなって、笑顔で話題にしやすいようになっていく、そのための最短の道が同性婚の法的実現だということです。

 

早く本当の意味での「法の下の平等」が実現する日が来ますように。

 

(written 2022.8.22)

2022/04/11

音楽に惚れたんであって、見た目が好きなんじゃない

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(5 min read)

 

写真はチェンチェン・ルー(魯千千、台湾出身在NYCのジャズ・ヴァイブラフォン奏者)の公式Instagramに2021年夏ごろ上がっていたもの。当時の渋谷タワーレコードでの様子で、ちょうどPヴァインがアルバム『ザ・パス』のCDを日本で発売したころでした。

 

問題は付属しているポップに書いてあることば。「Cool & Beauty」くらいはなんでもありませんが、「美しすぎるヴィブラフォン奏者」ってなんですか。ルックスが美しいかどうかで音楽の価値が決まるんですか?「すぎる」ってなに?

 

この手のことは以前からぼくも言い続けていますし、一度は演歌歌手、丘みどりきっかけで徹底的に書いたことがありました。ほんとムカつく。容貌の美醜と音楽性は関係ないのに。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-63f03b.html

 

チェンチェン・ルーでこうやってルックスをどうこう言うのは、実はぼくが『ザ・パス』LPレコードを買ったディスクユニオンの通販サイトにも書かれてあって(「美しきヴィブラフォン奏者」)、ってことはそれぞれのお店じゃなく発売元のPヴァインが考え一斉に提供しているのかもしれません。

 

ふだんぼくはサブスクで音楽に出会いサブスクで聴いていますから、チェンチェン・ルーのときもそうだったけどこういった種類のことに気づかないことがよくあります。あとから知ってゲンナリするっていう。

 

ここ日本では、レコード会社など音楽業界が女性の歌手や演奏家のルックスを「美しい」と表現することで、それでもってセールスにつなげたい、つながるはずだろうという商慣習、メンタリティが根っこにいまだしつこくあって、どうにも抜きがたいということです。

 

音楽家なんですから、あくまで音楽の実力を言えばいいんであって、歌や演奏をアピールして売っていけばいいと思うんです。音楽好きが魅力を感じるのもそこであってルックスは関係ないだろうとぼくは確信していますし、そんな商慣習はなくなってほしいんですが、いまのところどうにもならないような印象。

 

エル・スールのサイトなんか、もうこういった「美人」「美形」のオン・パレード。「〜〜嬢」「〜〜女史」という表現もよくやっていて、店主や常連客などつまりあの界隈では女性音楽家をひとつの音楽人格としてちゃんと認めていない、人形のような愛玩品と考えている証拠です。オフィス・サンビーニャも同じ。

 

どのレコード会社もどのお店も「売りたくて…」という一心でやっていることだと理解はしていますけど、そもそも見た目が美しいというセリフをつけくわえておけば売れるだろうという発想があるということですから。実際それで売れるのか知らんけれども。

 

もちろん歌手とか演奏家とか、ぱっと見て美人だ、かわいい、カッコいい、イケメンだというのをイイネと感じるのは当然で、売り手もぼくらファンもそれが目に入り思わず言及したくなるというのは不思議なことではありません。

 

問題だと思うのは、そんなちょっとイイネと感じて思わず言ってしまうという部分じゃなく、音楽ビジネスの根本に性差別があって、ジェンダー・バイアスやルッキズムなしで商売が成り立たない、そもそも社会が根っこからそういう差別構造の上に成立しているということです。

 

じゃなかったらこんだけ歌手や演奏家を宣伝するのに「美人」「美しすぎる」なんていうポップやコピーがあふれかえるわけないですから。ひとりひとりの意識を刷新していかないとダメだとも思うと同時に、システムから変えていかないといけませんよね。

 

音楽は、やっぱり「音」を聴けよ、音の魅力で宣伝しろよ、と思います。声のよさ、ヴォーカル・パフォーマンスの魅力、演奏能力の高さ、どんだけチャーミングなサウンドを奏でるか、っていうことで売るようにしていってほしいし、うんそういう音楽だったら聴きたい、買いたいねとファンも思うようなビジネス・モデルにOSをアップデートしないとダメでしょう。もう2022年なんですから。

 

(written 2022.2.15)

2022/03/15

女ことば男ことばという幻想

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「〜〜だわ」「〜〜のよ」など、翻訳小説や映画字幕 or 吹き替え、あるいは外国人音楽家のインタヴュー邦訳なんかでも頻出する言いまわし。女ことばとされるものですが、現実には「そんなふうに話すひとって、ほんとうにいる?」という違和感をいだきます。

 

実際にはどこにもいないだろうという気がするので、いったいいつごろどこからこんなことばづかいが誕生して定着したのか?いまだに各種邦訳であまりに頻出するのはなぜなのか?ちょっと不思議に思えるんです。

 

「〜〜だぜ」系の男ことば(も日常で使っている男性はあまりいないはず)もふくめ、こういったことばづかいにおける “女らしさ・男らしさ” といったものは、実は社会が勝手に押し付けているだけのジェンダー・ステレオタイプであるに過ぎず、それゆえ一方的な性偏見に結びついているんじゃないかというのが、いまのぼくの見方です。

 

この手のことは、このブログでも以前ちらっと軽く触れたことがあります。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-fce602.html

 

60年の個人的な人生のなかでも、たしかにこんな「〜〜だわ」「〜〜のよ」なんていうしゃべりかたをする女性に会ったことがないですが、たった一人だけいるにはいました。以前LINEや電話でよくしゃべっていた茨城県在住50代女性。名をいま仮に晴美さんとしてみます。

 

晴美さんが、上記のような典型的な女ことばを電話でもLINEでも頻用していたのは、彼女自身が男女別のステレオタイプなジェンダー偏見にとらわれていたからだと思いますが、その理由のひとつに性風俗産業で働いていたからというのもあったんじゃないかと推測しています。

 

いはゆるデリバリー・ヘルスで長年仕事をしていたらしいんですが(ぼくがおしゃべりしていた時期には引退し茨城にあるJAの直売所で働いていた)、女性であるということを強く意識する、女性ならでは、女性らしい(ってなに?)ありかた、ふるまいをふだんから心がけていたんじゃないかという印象を、ぼくは抱いていました。

 

それは彼女が生まれ持った、あるいは生育歴から、そうなったとか、もとから社会におけるそういうジェンダー・ステレオタイプにとらわれてきた存在だったという面もあったかもしれませんが、デリヘル嬢として働く上で自然と身につけた処世術でもあったんじゃないかと思うんですよね。

 

でも、デリヘルとかの性風俗産業をちょくちょく利用していたぼくでも、晴美さんほど露骨な “女ことば” を連発する女性はほかにいませんでしたからね。仕事柄というよりも最初から彼女はそういう発想の女性だったのかもしれません。セックス関係などの話題、下ネタなどを遠慮なく話せる貴重な女性しゃべり相手ではあったのですが。

 

考えてみれば最近のぼくは、しゃべりかただけじゃなく一般的に、社会が勝手に押し付けてきた「男らしさ」「女らしさ」といったジェンダー・ステレオタイプを極端に嫌うようになっています。いはゆる男らしさの乏しい人間で、どっちかというとヤサ男、それでなかなか生きにくい人生を送ってきたから、というのが根底にあるかもしれません。

 

それがあった上で、近年のジェンダー意識のたかまりのなかで、主に女性やセクシャル・マイノリティやアライが発信している一個一個の発言や記事を読むと、そりゃあそうだよ!と心底納得・共感できるものが多いので、2019年ごろから徐々にぼくもその種の問題意識を強く持つようになって、現在まできました。

 

ことばの問題は人間存在の根源にかかわることですから、当然鋭敏になるでしょう。なので、ジェンダー意識がぼくのなかでたかまってくるにつけ、女ことば・男ことばといったステレオタイプというか、はっきり言って偏見だと思いますが、おかしいぞと考えるようになったんでしょうね。

 

しかしジェンダー論なんかをふだんまったく意識もしていない(性別にかかわらず)一般のみなさんだって、上であげたような「〜〜だわ」「〜〜のよ」「〜〜だぜ」みたいな典型的な男女別のことばづかいはふだんしていません。翻訳関係など特殊な場面にしか存在しない役割語でしかないのに、いや、だからこそなのか、そこに女らしさ/男らしさを感じとるというのはどうなんですか。現実にはことばの性差なんてほとんどありませんよね。

 

ことばの問題だけでなく、またジェンダー関係のことがらだけでもなく、ステレオタイプというものは差別や偏見やハラスメントを助長・補強して正当化してきたという歴史があります。もはやいまではそんなことに無意識裡にであれ加担したりする個人的にとてもしんどくつらいので、ぼくはもうやめました。

 

(written 2021.11.19)

2021/12/26

純烈リーダー酒井のチカン問題で考える音楽家と倫理

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(7 min read)

 

2021年もおおみそかのNHK『紅白歌合戦』に出場する歌謡グループ、純烈。そのリーダー酒井一圭のチカン問題にかんしては不問にふされているような印象ですよね。一般マスコミはもちろん、演歌歌謡曲界に特化した雑誌などジャーナリズムだってなにも言わず。

 

そればかりか歌手活動を従来どおりバンバン応援するような姿勢がみうけられます。特にひどいのが『歌の手帖』。この雑誌は誌面中身を写真撮影してSNSにアップしてはならんというコンプライアンスだけはうるさく言うけれど、歌手の倫理違反は追及せず、ファンのほうにだけエリを正せって、ちょっとなんだかねえ。

 

もちろん表紙はOKだけど開けたなかの誌面をスマホなどで撮影し勝手にSNSに上げちゃダメっていうのは、どこも間違っていません。100%おっしゃるとおりで、ぼくも守っていますが、だったら酒井一圭のチカン問題でもちゃんとした態度を示してよと言いたくなるというのが当然の人間心理でしょう。

 

『歌の手帖』のことはきょうはどうでもいいんで、とにかく純烈リーダー酒井一圭のチカン問題のこと。発覚したのは、なんと酒井自身による2021年8月15日のTwitterへの動画投稿がきっかけでした(現在その投稿は削除されています)。

 

その動画投稿には、同日に和歌山県で開催されたヒーローショー「機界戦隊ゼンカイジャーVS百獣戦隊ガオレンジャー、スペシャルバトルステージ」での一幕が収められていて、ガオレンジャーのヒロイン、ガオホワイトの尻を酒井がなで、その場にいた俳優、金子昇にたしなめられる様子が確認できました。まぎれもないチカン行為でした。

 

なんとそれを酒井はまるで武勇伝を自慢するように「みずから」Twitterに投稿したのです。ガオホワイトのなかに入っていた俳優は、あるいは女性ではなく男性だったかもしれませんが、同性間でもチカン行為であることに違いはありませんし、ヒーロー戦隊の「女性役」に男性共演者が公衆の面前で手を出すという、ステレオタイプなセクハラです。

 

その投稿があった八月、すぐには問題化せず、ネットというか主にTwitter上で非難の声が巻き起こったのは九月に入ってから。炎上をうけネットの芸能マスコミも記事にしてとりあげるようになりました。問題がどんどん大きくなったので、酒井は該当ツイートを削除したんでしょう。

 

しかし問題は、その後2021年末になっても、酒井本人や純烈サイド、ヒーローショーを主催した東映から、謝罪発言など一個たりともないことです。うやむやにして時間が経てばそのうちケムリも消えてしまうさというわけか、ダンマリを決め込んでいますので、そのせいで個人的には酒井のことを許せない気分です。

 

上で言及した『歌の手帖』など歌謡界に特化したジャーナリズムだって、まったくなにもなかったかのようにそれまでどおり通常営業を続けているのが腹立たしいですよね。酒井本人も、純烈も、東映も、誠実な態度をみせておらず、このチカン問題にかんしてはただただ沈黙をつらぬくのみ。

 

ちょっとしたおふざけじゃないか、この程度のタワムレをとやかく咎め立てしなくていいぞっていうのが、いまだ芸能界の共通認識なのかもしれませんが、もう2021年ですからね、社会がこの手のセクハラ行為を決して容認しない方向へすっかり変化したというのに、いつまで「昭和」時代の感覚で生きるつもりでしょうか?各種ハラスメントにゆるい芸能界体質は変わらないんでしょうか?

 

もちろん、歌手とか演奏家とか、その他芸の世界の人間に倫理なんか求めるのがだいたい筋違いであるという発想はいまだ根強いです。過去をふりかえればチャーリー・パーカー(違法薬物常習者)やフィル・スペクター(殺人犯)やジェイムズ・ブラウン(DV&パワハラ)みたいな音楽家がごろごろいました。

 

そんなにひどくなくたってマイルズ・デイヴィスだってビートルズだってローリング・ストーンズだってちょっとした薬物に手を出すくらいはしていたし、日本でだっていまだ枚挙にいとまがないですね。

 

とことんろくでなしの無法者だったとしても、パーカーやスペクターらがとんでもなく偉大な音楽家だったという評価もゆるぐことなんてなく、彼らの生み出した音楽が聴かれなくなるとか忘れ去られるなんてことは、おそらく人類が存続するかぎりありえません。あそこまでの業績をあげたからこそ人間倫理的な部分はプラマイ大目に見てもらえているということでもないような気がします。

 

音楽界とはそんなものかもしれませんけれどもね。でも最近、特にここ二、三年かな、どんな世界の人間でも差別的言動やハラスメント、誹謗中傷などは許されないのであるという共通認識ができあがってきたように思いますから、芸能界だけいつまでも時代遅れの人権感覚のまま取り残されていくというのではちょっとね…って思いますよ。

 

そういう視点で考えれば、まだまだそんなたいした歌手ではない純烈リーダーの酒井一圭が起こしたチカン問題は、やはりしっかり批判され裁かれていかないといけない、今後はくりかえさないように、すくなくとも本人か純烈サイド、あるいは当日のイベントを開催した東映から謝罪と反省等のコメントが一個でも出てしかるべきです。

 

あたかもなにもなかったかのように揉み消されようとしている現状は絶対に容認できませんし、純烈の歌は個人的には聴きません。応援的にとりあげる『歌の手帖』などジャーナリズムも買いません。なんらかの前向きな対処がなされるまでは。

 

(written 2021.12.25)

2021/12/04

リボンの騎士

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(7 min read)

 

写真のようにきのうネイルをやってきましたが(ぼくがやってもらったのはマニキュアじゃなくてジェル・ネイル)、はじめてでした。近場でここがいいなと最初に見つけたネイル・サロンには「男性だから」という理由だけで断られ気分がだいぶ沈みましたけど、施術してくれるお店が見つかって、ほんとうによかった。

 

こういったことは、59歳というぼくの世代と松山という地方都市に住んでいるという二点を考えあわせると、男性向きじゃないとされることが多いです。それでも髪の毛のことなんかは美容室に行く男性もいまやかなりいると思いますが、ネイルはまだまだでしょう。

 

そういうのって、つまるところステレオタイプな固定観念で、ジェンダー偏見だと思うんですよね。男性はこう、女性はこう、と決めつけないでほしいなと心から思います。髪とか肌とか唇とか爪とか服装とか、きれいに整えるのがぼくは好きです、むかしから。男性のなかにだってそこそこいるでしょ。

 

そういえば思い出しましたが、ぼくがはじめて自分用の口紅を買ったのは1988年に就職して間もなくの26歳のころ。なにに使おうというわけでもなく、なんとなくほしくなっただけで、塗って鏡見れば楽しいかなと思ったんですよね。

 

それで、買ってきたリップをひきだしにふだん入れていたんですけど、のちに結婚することになるパートナーと当時すでにつきあっていました。ぼくの留守時に彼女がそれを見つけて、なぜだか大激怒。しばらく口きいてもらえなかったということもありました。

 

いまでこそリップやネイルをおしゃれにしたり、ヘア・ケア、スキン・ケアに気を遣うのが「美容男子」と言われちょっとした流行っぽくなっているかもしれませんが、あのころ1980年代、そんなことしているのはクロスドレッサーとかMtFのトランスとかだけでしたから、ぼくもそうなのかとパートナーは思ったらしいです。

 

パートナーはぼくと同世代にして自由で進歩的な考えかた、発想の持ち主だったんですけど、この手のことだけはあまりピンと来なかったのかもしれません。ぼくはべつに女装したかったわけじゃなく、リップを塗れば気分がいいはず、ストレス解消できるはずと思っただけでした。

 

ネイルの話でいえば、仕事上の実用目的なら男性でも古くから野球選手やギターリストはやりますよね。野球、特にピッチャーは爪が割れたりしますし、ギターリストも自爪でピッキングするスタイルなら同様。爪を補強するついでにワン・カラー塗るということがあったかも。

 

ぼくのばあいは爪の補強にもなるけれどもルックスの快適さを追求しているだけです。それで、ネイルとかリップとかその他美容関係で、世間一般の従来型のというか旧弊な男女観、ジェンダー偏見に沿っていえば、いわゆる「女性」に分類されることをするのがぼくは大好きです。

 

美容関係だけじゃなく、料理や家事一般もほんとうに好きで得意でもあるっていう。でも家事のことはですね、以前料理関係でも言ったようにそれを仕事にしているプロには男性もかなり多いので、性別は関係ないんですけどね。

 

なんというか、どんなことでも世間、コミュニティが押し付けてきたステレオタイプに囚われるのが極度に嫌いな性分ですから、ぼくは、だからジェンダー的なことでもそれでやっています。ヴァレンタイン・デイにはみずからチョコレートを買って仲良しの女性や男性のお友だちに送っています。

 

正直に告白すると、セックスのときなんかでもどっちかというと下になって受け身でいるほうが感じる人間なので、だから男性とするときはウケ(ネコ)にまわることが多いです。それをもって「女性の役割」と言うのもちょっと違うような気がしますけどね。

 

それでも女性のようになりたい、フェミニンな感じにしたいみたいな願望が内心あるのかもしれませんね。性自認にまったく揺らぎがないただのオッサンなのに、これはいったいなんでしょうか。変身願望?たんなるヘンタイ性欲の発露?

 

美容室とかネイル・サロンとか、女子トイレ(には入らないけど)とか、一般的な女性は男性が支配するこの社会から一時的に脱出するための息抜き的な、シス女性だけの「避難所」と考えているかもしれず、ぼくみたいな存在はヤッカイなだけかもしれませんけど。

 

でもでも、ただのオッサンでもリップやネイルなどをきれいに整えるといい気分だ、ウキウキ楽しい、うつでイヤなフィーリングが消えてしまうというのはたしかなこと。わかってくれる女性も多いし、男性でも進歩的な現代感覚のあるひとには共感されます。

 

とにかく、性別関係なくだれでも一度試しにチャレンジしてみればいいんですよ、そうすれば、なぜそんなことをするのか?気持ちが理解できると思いますよ。やってみなきゃ、わかんないでしょ。外野からヤイヤイ言うより、まず体験です。

 

それに歌手とか演奏家、音楽関係者など芸の世界では、むかしから性別をクロスしているひとは多いし、熱心な音楽愛好家であるぼくも長年そんな世界に触れ続けて、その結果似たような発想が染みついたのだとも言えるかもしれません。

 

そもそも、妊娠出産を除き世のなかのたいがいのことは性別関係ないんですからね。

 

(written 2021.12.2)

2021/11/06

料理男子?

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(8 min read)

 

写真は自作です。

 

Instagramなどソーシャル・メディアへの投稿では前々から同じことをくりかえしていますが、料理するかしないかということと性別とはなんの関係もありません。

 

家庭では女性がやることが多く、お店のプロには男性が多いのも、家庭と職場それぞれにおける女性抑圧、女性差別というだけの話。女性でも男性でも同じ料理を同じようにつくれますし、そこに性差による能力の違い、適性なんてものはありません。

 

なのに、一般家庭人である男性のぼくがどんどん料理をつくってネットに上げていると(上手かどうかはともかく、とにかく好き)、めずらしいねと言われたり、妙な褒めかたをされたり、「料理男子」とレッテルを貼られたりするのは、不本意ですよ。

 

もちろん、おいしそうだと言われたり料理写真を褒められるのはうれしいことですけれど、「男性なのに」という前提つきなのが見え隠れすると、それはちょっとどうか?と思うわけです。

 

女性/男性に関係なく、家事の得手・不得手は個体差であって性差ではないというのがおおむかしからの持論なんですが、59歳の愛媛県人であるぼくの世代と地域からして、この考えはなかなか受け入れられないことが多かったです。間違いないなという信念を持って生きてきましたが、料理したりは女性の役割だっていうひとのほうが周囲では多数で、抵抗されてきました。

 

料理が決して女性の役割なんかじゃないことは、お店のプロ料理人に男性が圧倒的に多いことでもわかります。もちろんこれはキャリアの世界で女性が生きていきにくいっていうだけの女性差別でしかありませんが、男性も、しかもプロになれるだけの腕前を身につけることができるんですから、料理と性別は関係ないっていう歴然とした証拠です。

 

であれば、その気になれば一般家庭でも男性も女性も同じだけ料理をこなすことができるはず。それがいまだになかなか実現しないのは、一般家庭における家事は女性の役割であるという(そんでもって男性は外に働きに出るものだという)、古くからの固定観念にいまだ大勢がしばられているだけのことなんですよね。

 

思えば、ぼくは幼少時からこの手の固定観念とは無縁で来た、というかしばられることなく成長できたというのはまずまずラッキーでした。小学校に上がる前、幼稚園児のころの最親友が近所の同級の女子で、遊びといえばその女子と近くの砂場でままごとばかり。

 

プラスティック製のおもちゃの食器なんかを持ち込んで、砂をごはんに見立て、それをよそったりよそわれたりで遊ぶっていうのがぼくの幼稚園児のころの大きな楽しみだったんですからねえ。それが小学校に入っても低学年のころは続きました。空き地で走りまわったり草野球したり、自動車や鉄道の模型で遊んだり、ということのない男子でした。

 

ままごと遊びから発展して、自宅で母親がやるごはんづくりにも興味を持つようになるのは自然な流れだったように思います。自宅に隣接している青果食料品店で忙しそうに仕事に追われ家事に手がまわらない母を助けて、料理の準備をしたり洗いものをしたりするようになったのが中学生のころです。

 

そうそう、関係ない話ですが思い出しましたので。幼稚園児〜小学生低学年のころにままごと遊びをよくやって仲がよかったその同級の女子ですが、あるとき父に「もうあの子と遊んじゃいかん」と言われたことがあります。当時はどうしてなのか?なぜそんなことを言われるのか?1ミリも理解できなかったんですが、どうやらその女子は被差別部落出身だったようです。

 

ぼくは意味がわからず、わかってからはこのことで父に激しく抵抗・抗議するようになり。だいたいにおいて合理的で知性的なものの考えかたや発言をするタイプだった父なのに、こんな理不尽な部落差別を言うのかと思うと、ほんとうにガッカリし立腹もしました。

 

ぼくが大学生になってからも、父は「ああいった(被差別部落出身の)女性とは結婚しないでくれよ、それだったらまだ黒人のほうがマシだ」と、ぼくに面と向かって明言したことがあります。部落差別なだけでなく黒人差別でもあるし、そのとき表立ってはなにも言いませんでしたが、結婚相手を決めるときはこんな差別主義者の父になんか相談せずにおこうと内心固く決心しました。

 

関係ない話でした。料理と性別。とにかく家庭において男性は家事関係をなにもやらなくていい、それは女性の仕事であるから任せておけばいい、協力する必要もないっていう、なんというか封建的・差別的な考えは、しかしいまだに根強く社会の骨の髄まで染み込んでいて、なかなか抜くことのできないものなのかもしれません。

 

インスタント・ラーメン一個も満足につくれない男性というのがわりといるんだっていう、これは実を言うとぼくの上の弟がそうでした。その息子(ぼくの甥)に「男子厨房に入るべからず」などと言って育てようとしていたという話を知り、ぼくとはケンカになったこともありました。ぼくなんかずっと厨房に入りびたっている人生ですからねえ。

 

そして、これは女性(妻、母)の側もあえて甘受してきたことでもあります。それが女性の役割、本来の生きがいなのであると思い定め、ひたすら尽くすことで一種の自己実現を達成するというような生きかたをしてきた女性も多いように見受けられますからね。

 

もちろんどんな生きかたをしようとそのひとの自由なんで好きにすればいいことですが、なんらかの(社会や歴史や共同体が押しつける)固定観念にしばられて奴隷状態のようになり、むしろ積極的に奴隷であろうと、そこに生きるすべを見出しているというなら、ちょっと考えなおしたほうがいいのかもしれないと思うことだってありますよ。

 

もちろんたんにぼくはこども時分からの料理好き、家事好き人間だったので、そういう人生を送ってきて不自由がなかったというだけの話ではあります。だって、料理って楽しいもんね。AとBを混ぜてC分間加熱するとDができあがります、っていう、まるで理科の実験じゃないですか。理科実験好きだった男性はみんな料理向きだと思っちゃうんですけれども。

 

あ、ぼくはずっとひとりなんで、だれかおいしいと言って食べてくれるひとがいるからそのためにがんばって料理するということではありません。どこまでもひたすら自分のため、ひとりでつくってひとりで食べて、つくっている段階から楽しいし、おいしく食べ終わって満足っていう、そういう人間です。

 

そんなこんなに性別はまぁ〜ったくなんの関係もないんで、だから「料理男子」って言わないで。

 

「美容男子」っていう偏見もありますが、またの機会に。

 

(written 2021.10.22)

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