カテゴリー「ジェンダー、ルッキズム、エイジズム」の22件の記事

2022/08/23

Say It Loud & I’m Proud! 〜 ぼくはパンセク

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(5 min read)

 

性自認はおっさんで間違いないけれど、性指向、つまり好きになったり性的欲求がわいたりするのに相手の性別がいっさい関係ないというパン・セクシャルなぼく。異性じゃないと…ってみんな言うのを信じられない思いで人生をすごしてきましたが、パンセクであることはプロフィール欄に二年ほど前から明記してあるので、ごらんになったかたも多いかと思います。

 

いはゆるセクシャル・マイノリティの一員なわけですが、セクマイはここ日本で法的に保護されておらず、異性となら結婚したりパートナーシップを結ぶのに障壁はありませんが、こと(戸籍上の)同性といっしょに…となると(いまのところは)ムリ。

 

このことについて声をあげるひとが現状でも少なくて、歌手、音楽家など有名人となると日本ではいまだ皆無。それにゲイ、レズビアン、トランスなら当事者がちょっと登場するようになっているものの、やはり激しく差別されているし、ましてやLGBTのどの枠にもあてはまらないパンセクだなんてカム・アウトしておおやけで活動している人物はゼロじゃないですか。

 

だから、きょうあたらめてはっきり言うことにしました。影響力なんかなにもないただの一般人ですけど。ぼくはパンセク。そしてこのことを誇りにも思っています。といってもですね、パンセクは異性に向かうことも多いため、ふだん周囲にヘンだともなんとも思われていないでしょうし、自身のセクシュアリティで生活上とても困るといった経験は少ないのかもしれません。

 

こどものころから同性に性欲求がわくことも多かったし、成人してからは実際に関係を交わすことだってなんどもあったため、自分はゲイなのかと思っていた時期もありました。しかし女性も好きになるし性愛への抵抗もなくむしろ積極的で、結婚も一度したことあって、日本で結婚というと異性間に限定されてしまうわけですが、現状では。

 

ここをですね、できるだけ早くすべての性自認と性指向へ解放してほしい、法的な整備をしてほしいという気持ちがとっても強くあります。もちろんぼく自身は年齢的なことと性格・人間性ゆえに、もはやだれかと、戸籍上の性別関係なく、もう一度結婚にいたるなんて可能性はまったくないと思います。ひとりで生きていきますから、法整備されなくても個人的には困りませんけど。

 

じゃあなぜ声高に叫ぶのかというと、法整備がちゃんとなされれば、その結果として社会における偏見や差別が軽減されるだろう、セクマイとしての自分も他人も多少なりとも生きやすくなるんじゃないか、それを目指したいということです。妙な目で見るひとはやっぱり残りますけど、社会制度上後ろめたいとか指をさされるとかはなくなるし、保険や医療や住居や遺産相続などで理不尽な思いをして困ることもなくなります。

 

選択的夫婦別姓制度も早く実現してほしいんですけど、同性婚ですね、きょう強調したいのは。先進国G7のなかでこの法制度がないのは実は日本だけですから。恥ずかしいことですよ。そして同性婚の法整備をしても、マジョリティの異性愛者が困ることなんてなにもありませんから。ただひたすら現状ではやるせない気分になっている人間を救うことになるだけ、ただそれだけなんで。

 

時間も予算もかからないし、考えひとつですぐできることだし、実現してもだれひとり困るひとがいないのに、なぜ法案が通らないのか、なぜ裁判で同性婚を認めない役所の判断は合憲との判決がでるのか、ちっとも理解できないです。同性婚を法的に正式導入したどの国もいまだ困っていないし、滅びてもおらず、それまでどおりの日常が淡々と続くだけなんですから。

 

同性婚にフォーカスしましたが、ぼく自身は異性でも同性でも何性でも関係なく恋愛性愛対象になるというパンセクなんであれですけど、ただそんな人間でも多少は生きやすく他者とコミュニケーションしやすく、社会で理解されやすくなり、むやみに隠す必要もなくなって、笑顔で話題にしやすいようになっていく、そのための最短の道が同性婚の法的実現だということです。

 

早く本当の意味での「法の下の平等」が実現する日が来ますように。

 

(written 2022.8.22)

2022/04/11

音楽に惚れたんであって、見た目が好きなんじゃない

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(5 min read)

 

写真はチェンチェン・ルー(魯千千、台湾出身在NYCのジャズ・ヴァイブラフォン奏者)の公式Instagramに2021年夏ごろ上がっていたもの。当時の渋谷タワーレコードでの様子で、ちょうどPヴァインがアルバム『ザ・パス』のCDを日本で発売したころでした。

 

問題は付属しているポップに書いてあることば。「Cool & Beauty」くらいはなんでもありませんが、「美しすぎるヴィブラフォン奏者」ってなんですか。ルックスが美しいかどうかで音楽の価値が決まるんですか?「すぎる」ってなに?

 

この手のことは以前からぼくも言い続けていますし、一度は演歌歌手、丘みどりきっかけで徹底的に書いたことがありました。ほんとムカつく。容貌の美醜と音楽性は関係ないのに。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-63f03b.html

 

チェンチェン・ルーでこうやってルックスをどうこう言うのは、実はぼくが『ザ・パス』LPレコードを買ったディスクユニオンの通販サイトにも書かれてあって(「美しきヴィブラフォン奏者」)、ってことはそれぞれのお店じゃなく発売元のPヴァインが考え一斉に提供しているのかもしれません。

 

ふだんぼくはサブスクで音楽に出会いサブスクで聴いていますから、チェンチェン・ルーのときもそうだったけどこういった種類のことに気づかないことがよくあります。あとから知ってゲンナリするっていう。

 

ここ日本では、レコード会社など音楽業界が女性の歌手や演奏家のルックスを「美しい」と表現することで、それでもってセールスにつなげたい、つながるはずだろうという商慣習、メンタリティが根っこにいまだしつこくあって、どうにも抜きがたいということです。

 

音楽家なんですから、あくまで音楽の実力を言えばいいんであって、歌や演奏をアピールして売っていけばいいと思うんです。音楽好きが魅力を感じるのもそこであってルックスは関係ないだろうとぼくは確信していますし、そんな商慣習はなくなってほしいんですが、いまのところどうにもならないような印象。

 

エル・スールのサイトなんか、もうこういった「美人」「美形」のオン・パレード。「〜〜嬢」「〜〜女史」という表現もよくやっていて、店主や常連客などつまりあの界隈では女性音楽家をひとつの音楽人格としてちゃんと認めていない、人形のような愛玩品と考えている証拠です。オフィス・サンビーニャも同じ。

 

どのレコード会社もどのお店も「売りたくて…」という一心でやっていることだと理解はしていますけど、そもそも見た目が美しいというセリフをつけくわえておけば売れるだろうという発想があるということですから。実際それで売れるのか知らんけれども。

 

もちろん歌手とか演奏家とか、ぱっと見て美人だ、かわいい、カッコいい、イケメンだというのをイイネと感じるのは当然で、売り手もぼくらファンもそれが目に入り思わず言及したくなるというのは不思議なことではありません。

 

問題だと思うのは、そんなちょっとイイネと感じて思わず言ってしまうという部分じゃなく、音楽ビジネスの根本に性差別があって、ジェンダー・バイアスやルッキズムなしで商売が成り立たない、そもそも社会が根っこからそういう差別構造の上に成立しているということです。

 

じゃなかったらこんだけ歌手や演奏家を宣伝するのに「美人」「美しすぎる」なんていうポップやコピーがあふれかえるわけないですから。ひとりひとりの意識を刷新していかないとダメだとも思うと同時に、システムから変えていかないといけませんよね。

 

音楽は、やっぱり「音」を聴けよ、音の魅力で宣伝しろよ、と思います。声のよさ、ヴォーカル・パフォーマンスの魅力、演奏能力の高さ、どんだけチャーミングなサウンドを奏でるか、っていうことで売るようにしていってほしいし、うんそういう音楽だったら聴きたい、買いたいねとファンも思うようなビジネス・モデルにOSをアップデートしないとダメでしょう。もう2022年なんですから。

 

(written 2022.2.15)

2022/03/15

女ことば男ことばという幻想

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(6 min read)

 

「〜〜だわ」「〜〜のよ」など、翻訳小説や映画字幕 or 吹き替え、あるいは外国人音楽家のインタヴュー邦訳なんかでも頻出する言いまわし。女ことばとされるものですが、現実には「そんなふうに話すひとって、ほんとうにいる?」という違和感をいだきます。

 

実際にはどこにもいないだろうという気がするので、いったいいつごろどこからこんなことばづかいが誕生して定着したのか?いまだに各種邦訳であまりに頻出するのはなぜなのか?ちょっと不思議に思えるんです。

 

「〜〜だぜ」系の男ことば(も日常で使っている男性はあまりいないはず)もふくめ、こういったことばづかいにおける “女らしさ・男らしさ” といったものは、実は社会が勝手に押し付けているだけのジェンダー・ステレオタイプであるに過ぎず、それゆえ一方的な性偏見に結びついているんじゃないかというのが、いまのぼくの見方です。

 

この手のことは、このブログでも以前ちらっと軽く触れたことがあります。
https://hisashitoshima.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-fce602.html

 

60年の個人的な人生のなかでも、たしかにこんな「〜〜だわ」「〜〜のよ」なんていうしゃべりかたをする女性に会ったことがないですが、たった一人だけいるにはいました。以前LINEや電話でよくしゃべっていた茨城県在住50代女性。名をいま仮に晴美さんとしてみます。

 

晴美さんが、上記のような典型的な女ことばを電話でもLINEでも頻用していたのは、彼女自身が男女別のステレオタイプなジェンダー偏見にとらわれていたからだと思いますが、その理由のひとつに性風俗産業で働いていたからというのもあったんじゃないかと推測しています。

 

いはゆるデリバリー・ヘルスで長年仕事をしていたらしいんですが(ぼくがおしゃべりしていた時期には引退し茨城にあるJAの直売所で働いていた)、女性であるということを強く意識する、女性ならでは、女性らしい(ってなに?)ありかた、ふるまいをふだんから心がけていたんじゃないかという印象を、ぼくは抱いていました。

 

それは彼女が生まれ持った、あるいは生育歴から、そうなったとか、もとから社会におけるそういうジェンダー・ステレオタイプにとらわれてきた存在だったという面もあったかもしれませんが、デリヘル嬢として働く上で自然と身につけた処世術でもあったんじゃないかと思うんですよね。

 

でも、デリヘルとかの性風俗産業をちょくちょく利用していたぼくでも、晴美さんほど露骨な “女ことば” を連発する女性はほかにいませんでしたからね。仕事柄というよりも最初から彼女はそういう発想の女性だったのかもしれません。セックス関係などの話題、下ネタなどを遠慮なく話せる貴重な女性しゃべり相手ではあったのですが。

 

考えてみれば最近のぼくは、しゃべりかただけじゃなく一般的に、社会が勝手に押し付けてきた「男らしさ」「女らしさ」といったジェンダー・ステレオタイプを極端に嫌うようになっています。いはゆる男らしさの乏しい人間で、どっちかというとヤサ男、それでなかなか生きにくい人生を送ってきたから、というのが根底にあるかもしれません。

 

それがあった上で、近年のジェンダー意識のたかまりのなかで、主に女性やセクシャル・マイノリティやアライが発信している一個一個の発言や記事を読むと、そりゃあそうだよ!と心底納得・共感できるものが多いので、2019年ごろから徐々にぼくもその種の問題意識を強く持つようになって、現在まできました。

 

ことばの問題は人間存在の根源にかかわることですから、当然鋭敏になるでしょう。なので、ジェンダー意識がぼくのなかでたかまってくるにつけ、女ことば・男ことばといったステレオタイプというか、はっきり言って偏見だと思いますが、おかしいぞと考えるようになったんでしょうね。

 

しかしジェンダー論なんかをふだんまったく意識もしていない(性別にかかわらず)一般のみなさんだって、上であげたような「〜〜だわ」「〜〜のよ」「〜〜だぜ」みたいな典型的な男女別のことばづかいはふだんしていません。翻訳関係など特殊な場面にしか存在しない役割語でしかないのに、いや、だからこそなのか、そこに女らしさ/男らしさを感じとるというのはどうなんですか。現実にはことばの性差なんてほとんどありませんよね。

 

ことばの問題だけでなく、またジェンダー関係のことがらだけでもなく、ステレオタイプというものは差別や偏見やハラスメントを助長・補強して正当化してきたという歴史があります。もはやいまではそんなことに無意識裡にであれ加担したりする個人的にとてもしんどくつらいので、ぼくはもうやめました。

 

(written 2021.11.19)

2021/12/26

純烈リーダー酒井のチカン問題で考える音楽家と倫理

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(7 min read)

 

2021年もおおみそかのNHK『紅白歌合戦』に出場する歌謡グループ、純烈。そのリーダー酒井一圭のチカン問題にかんしては不問にふされているような印象ですよね。一般マスコミはもちろん、演歌歌謡曲界に特化した雑誌などジャーナリズムだってなにも言わず。

 

そればかりか歌手活動を従来どおりバンバン応援するような姿勢がみうけられます。特にひどいのが『歌の手帖』。この雑誌は誌面中身を写真撮影してSNSにアップしてはならんというコンプライアンスだけはうるさく言うけれど、歌手の倫理違反は追及せず、ファンのほうにだけエリを正せって、ちょっとなんだかねえ。

 

もちろん表紙はOKだけど開けたなかの誌面をスマホなどで撮影し勝手にSNSに上げちゃダメっていうのは、どこも間違っていません。100%おっしゃるとおりで、ぼくも守っていますが、だったら酒井一圭のチカン問題でもちゃんとした態度を示してよと言いたくなるというのが当然の人間心理でしょう。

 

『歌の手帖』のことはきょうはどうでもいいんで、とにかく純烈リーダー酒井一圭のチカン問題のこと。発覚したのは、なんと酒井自身による2021年8月15日のTwitterへの動画投稿がきっかけでした(現在その投稿は削除されています)。

 

その動画投稿には、同日に和歌山県で開催されたヒーローショー「機界戦隊ゼンカイジャーVS百獣戦隊ガオレンジャー、スペシャルバトルステージ」での一幕が収められていて、ガオレンジャーのヒロイン、ガオホワイトの尻を酒井がなで、その場にいた俳優、金子昇にたしなめられる様子が確認できました。まぎれもないチカン行為でした。

 

なんとそれを酒井はまるで武勇伝を自慢するように「みずから」Twitterに投稿したのです。ガオホワイトのなかに入っていた俳優は、あるいは女性ではなく男性だったかもしれませんが、同性間でもチカン行為であることに違いはありませんし、ヒーロー戦隊の「女性役」に男性共演者が公衆の面前で手を出すという、ステレオタイプなセクハラです。

 

その投稿があった八月、すぐには問題化せず、ネットというか主にTwitter上で非難の声が巻き起こったのは九月に入ってから。炎上をうけネットの芸能マスコミも記事にしてとりあげるようになりました。問題がどんどん大きくなったので、酒井は該当ツイートを削除したんでしょう。

 

しかし問題は、その後2021年末になっても、酒井本人や純烈サイド、ヒーローショーを主催した東映から、謝罪発言など一個たりともないことです。うやむやにして時間が経てばそのうちケムリも消えてしまうさというわけか、ダンマリを決め込んでいますので、そのせいで個人的には酒井のことを許せない気分です。

 

上で言及した『歌の手帖』など歌謡界に特化したジャーナリズムだって、まったくなにもなかったかのようにそれまでどおり通常営業を続けているのが腹立たしいですよね。酒井本人も、純烈も、東映も、誠実な態度をみせておらず、このチカン問題にかんしてはただただ沈黙をつらぬくのみ。

 

ちょっとしたおふざけじゃないか、この程度のタワムレをとやかく咎め立てしなくていいぞっていうのが、いまだ芸能界の共通認識なのかもしれませんが、もう2021年ですからね、社会がこの手のセクハラ行為を決して容認しない方向へすっかり変化したというのに、いつまで「昭和」時代の感覚で生きるつもりでしょうか?各種ハラスメントにゆるい芸能界体質は変わらないんでしょうか?

 

もちろん、歌手とか演奏家とか、その他芸の世界の人間に倫理なんか求めるのがだいたい筋違いであるという発想はいまだ根強いです。過去をふりかえればチャーリー・パーカー(違法薬物常習者)やフィル・スペクター(殺人犯)やジェイムズ・ブラウン(DV&パワハラ)みたいな音楽家がごろごろいました。

 

そんなにひどくなくたってマイルズ・デイヴィスだってビートルズだってローリング・ストーンズだってちょっとした薬物に手を出すくらいはしていたし、日本でだっていまだ枚挙にいとまがないですね。

 

とことんろくでなしの無法者だったとしても、パーカーやスペクターらがとんでもなく偉大な音楽家だったという評価もゆるぐことなんてなく、彼らの生み出した音楽が聴かれなくなるとか忘れ去られるなんてことは、おそらく人類が存続するかぎりありえません。あそこまでの業績をあげたからこそ人間倫理的な部分はプラマイ大目に見てもらえているということでもないような気がします。

 

音楽界とはそんなものかもしれませんけれどもね。でも最近、特にここ二、三年かな、どんな世界の人間でも差別的言動やハラスメント、誹謗中傷などは許されないのであるという共通認識ができあがってきたように思いますから、芸能界だけいつまでも時代遅れの人権感覚のまま取り残されていくというのではちょっとね…って思いますよ。

 

そういう視点で考えれば、まだまだそんなたいした歌手ではない純烈リーダーの酒井一圭が起こしたチカン問題は、やはりしっかり批判され裁かれていかないといけない、今後はくりかえさないように、すくなくとも本人か純烈サイド、あるいは当日のイベントを開催した東映から謝罪と反省等のコメントが一個でも出てしかるべきです。

 

あたかもなにもなかったかのように揉み消されようとしている現状は絶対に容認できませんし、純烈の歌は個人的には聴きません。応援的にとりあげる『歌の手帖』などジャーナリズムも買いません。なんらかの前向きな対処がなされるまでは。

 

(written 2021.12.25)

2021/12/04

リボンの騎士

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写真のようにきのうネイルをやってきましたが(ぼくがやってもらったのはマニキュアじゃなくてジェル・ネイル)、はじめてでした。近場でここがいいなと最初に見つけたネイル・サロンには「男性だから」という理由だけで断られ気分がだいぶ沈みましたけど、施術してくれるお店が見つかって、ほんとうによかった。

 

こういったことは、59歳というぼくの世代と松山という地方都市に住んでいるという二点を考えあわせると、男性向きじゃないとされることが多いです。それでも髪の毛のことなんかは美容室に行く男性もいまやかなりいると思いますが、ネイルはまだまだでしょう。

 

そういうのって、つまるところステレオタイプな固定観念で、ジェンダー偏見だと思うんですよね。男性はこう、女性はこう、と決めつけないでほしいなと心から思います。髪とか肌とか唇とか爪とか服装とか、きれいに整えるのがぼくは好きです、むかしから。男性のなかにだってそこそこいるでしょ。

 

そういえば思い出しましたが、ぼくがはじめて自分用の口紅を買ったのは1988年に就職して間もなくの26歳のころ。なにに使おうというわけでもなく、なんとなくほしくなっただけで、塗って鏡見れば楽しいかなと思ったんですよね。

 

それで、買ってきたリップをひきだしにふだん入れていたんですけど、のちに結婚することになるパートナーと当時すでにつきあっていました。ぼくの留守時に彼女がそれを見つけて、なぜだか大激怒。しばらく口きいてもらえなかったということもありました。

 

いまでこそリップやネイルをおしゃれにしたり、ヘア・ケア、スキン・ケアに気を遣うのが「美容男子」と言われちょっとした流行っぽくなっているかもしれませんが、あのころ1980年代、そんなことしているのはクロスドレッサーとかMtFのトランスとかだけでしたから、ぼくもそうなのかとパートナーは思ったらしいです。

 

パートナーはぼくと同世代にして自由で進歩的な考えかた、発想の持ち主だったんですけど、この手のことだけはあまりピンと来なかったのかもしれません。ぼくはべつに女装したかったわけじゃなく、リップを塗れば気分がいいはず、ストレス解消できるはずと思っただけでした。

 

ネイルの話でいえば、仕事上の実用目的なら男性でも古くから野球選手やギターリストはやりますよね。野球、特にピッチャーは爪が割れたりしますし、ギターリストも自爪でピッキングするスタイルなら同様。爪を補強するついでにワン・カラー塗るということがあったかも。

 

ぼくのばあいは爪の補強にもなるけれどもルックスの快適さを追求しているだけです。それで、ネイルとかリップとかその他美容関係で、世間一般の従来型のというか旧弊な男女観、ジェンダー偏見に沿っていえば、いわゆる「女性」に分類されることをするのがぼくは大好きです。

 

美容関係だけじゃなく、料理や家事一般もほんとうに好きで得意でもあるっていう。でも家事のことはですね、以前料理関係でも言ったようにそれを仕事にしているプロには男性もかなり多いので、性別は関係ないんですけどね。

 

なんというか、どんなことでも世間、コミュニティが押し付けてきたステレオタイプに囚われるのが極度に嫌いな性分ですから、ぼくは、だからジェンダー的なことでもそれでやっています。ヴァレンタイン・デイにはみずからチョコレートを買って仲良しの女性や男性のお友だちに送っています。

 

正直に告白すると、セックスのときなんかでもどっちかというと下になって受け身でいるほうが感じる人間なので、だから男性とするときはウケ(ネコ)にまわることが多いです。それをもって「女性の役割」と言うのもちょっと違うような気がしますけどね。

 

それでも女性のようになりたい、フェミニンな感じにしたいみたいな願望が内心あるのかもしれませんね。性自認にまったく揺らぎがないただのオッサンなのに、これはいったいなんでしょうか。変身願望?たんなるヘンタイ性欲の発露?

 

美容室とかネイル・サロンとか、女子トイレ(には入らないけど)とか、一般的な女性は男性が支配するこの社会から一時的に脱出するための息抜き的な、シス女性だけの「避難所」と考えているかもしれず、ぼくみたいな存在はヤッカイなだけかもしれませんけど。

 

でもでも、ただのオッサンでもリップやネイルなどをきれいに整えるといい気分だ、ウキウキ楽しい、うつでイヤなフィーリングが消えてしまうというのはたしかなこと。わかってくれる女性も多いし、男性でも進歩的な現代感覚のあるひとには共感されます。

 

とにかく、性別関係なくだれでも一度試しにチャレンジしてみればいいんですよ、そうすれば、なぜそんなことをするのか?気持ちが理解できると思いますよ。やってみなきゃ、わかんないでしょ。外野からヤイヤイ言うより、まず体験です。

 

それに歌手とか演奏家、音楽関係者など芸の世界では、むかしから性別をクロスしているひとは多いし、熱心な音楽愛好家であるぼくも長年そんな世界に触れ続けて、その結果似たような発想が染みついたのだとも言えるかもしれません。

 

そもそも、妊娠出産を除き世のなかのたいがいのことは性別関係ないんですからね。

 

(written 2021.12.2)

2021/11/06

料理男子?

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写真は自作です。

 

Instagramなどソーシャル・メディアへの投稿では前々から同じことをくりかえしていますが、料理するかしないかということと性別とはなんの関係もありません。

 

家庭では女性がやることが多く、お店のプロには男性が多いのも、家庭と職場それぞれにおける女性抑圧、女性差別というだけの話。女性でも男性でも同じ料理を同じようにつくれますし、そこに性差による能力の違い、適性なんてものはありません。

 

なのに、一般家庭人である男性のぼくがどんどん料理をつくってネットに上げていると(上手かどうかはともかく、とにかく好き)、めずらしいねと言われたり、妙な褒めかたをされたり、「料理男子」とレッテルを貼られたりするのは、不本意ですよ。

 

もちろん、おいしそうだと言われたり料理写真を褒められるのはうれしいことですけれど、「男性なのに」という前提つきなのが見え隠れすると、それはちょっとどうか?と思うわけです。

 

女性/男性に関係なく、家事の得手・不得手は個体差であって性差ではないというのがおおむかしからの持論なんですが、59歳の愛媛県人であるぼくの世代と地域からして、この考えはなかなか受け入れられないことが多かったです。間違いないなという信念を持って生きてきましたが、料理したりは女性の役割だっていうひとのほうが周囲では多数で、抵抗されてきました。

 

料理が決して女性の役割なんかじゃないことは、お店のプロ料理人に男性が圧倒的に多いことでもわかります。もちろんこれはキャリアの世界で女性が生きていきにくいっていうだけの女性差別でしかありませんが、男性も、しかもプロになれるだけの腕前を身につけることができるんですから、料理と性別は関係ないっていう歴然とした証拠です。

 

であれば、その気になれば一般家庭でも男性も女性も同じだけ料理をこなすことができるはず。それがいまだになかなか実現しないのは、一般家庭における家事は女性の役割であるという(そんでもって男性は外に働きに出るものだという)、古くからの固定観念にいまだ大勢がしばられているだけのことなんですよね。

 

思えば、ぼくは幼少時からこの手の固定観念とは無縁で来た、というかしばられることなく成長できたというのはまずまずラッキーでした。小学校に上がる前、幼稚園児のころの最親友が近所の同級の女子で、遊びといえばその女子と近くの砂場でままごとばかり。

 

プラスティック製のおもちゃの食器なんかを持ち込んで、砂をごはんに見立て、それをよそったりよそわれたりで遊ぶっていうのがぼくの幼稚園児のころの大きな楽しみだったんですからねえ。それが小学校に入っても低学年のころは続きました。空き地で走りまわったり草野球したり、自動車や鉄道の模型で遊んだり、ということのない男子でした。

 

ままごと遊びから発展して、自宅で母親がやるごはんづくりにも興味を持つようになるのは自然な流れだったように思います。自宅に隣接している青果食料品店で忙しそうに仕事に追われ家事に手がまわらない母を助けて、料理の準備をしたり洗いものをしたりするようになったのが中学生のころです。

 

そうそう、関係ない話ですが思い出しましたので。幼稚園児〜小学生低学年のころにままごと遊びをよくやって仲がよかったその同級の女子ですが、あるとき父に「もうあの子と遊んじゃいかん」と言われたことがあります。当時はどうしてなのか?なぜそんなことを言われるのか?1ミリも理解できなかったんですが、どうやらその女子は被差別部落出身だったようです。

 

ぼくは意味がわからず、わかってからはこのことで父に激しく抵抗・抗議するようになり。だいたいにおいて合理的で知性的なものの考えかたや発言をするタイプだった父なのに、こんな理不尽な部落差別を言うのかと思うと、ほんとうにガッカリし立腹もしました。

 

ぼくが大学生になってからも、父は「ああいった(被差別部落出身の)女性とは結婚しないでくれよ、それだったらまだ黒人のほうがマシだ」と、ぼくに面と向かって明言したことがあります。部落差別なだけでなく黒人差別でもあるし、そのとき表立ってはなにも言いませんでしたが、結婚相手を決めるときはこんな差別主義者の父になんか相談せずにおこうと内心固く決心しました。

 

関係ない話でした。料理と性別。とにかく家庭において男性は家事関係をなにもやらなくていい、それは女性の仕事であるから任せておけばいい、協力する必要もないっていう、なんというか封建的・差別的な考えは、しかしいまだに根強く社会の骨の髄まで染み込んでいて、なかなか抜くことのできないものなのかもしれません。

 

インスタント・ラーメン一個も満足につくれない男性というのがわりといるんだっていう、これは実を言うとぼくの上の弟がそうでした。その息子(ぼくの甥)に「男子厨房に入るべからず」などと言って育てようとしていたという話を知り、ぼくとはケンカになったこともありました。ぼくなんかずっと厨房に入りびたっている人生ですからねえ。

 

そして、これは女性(妻、母)の側もあえて甘受してきたことでもあります。それが女性の役割、本来の生きがいなのであると思い定め、ひたすら尽くすことで一種の自己実現を達成するというような生きかたをしてきた女性も多いように見受けられますからね。

 

もちろんどんな生きかたをしようとそのひとの自由なんで好きにすればいいことですが、なんらかの(社会や歴史や共同体が押しつける)固定観念にしばられて奴隷状態のようになり、むしろ積極的に奴隷であろうと、そこに生きるすべを見出しているというなら、ちょっと考えなおしたほうがいいのかもしれないと思うことだってありますよ。

 

もちろんたんにぼくはこども時分からの料理好き、家事好き人間だったので、そういう人生を送ってきて不自由がなかったというだけの話ではあります。だって、料理って楽しいもんね。AとBを混ぜてC分間加熱するとDができあがります、っていう、まるで理科の実験じゃないですか。理科実験好きだった男性はみんな料理向きだと思っちゃうんですけれども。

 

あ、ぼくはずっとひとりなんで、だれかおいしいと言って食べてくれるひとがいるからそのためにがんばって料理するということではありません。どこまでもひたすら自分のため、ひとりでつくってひとりで食べて、つくっている段階から楽しいし、おいしく食べ終わって満足っていう、そういう人間です。

 

そんなこんなに性別はまぁ〜ったくなんの関係もないんで、だから「料理男子」って言わないで。

 

「美容男子」っていう偏見もありますが、またの機会に。

 

(written 2021.10.22)

2021/08/30

音楽家は音で勝負だ 〜 パトリシア・ブレナン

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https://www.youtube.com/user/VibesBeyond

 

YouTubeでパトリシア・ブレナンのヴァイブラフォン(やマリンバ)演奏シーンを観ていると強く印象付けられることがあります。演奏内容は発売されているアルバム『Maquishti』録音の際のセッションそのままが多いんで新味はないですが、もっと違う部分、つまりパトリシアのルックスが印象に残るなということなんです。

 

きれいだとか美人だとかきらびやかだとかいう意味ではありません。まったくその逆で、パトリシアは外見をいっさい飾らない演奏家なんですよね。髪型もテキトーだし、フェイス・メイクなし、アクセサリー類はまったく着けず、服装だってシンプルな素っ気ないものです。

 

しかしそんな姿で奏でられるヴァイブラフォン・サウンドはこの上なく美しいんですよねえ。これはあれです、「音楽家は音で勝負だ」という透徹した姿勢の表れなんじゃないかとぼくは解釈していて、だからこそいっそうの好感を抱くんですよね。いさぎよいというか、ルッキズムを徹底排除したところに自身の音楽があるという覚悟でしょう。

 

性別問わず歌手や演奏家も、ライヴ・ステージなどで、あるいは動画撮影などする際も、ある程度はルックスを気にするもんじゃないでしょうか。顔のつくりじたいは変えようがないけどメイクでけっこう化けられるし、髪型や服装など気を遣って、それで見た目の印象がよくなるように配慮していると思います、ほぼ全員。

 

ところがパトリシアにはそういった部分がまったくなく。もちろんまだライヴ・ステージにナマで接したことはないんですけれども、YouTubeにもライヴ・シーンがちょっとだけ上がっているし、スタジオ・セッションの際の演奏シーンでも、こんだけまったく外見を飾らない演奏家って、かなりまれなのではないでしょうかねえ。

 

それゆえに、ちょっと人気が出にくいという面もあるかもしれません。ましてや女性ですしね。まだまだ世界ではルッキズムがある程度、いや、かなり、幅を利かせているというか、特に女性歌手、演奏家に対してはですね、かわいかったり美人がいいだとかきれいな衣装を着るべきだとか、さまざまに言われるじゃないですか。

 

しかしですね、真の勝負要素は演奏内容、音です。歌手なら声。それこそが音楽家の「命」ですよ、どんなサウンドを出せるかが。パトリシアはそこにこそ全力を傾注しているように、YouTube動画を観ていると感じるんです。音楽家として、徹底して音にだけ真摯に向き合おうっていう、そういう姿勢が鮮明に読みとれて、ぼくなんかは強い好印象を持ちますね。

 

もともとSpotifyで(CDやレコードはまだ買っていない)でできあがった音楽だけ聴いていたころから大ファンでしたけど、YouTubeで動画をいくつも観るようになってからは、こんな理由でもっとさらにファンになりました。音楽家はルックスじゃない、あくまで音で、音だけで、勝負するもんなんだという、そういうパトリシア・ブレナンの真面目な態度や信念が全開になっているように思えます。いいことですよねえ。

 

(written 2021.5.9)

2021/07/12

配偶者をどう呼ぶか

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2021年7月現在、日本では同性婚が法的にまだ認められていないため、結婚というと男女間に限定されてしまうわけですが、夫なり妻なりを(第三者に紹介するときや言及するときなど)どう呼ぶか?というのはむかしから話題になってきたことですし、近年はジェンダー問題への意識の高まりを受けて、また違った角度からとりあげられることも多いです。

 

ぼくも以前結婚していたことがあって、その時代、パートナーはぼくのことを第三者に紹介するとき「同居人」と言っていました。知り合いでも初対面の相手にでも、どんな場面でもどんな相手にでも、例外なく。それが1990〜2010年代の話で、ぼくもそれを違和感なく受け止めていました。

 

ぼくのほうは「妻」と言えるときはそう言っていたのですが、言えないときというのは、ぼくは吃音者ですから、「ツマ」の「ツ」が難発で出ないことがときどきあって、その際はとっさの言い換え(吃音界隈で「回避行動」という)で、不本意ながら別の発音しやすい用語を使うこともありました。でも、気持ち的には常に「妻」と言いたかったのです。

 

でも、いまやその時代にさかのぼって当時の話をする際には、もはや「妻」ではなく「パートナー」と言うようになっていますけれど。

 

もちろん夫婦間でおたがいをどう呼ぶか?というのは、それぞれの関係に応じて好きにすればいいことで他人が口をはさむことではありません。夫婦間だけでならばね。でもその場に第三者がいたり、紹介したり、言及したりなどするケースとなれば、自分たちのあいだではこう呼んでいるから、という理屈だけでは通らないのではないでしょうか。

 

そういったケースでは、近年「主人」「旦那」、また「家人」「家内」「女房」などといった呼称が徐々に使われなくなってきているんじゃないかという実感があります。ほかの家族や夫婦としゃべったりする機会が激減していている単身者のぼくでもそうなんです。他人の妻を「奥さん」「奥さま」、他人の夫を「ご主人さん」「旦那さん」ということも減ったと思います。

 

ちょっとことばの種類がズレるんですが「嫁」。西日本人、特に関西人はよく使いますよね。これはしかしことばの意味としては配偶者の親(しゅうと、しゅうとめ)が息子の配偶者を呼ぶときのタームですから、夫自身が妻を「嫁」とか「嫁さん」とか紹介するのは間違っています。習慣的に定着している文化圏もあるとはいえ。

 

さらに「嫁」ということばには、結婚したら女性は男性配偶者の家に入るものだという旧民法の発想が残っています。実際、第二次大戦後に新しい民法が制定されるまで、結婚は嫁入りでした。イエにしばられる 〜 もはやまっぴらゴメンな発想なので、この意味でも「嫁」ということばは聞きたくないですね。「入籍」も同様に大嫌いなことば。

 

現行民法下では、婚姻届を提出して受理されると、夫婦ふたりだけの新しい戸籍がつくられる、それで新しい独立した一個の世帯になるわけで、したがって結婚とは、夫婦とは、男女が平等の立場で二人で結びついて新生活をはじめるということなんですから、嫁とか入籍とかっていうタームは歴史的用語としては残っていくでしょうが、現在進行形では聞きたくありません。

 

そう、男女間の関係や認識の変化というか、主従関係、支配/被支配関係じゃないのだ、夫婦は、という認識がひろまりつつあって、法律的には日本国憲法と戦後民法でそれがすでに確立していたわけですけど、現実の日本社会における変化は、この21世紀になってようやく、といった感じで訪れつつある、男女は、夫婦は、対等・平等なのであるから、呼称もそれにあわせていきたいという動きが大きなものになってきているんでしょうね。

 

特に女性からの声として、「『旦那』という呼び方が好きではない」「『ご主人』という呼び方にはかなり抵抗がある、『旦那さま』も無理」など、「主人」「旦那」という言葉への違和感が強く表明されるようになってきているし、「現代にそぐわない」「主従関係があるわけじゃないのに」といった考えがその根底にあるように見受けられます。

 

結婚したら、妻は夫の言うことに従うべきだ、夫のために尽くすのが妻のツトメである、外に出てもいけない、働きに出るなんて論外である…なんていう時代が戦後も長く続きましたし、家のなかにしばりつけられて不自由でつらく苦しく歯痒い思いを、女性は長年味わってきたというその歴史が、いまになって噴出している、長年の怨念がいまになって表面化している、という気もします。

 

ちょっと時代遅れのことばになりますが、熟年離婚なんていうことがよく言われたりするのも、同じ流れでしょう。家庭で耐え忍びに耐え忍んできた妻としても、その長年の蓄積が、夫の定年退職あたりをきっかけに一気に爆発する、といったことがあったと思います。

 

考えてみれば、戦後だけでなくもっとずっと前から、結婚生活において妻の側だけがずっと忍耐を強いられてきていたわけですからね。

 

21世紀になって、男性配偶者を旦那とも主人とも呼びたくないという妻の気持ちがムーヴメントのように表面化しているのは、だからぼくなんかにはとってもよく理解できることです。男女の性役割についての見方も確実に変わってきているでしょう。

 

ですので、男性配偶者の側だけがいつまでも家人だの家内だの嫁だのという表現を使い続けるのにも、個人的には非常に大きな抵抗を感じます。もっと理念と現実にそくした、対等な、ニュートラルな、タームを使うようにすればいいのにな、と思っちゃうんですよね。

 

ぼくが他人の配偶者のことを(その当事者がその場にいるにしろいないにしろ)どう呼ぶか?というと、最近は「パートナーさん」ですね。「配偶者さん」でもいいんですけどこれはちょっと法律用語くささがある。SNSを中心に「夫さん」「妻さん」も拡大しつつありますが、以前から言っていますようにジェンダーを明確化する用語をふだんから極力使いたくない気持ちがあるので。

 

お連れ合い、お連れさん、みたいな表現でもいいですね。そういえば(法律的には日本でまだ認められていないけど)同性婚当事者のばあい、パートナーのことを双方とも「ツレ」と呼ぶことが多いように見受けられます。これもジェンダーを表面化させず、さらに力関係に上下差を感じさせない、いい表現ですね。

 

現実的にぼくがまたもう一回結婚するなんてことはありえないのですが、他人の夫婦(異性婚カップルであれ同性婚カップルであれ)の相方のことをどういうふうに呼ぶか?という問題は、自分のジェンダー意識、夫婦観、男女観、ひいては社会意識が問われる重要局面であると思っていますからね。

 

(written 2021.7.10)

2021/06/18

単数のthey

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(6 min read)

 

もちろんみなさんとっくにご存知でしょう、ジェンダー・フリーな単数のthey。英語辞書で有名なアメリカのミリアム・ウェブスター社がこれを「今年の単語」に認定したのは2019年のこと。そのころにはもうすっかり定着したものだったとみることができますね。

 

ウェブスター英語辞書の最新版では、この単数のtheyは

 

「自分の性別をノンバイナリーと認識している単一の人物」
(used to refer to a single person whose gender identity is nonbinary)

 

と定義されています。

 

ノン・バイナリー、すなわち男性/女性の二分的発想になじまない性自認であればだれでも使うことのできるこのthey。また、たとえば自分は明確に女性(男性)だけれども、男女二元論にもとづかない生きかたをしている、だから私の代名詞はtheyだ、と言うこともできると思います。

 

ぼく個人がこの単数のtheyを知ったのは2017年ごろでしたか、もっと最近か、イングランドのシンガー・ソングライター、サム・スミスが「自分を表す代名詞は they だ」と発言したことによるものだったように記憶しています。

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ちょうどそのあたりから、特にSNS、なかでもInstagramで、自分の代名詞はthey/themであると表明する人物が増えてきて、定着したんじゃないかという気がするんですね。そこから数年で権威ある英語辞書の定義にも載るようになったということで。

 

新用法ではあるんですが、しかし「単数のthey」じたいは実はかなり古くから存在したものです。複数のtheyが登場して約100年後の14世紀には出現例が確認されているものなんですね。先行詞が鮮明でなかったり、あるいは出生時性別判断前の人間を指すときに使ったり、また性別がはっきりしない、特定できない状況などで使われてきました。

 

有名なところではウィリアム・シェイクスピアやルイス・キャロル、ジェイン・オースティンも作品中でこの単数のtheyを使っている文例がありますが、近年は男女平等を推し進めるという観点から、すべての三人称代名詞をhe or sheなどと書くのが煩雑であるというところでtheyひとことで代用する動きも出てきていました。

 

おそらく、この男女平等を意識した性別不問の単数のtheyの用法からさらに一歩進んだものとして、主に21世紀に入ってからLGBTQ、つまり性的マイノリティへの配慮と権利運動のひろがりにより、男性でも女性でもないという性自認を持つ個別のひとについて使われる三人称単数形の代名詞theyがひろまったものと思われます。

 

日本でも履歴書から性別欄をなくそうという動きがひろがっていて、実際、各社の履歴書フォーマットから消えつつあるようで。それはLGBTQへの配慮ということもあるし、また女性とわかっただけで就職で不利な扱いを受けたりなどの性差別をなくそうという意味もあります。

 

he / sheという男女二分法で自分を表すことに心地の悪さを感じてきたLGBTQのひとびとの主張からひろがって、一種の流行語のようになったこの単数のthey。Instagramなどでさまざまなひとたちの投稿を見ていると枚挙にいとまがないというほど個人的には頻繁に目にするようになりました。

 

ウェブスター英語辞典では、一つの文例として

 

This is my friend, Jay. I met them at work.

 

というのを載せています。him(彼)やher(彼女)ではなくthemという男女共通の代名詞theyの目的格を使って話を続けるという方法です。

 

こういう言いかたであれば、自分を男性でも女性でもないと認識しているジェイさんにとっては、性別を勝手に決めつけられることなくジェンダー・ニュートラルなかたちで自分を紹介してもらえますし、その紹介を聞いたかたは、ジェイさんはノン・バイナリーなのだなと察することができるわけです。

 

こうした単数のtheyに続く動詞は、従来どおりare、haveなど複数形を用いるというのが現在のところの一般的な用法です。代名詞は単数なんですけれども動詞は複数形。ここはひょっとしたら将来is、hasなど単数形の動詞があてはめられるようになっていく可能性があるかもしれません。

 

ぼくは学校の英語教師でしたが、このノン・バイナリーな単数のtheyを教室で教えるといった場面に遭遇したことはありませんでした。どんな英語教師も将来的に教科書などに載るようにもなってくれば必然的に教えることになるでしょうけれども、まだ先の話かなあという気がします。

 

ただ、いまは特に学校などで用いるようなたぐいの(典型的な)教材でなくとも、生きた英語に接する機会は、それこそぼくがきょうInstagramなどSNSとくりかえしていますように、いくらでも生活のなかにあふれていますから、学習者がノン・バイナリーな単数のtheyに触れて、自分も使ってみたいと思う可能性はじゅうぶんにあると思います。

 

そのとき、こうした英語の新常識を知らない学校の教師や職場の上司が、生徒や部下が書いた「単数形のthey」を使った英文を間違いとして減点したり書き直してしまったりするようなケースが起こるのではないかという危惧もありますね。

 

今後、英語の学力試験などでこうした「単数形のthey」をどのように取り扱うのか、正解/不正解の明確なスタンダードを決めて周知を図る必要があるのかもしれません。もちろんことばですから、現実に使われている用法について正/誤の判断など無意味ですけれども、教育にたずさわってきた人間としてはどうしても気になるところ。

 

ただ、言えることはですね、すでにお気づきとは思いますが、最近のぼくはふだんの記事で「彼」「彼女」といった代名詞を極力避けるようになっています。当該の歌手や音楽家の性別に関係なくそうしているんです。っていうか性別なんてわからないし、そもそも女性的/男性的な外見でも、ヴォーカリストの声が女声的/男声的であっても、そのひとのジェンダー・アイデンティティ(性自認)がどうなのか、知らないわけですからね。

 

(written 2021.6.15)

2021/06/09

女優?俳優?

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(5 min read)

 

以前、AKB48出身の秋元才加がこんなツイートをしていました。「女優」っていう表記よりも、自分のばあいは「俳優」と言ってほしいと。
https://twitter.com/akimotooo726/status/1379258403541774341

 

この秋元の発言にぼくは100%共感します。そう、いまやそういう時代ですよね。男性/女性の区分にあまり意味がないフィールドでは、それをあえて分けなくても、女性ということをことさら強調しなくても、いいんじゃないか、むしろ言わないほうがいいんじゃないかっていう気がします。

 

もちろん俳優業だけでなく、歌手や音楽家の世界でも、そのほかどんな業種でも、「女性〜〜」「女〜〜」「女流〜〜」という表現に強い違和感を感じるようになっているここ数年のぼく。男性なのにね。でもホント、特に意味のない場面で性別を、特に女性ということを、前面に押し出すのは、性差別的だと思うんですよね。

 

そういえば、保母という表現はいまや消えて保育士になったし、看護婦とも言わなくなって看護師、スチュワーデスと言わずにキャビン・アテンダント。これらは従来女性だけが担当する仕事だったところに男性も増えてきたということで、ジェンダー・ニュートラルなことばを使うようになった例ですね。

 

そのへんのジェンダー的なことを、なるべくフラットに考えてフラットにとらえたいっていうか、そもそも女/男の二分発想も時代に合わなくなってきていると思いますし、それに音楽やお芝居など芸能の世界では、そのへんクロス、トランスしているひとも多く、性別分けなんか無意味ですよね。

 

社会における女性は、いままで男性から特別な目で見られることも多かったと思います。俳優とか歌手とかの専門職でも、一般事務職などでも、仕事をこなせるかどうかで判断されるべきなのに、なぜか女性だとその事実を前面に押し出して、特定の役割を押し付けたりすることがあったんじゃないでしょうか。いまでもかなり多くの場面でそれが残っていると思います。

 

本質的に性差が重要になってくるのって、実はたぶんスポーツ競技くらいじゃないかと思いますし、それ以外では女性的、男性的ということをことさら言わずに済むような社会が来るといいなあって、心からぼくも思っていますね。社会が女性に一定の固定的・差別的役割を強制したり(家庭とか家事とか)しない日が来てほしいです。

 

男女をなるべくフラットに、ニュートラルに、平等に考えたいということです。そこに支配/被支配関係や主従関係はないので、たとえば最近は育児専門雑誌などでも「主人」「旦那」という表現をしなくなっているようですが、これらは夫のほうが上であり支配者であるという(無意識裡にであれ)発想にもとづくものだったわけですからね。

 

女性結婚相手を「嫁」と呼ぶこともそうだし、東ちづるも最近「お嫁さんにしたい女性芸能人」と言われてきたことにずっと違和感を抱いてきたと発言していますし、対等な関係を損なうような表現はなるべく避けたいと。東は夫婦間ではその合意ができていたそうですが、社会やマスコミがいまだそれを強要するのに違和感があるんでしょう。

 

東京ディズニーランドや航空運輸各社も「Ladies and Gentlemen」の呼びかけはもうやめたそうで、「Hello Everyone」にしているとのこと。性差を強調したくないし、性的マイノリティの尊厳を守ろうという動きも鮮明になってきていることですし、こういうのは表に出てきている部分では歓迎すべき動きだと思います。

 

社会一般のみんなのあいだでは、なかなかそう急に意識が変わるもんじゃありませんが、各企業や有名芸能人などオピニオン・リーダー的な役割を持つひとたちが率先してこういう言動を取っていけば、徐々にですね、保守的な日本社会も変化していくのではないかと、ぼくはひそかに期待しています。

 

目立つ、発言する女性を(女性だからという理由だけで)攻撃する男性はまだまだ多く、きょういちばん上で引用した「女優ではなく俳優と呼んで」という秋元才加の四月のツイートにも、ずいぶんネガティヴでアグレッシヴなリプライがついたようで、まだまだ状況が改善するのに時間がかかるかなと思えるフシもありますけどね。

 

でもちょっとづつちょっとづつ、社会は変わりつつあります。

 

(written 2021.6.8)

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