カテゴリー「学校」の4件の記事

2023/08/20

学校の宿題はやらなくていい(再掲)

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(6 min read)

 

学校の夏休みも終盤ということで、そうじゃなくても一年中ずっと言えることなんでいつ読んでいただいてもいいですが、学校で教師が生徒に課す宿題なんて、やってもやらなくてもどっちでもいいんですよ。ストレスに感じるならやらないでほしい。

 

現実問題、宿題をやっていかなくたって不利益はなにも起きません。違法じゃないし、倫理的に問題でもなく、逮捕されないし、「ほんとうに」なんにも起こらない。ただちょっと教師に「なんでおまえはやらんのか」とかブツクサ言われるだけ。成績が低下するか?というと実はそれもないので、要するになにもない。

 

それだったらイヤなものを無理してやることないんですよ。このことを、長年現場の学校教師だったぼくは声を大にして言いたい。宿題やらないのは悪いことじゃない。

 

むしろムリヤリの宿題は生徒の心身をしばる負担になるだけで、だからつまり教育的効果なんてありません。このことを学校教師自身もこども時分に身をもって痛感していたはずなのに、自分が教師の立場になった途端に命令権でも得たかのようにふるまうのはおかしいでしょうよ。

 

そう、教師なんて権力じゃないし、生徒にあれこれやらせる強制力なんてちっともないのです。親にだってないんですから、ましてや他人をや。

 

宿題をやらず教師に小言をもらっても、そんなもん「はい、すみません」と頭上を通り抜けていくように右から左へと流しておけばそれでいい。性格の悪い教師だと職員室などで長時間拘束し(そんな権利も本来ないわけですが)いつまでもごちゃごちゃ言うかもしれませんが、生徒側に非はありません。

 

そもそも学びは楽しくなくちゃ、やりたいと思ってすすんでやるんじゃなくちゃ、効果ないです。ムリヤリの強制はなにごとも逆効果。そして、生徒・学生時代はなぜ学んだほうがいいのか、どういういいことがあるか、なかなか納得理解できないもの。

 

もちろん勉強するという営為じたいが楽しくて快感でやめられないという人間(が実はそこそこいて、学者になったりする)はほっといてもやるんですが、生徒・学生のマジョリティはそうじゃないですからね。遊べるもんなら遊びたいと思っているでしょう。

 

それでいいとぼくは思うんです。好きなこと、やりたいことをやればいい。それが野球だったらそれでOKだし、野球ばっかりやった結果イチローや大谷翔平みたいになれるかもしれないんですからね。

 

そういえば思い出しました。イチローは小学生のころ、だれにもやれと言われていないのに自分がやりたくて、すすんで毎日八時間ものバッティング練習を欠かさなかったそうです。好きでやり放題やった結果があの米メイジャー・リーグの歴史にも名を残すほどの存在だというわけです。

 

学校の宿題というか勉強、学習もそんなふうじゃなくちゃ。学習者みずから課題を見つけ、なにがわからないのか、そもそもそれがわかるようにするためにはなにを使ってどこをどう調べればいいか、という根本からすすんで自分で興味をもって見つけていくようにする環境づくり、背中を押すことこそ、教師の仕事です。

 

それなのに、この問題集のここからここまで解いてこい!みたいな押し付けじゃ、やりたい気は起きませんし、取り組まなくちゃと思うだけでそもそも苦痛で、であるがゆえに学力向上には結びつきえません。これが「宿題」というものの実態でしょう。

 

このまま変革できないなら即刻学校から宿題を廃絶追放したほうがいい。

 

それができないから(上司から言われたり文科省の指導があったりで)、生徒のほうからすすんで放棄すればいいと言っているんです。やりたい生徒だけやったらいいんで、全員一律の同一課題強制は軍隊的で無意味かつ理不尽。放棄しても困ることはなにもないし、自分が読みたい本を楽しくどんどん読んだりしたほうがずっと滋養になります。

 

小学校から高校まで(大学と大学院では宿題出なかった)、学期中でも長期休暇でも、いっさいの宿題をまったくやらずにすごし教師の小言を無視してきて、それでみずから宿題を出さない教師になったぼくの痛切な実感です。

 

(written 2022.7.24)

2022/12/09

給食がぼくのトラウマだった

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(3 min read)

 

高校生になったら昼食はお弁当になりましたから悩みから解放されたんですが、小中学校のときは強制的に給食で、ぼくは偏食人間だったからお昼ごはんタイムが憂鬱でした、毎日。食事って楽しいもののはずなのに、つらかった。

 

なにが食べられなかったの?なんて、そ〜りゃとにかくいっぱいあったから説明なんてできません。とにかくとんでもない偏食人間でした(いまはちょっとマシになっていると思う)。だれでも多少食材や味つけの好嫌はあると思うのに、学校価値観の世界では<偏食 = ダメ、許されない>となってしまいます。

 

献立表があってあらかじめ決まった固定メニューを必ず残さず食べなくてはならない、食べなかったらその日の昼食は抜きということになってしまう学校給食の世界ってなんなのか?小学生なりに不思議というかある種の理不尽さ、不条理を感じていました。

 

あんなにも給食タイムが苦痛だったのは、食べられないものが多く出たからっていうことより以上に、なにより小学校時代の担任教師の給食指導法に大きな原因がありました。いま考えたら指導や教育でもなかったと思うんですが、強く叱られて、食べないお皿を手に持たせ教室の後ろにずっと立たせるんです「食べるまでそのまま立っていろ」と言って。

 

ときどきは他クラスの生徒にも見せつけるように(すっかり冷えたお皿を持ったまま)教室の外の廊下に立たせ、午後の授業に参加させてもらえず、放課後になってみんなが下校しても帰してもらえず、じっと立たせたままだったりもしました。お皿じゃなく水の入ったバケツを持たされたことだってあります。おかしいでしょう。

 

ぼく世代が小学生のころは、旧日本軍式で育った年配教師がまだ残っていて、そんなやりかたがひろく学校現場で行われていましたよね。前段で書いたような方式がそうなんだというのは小中学校も卒業してのち、テレビ・ドラマとかで戦中事情を描いたものを見るようになって、「あぁこういうことか」と理解するようになったからです。

 

そんな懲罰方式で苦手なものを食べられるようになるわけもなく、ってかそもそも偏食って大人になってからですらだれかに指導されてなおるものなんかじゃないし、だれだって多少の偏食はあるし、ぼくはその程度がひどくきわだっていたんで目をつけられていたんですけど、だから学校給食というシステムじたいが非人間的でしょうね。

 

飢餓状態にあっても口をつける気にならないものを、いくらおいしいからと周囲に言われても、教師にどんな指導をされても、食べられるようになんかなんないです。歳を重ね食の嗜好が変化したので、ナチュラルに偏食傾向が自動修正されるようになってきているのであって、学校における押しつけ教育はほんとうによくない。

 

(written 2022.11.12)

2022/11/20

浮きこぼれ

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(5 min read)

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/7bee2e0bc1f4be2757d6deecd6cec0193ad4d8ea

 

ということばを、昨晩ネットをぶらついていて初めて知りました。よく知られている落ちこぼれの対義語で、学力がとても高いがために学校の教室で浮いてしまい、教師から(なぜか)怒られたりクラスメートからいじめられたりして強い違和感を持ち、学校から遠ざかってしまうケースを言うようです。

 

こうしたことは、指し示すことばこそなかったものの、むかしからあったとよく知られているはず。そして、だれよりこのぼくがほかならぬ浮きこぼれだったのです。特に学力が急速に伸びはじめた中学生のころから、不登校にはならなかったものの、なんだかクラスで自分だけ「かなりヘン」だぞと感じていました。

 

飛び級したり10歳くらいで難関大学に合格したりするこどものニュースが世界にはたくさんありますから、めずらしい事象でもないのでしょう。勉強が心から好きっていうこどもはいつでもどこにでもいて、楽しくてしかたがないのでどんどん自分で進んで学ぶ結果、そうでもない周囲(incl.教師)からは「こいつオカシイぞ」と見られるようになってしまいます。

 

ついてこられないのが落ちこぼれですが、進みすぎてもうとまれるというわけで、だいたい小中学校時分ってスポーツができると羨望の的なのに、学力が高すぎるばあいは異端視されるんですよね。だれも頭抜けずみんな同じくらいの平均を揃って維持している状態こそが望ましいとみなす日本の学校教育システムに原因の根本があります。

 

つまり、学習能力や進度ってひとりひとりバラバラなんだから、数十人を一箇所に集めて一斉に同じ授業を受けさせるという方式がそもそもよくないわけです。それでもなぜだか学校は行かなくちゃダメだということになっていることにあまりだれも疑問をいだいていないですよね。

 

じっさいぼくも、特に中学の英語と数学の授業は正直言ってかなり退屈でした。こっちはそんなこととっくにわかっているし充分理解実践できているのに、どうして教師がそこまでていねいに説明を尽くさなければならないか、それなのになぜみんなわからないのか、納得できずイライラするというのが本心でした。両教科ともテストはつねに100点でしたし。あんな簡単なもん、100点以外とりようがないってもんです。

 

しかも中間とか期末とかのテスト時間って45分だったか50分間あるわけで、最初の10分ほどで解答と見直しがすべて終わってしまうから、残りの時間やることがなくひたすらガマンで、中途外出も認められなかったから、紙の余白に落書きして遊んでいましたよねえ。時間が来たらそれを消しゴムで消すっていう。入試でもそうでした。

 

出題パターンというかヴァリエイションがすべて読めちゃっていたわけですから。学校の授業やテストはイージーすぎて退屈でしたけど、それを土台に自分でどんどん先へ進むのはめっちゃ楽しくて、塾は行かなかったんですが、参考書や問題集を買って自宅でやっていました。

 

中学三年のときには高校生用の英文法書を熟読して英英辞典を引いていて、それをうれしげに職員室へ持っていって英語教師に見せると、お前すごいな!とビックリされながら同時に「あんまり一人で先へ進みすぎるな」「点取り虫と言われるぞ」とか注意されたりもして、意味がわからずひたすら??マークが浮かんでいました。

 

そして、学力が高すぎるがため教師や生徒にヘンな目で見られたりなにか言われたりして疎外感を持つというのは、実は在校時代だけの話。社会に出たらすばらしいっ!と言われ褒められるだけで、やりすぎだと注意されたり怒られるなんてことはありません。どんどん学んでおいてよかったぁと実感することばかり。

 

学校時代にしか経験しない違和疎外フィールなんですから、上でも書きましたがやっぱり学校システムじたいに問題があるんだとしか思えませんよ、落ちこぼれや浮きこぼれは。

 

(written 2022.11.15)

2022/07/26

学校の宿題はやらなくていい

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学校が夏休みに入ったということで、そうじゃなくても一年中ずっと言えることなんでいつ読んでいただいてもいいですが、学校で教師が生徒に課す宿題なんて、やってもやらなくてもどっちでもいいんですよ。ストレスに感じるならやらないでほしい。

 

現実問題、宿題をやっていかなくたってなにも起きません。違法じゃないし、倫理的に問題でもなく、逮捕されないし、「ほんとうに」なにも起こらない。ただちょっと教師に “なんでおまえはやらんのか” とブツクサ言われるだけ。成績が低下するか?というと実はそれもないので、要するになにもない。

 

それだったらイヤなものむりしてやることないんですよ。このことを、長年現場の学校教師だったぼくは声を大にして言いたい。宿題やらないのは悪いことじゃない。

 

むしろムリヤリの宿題は生徒の心身をしばる負担になるだけで、だからつまり教育的効果なんてありませんから。このことを学校教師自身もこども時分に身をもって痛感していたはずなのに、自分が教師の立場になった途端に命令権でも得たかのようにふるまうのはおかしいでしょう。

 

そう、教師なんて権力じゃないし、生徒にあれこれやらせる強制力なんてちっともないのです。親にだってないんですから、ましてや他人をや。

 

宿題をやらず教師に小言をもらっても、そんなもん「はい、すみません」と頭上を通り抜けていくように右から左へと流しておけばそれでいい。性格の悪い教師だと職員室などで長時間拘束し(そんな権利も本来ないわけですが)いつまでもごちゃごちゃ言うかもしれませんが、生徒側に非はありません。

 

そもそも学びは楽しくなくちゃ、やりたいと思ってすすんでやるんじゃなくちゃ、効果ないです。ムリヤリの強制はなにごとも逆効果。そして、生徒・学生時代はなぜ学んだほうがいいのか、どういういいことがあるか、なかなか納得理解できないもの。

 

もちろん勉強するという営為じたいが楽しくて快感でやめられないという人間(が実はそこそこいて、学者になったりする)はほっといてもやるんですが、生徒・学生のマジョリティはそうじゃないですからね。遊べるもんなら遊びたいと思っているでしょう。

 

それでいいとぼくは思うんです。好きなこと、やりたいことをやればいい。それが野球だったらそれでOKだし、野球ばっかりやった結果イチローや大谷翔平みたいになれるかもしれないんですからね。

 

そういえば思い出しました。イチローは小学生のころ、だれにもやれと言われていないのに自分がやりたくて、すすんで毎日八時間ものバッティング練習を欠かさなかったそうです。好きでやり放題やった結果があの米メイジャー・リーグの歴史にも名を残すほどの存在だというわけです。

 

学校の宿題というか勉強、学習もそんなふうじゃなくちゃ。学習者みずから課題を見つけ、なにがわからないのか、そもそもそれがわかるようにするためにはなにを使ってどこをどう調べればいいか、という根本からすすんで自分で興味をもって見つけていくようにする環境づくり、背中を押すことこそ、教師の仕事です。

 

それなのに、この問題集のここからここまで解いてこい!みたいな押し付けじゃ、やりたい気は起きませんし、取り組まなくちゃと思うだけでそもそも苦痛で、であるがゆえに学力向上には結びつきません。これが「宿題」というものの実態でしょう。

 

そのままなら即刻学校から宿題を廃絶したほうがいい。

 

それができないから(上司から言われたり文科省の指導があったりで)、生徒のほうからすすんで放棄すればいいと言っているんです。やりたい生徒だけやったらいいんで、全員一律の同一課題強制は無意味。放棄しても困ることはなにも起きないし、自分が読みたい本を楽しくどんどん読んだりしたほうがずっと滋養になります。

 

小学校から高校まで(大学と大学院では宿題出なかった)、学期中でも長期休暇でも、いっさいの宿題をまったくやらずにすごし教師の小言を無視してきて、それでみずから教師になったぼくの痛切な実感です。

 

(written 2022.7.24)

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