カテゴリー「演歌歌謡曲、日本」の108件の記事

2023/06/01

ヤバいよ溶けちゃうよ!〜 参加型中澤卓也コンサート in 大阪 2023.5.30は興奮のるつぼだった

Img_9034_20230601131201

※ 写真は中澤卓也公式Instagramより(白原翔太撮影)

(4 min read)

 

熱い熱い一夜でした。バンドはステージ下手がわから順にギター、キーボード、ドラムス、ベース、ギター。この五人をしたがえた卓也は18:00すぎの開演から約二時間半ノン・ストップで爆走。

 

卓也は常から自分のコンサートとかは観客参加型を推奨しているのであるということを現場でもさかんに発言していますが、この日もそうでした。コロナも5類になったということで、立ち上がったり踊ったり声出しもOK。なもんで観客もめいめい自由にのびのび楽しんでいた様子が印象的でした。

 

ぼくもはじけましたよ。最新シングル「陽はまた昇る」での幕開けに続き、続く卓也ファンにはおなじみの名曲「青いダイアモンド」ではや盛大なもりあがりよう。コロナ前までは常套だったサビでの「タ・ク・ヤ!」「タ・ク・ヤ!」」コールも復活。個人的には初体験でしたが、リズムにあわせ思い切り大声を出しました。会場みな一体。

 

従来曲と新作アルバム収録曲を適宜おりまぜながら、卓也とバンドの闊達な演唱で会場の熱気は昂まる一方。後半に入ると興奮は最高潮に達し「これ、このまま行ったらどないなっちゃうんやろう?!」と心配しちゃうほどの熱がありました。

 

中盤では「冬の蝶」「青山レイニーナイト」の二曲をヘッド・セットで歌いながら客席を練り歩きみんなと握手をかわすサービス・タイムあり。もちろんこうしたことは演歌歌謡曲歌手の常道ではあります。ぼくもしっかり手を握ってもらいました。その瞬間卓也はちょっとビックリしたような顔になりましたが、若い(若くないって!)男性客はめっちゃめずらしいのでしょうね。たしかにぼくだけでした。

 

ステージに戻ってからは幡宮航太のピアノ伴奏だけというデュオでカヴァーを二曲(なにをやるかは日替わりらしい)。そのうち2曲目にやった「化粧」(中島みゆき)は個人的に思い入れが強い歌なので、イントロに続き卓也が歌い出した瞬間に涙腺が崩壊してしまいました。

 

っていうかそもそもぼく、コンサート2曲目の「青いダイアモンド」ですでにウルウルきちゃっていたもん。なにぶん卓也の本格コンサートは初体験でしたし、ふだん自宅でこれでもかと聴きまくっていますけど、生姿生声であれやこれや聴いているんだって思ったらもうダメだった。

 

最終盤はステージと客席がぐつぐつに煮えたぎる沸騰ドロドロ火鍋状態になり、ヤバいよ溶けちゃうよ!観客総立ちになって最後に三曲やりましたが、本編ラストのラテン・ナンバー「江の島セニョリータ」では卓也も全員の客もビートにあわせてピョンピョン飛び跳ねながら右手に握りしめたタオルをグルグルまわし叫びまくるっていう。

 

客層の99.99%は年金受給者世代の女性だったんですが、ステージから卓也も「だいじょうぶですかムリしないで」と心配のことばを発するほどの状態で、完全にメーター振り切れちゃっていましたね。コロナ時代の忍耐辛抱から大阪メルパルクホールで一気に解放されみんないっしょにエクスタシーに達したような感じでした。

 

アンコールで二曲やったうち「ありがとうあなたへ」では撮影OKとなり、みんなスマホを出していましたが、ステージから卓也自身もスマホで客席の全員をぐるっと動画でおさめていました。翌日それがInstagramに上がりましたよね(11列目だったぼくもしっかり写っています)。

 

これで終わりだと思っても客席は明るくならず。下手ソデから今度は卓也ひとりがアクースティック・ギターをかかえてひょこっと姿を現し、ほんとうにラストのラスト「またね」を弾き語りで歌いました。

 

(written 2023.6.1)

2023/05/24

オフ・ビート・チャ・チャからドドンパへ 〜 浜村美智子

Img_8926

(4 min read)

 

浜村美智子 / Michiko Hamamura and the Bright Rhythm Boys of Tokyo
https://open.spotify.com/album/6tqHvgcRG6DOGdjE60y8fY?si=YWIjLPN-RQawR9G2Hu3MHQ

 

bunboniさんに教わりました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2023-03-29

 

これもオフ・ビート・チャ・チャの文脈で聴ける部分があるだろう浜村美智子がなぜか香港でレコーディングし当地のレーベルから発売されていた一作が、サブスクにもあります。CDリイシューのタイミングで載せられたのでしょう。

 

サブスクでみればアルバム題は『Michiko Hamamura and the Bright Rhythm Boys of Tokyo』(1961?)となっています。bunboniさんの記事にあるように正確な発売年はわかりませんが、だいたい60〜61年あたりなんでしょう。

 

このへんってオフ・ビート・チャ・チャの名作が(香港とかで)出ていた時期であると同時に日本ではドドンパが誕生しレコードが発売されるようになったあたり。日本に入ってきたオフ・ビート・チャ・チャがドドンパへ変貌したというのはウィキペディアなんかにも記載があることです。

 

香港録音の美智子のこの一作は、ちょうどその移行の中間期あたりの音楽性を持っているというのが率直な感想。基本的にはオフ・ビート・チャ・チャの曲が多くも、そのラテン・ビート・ルーツを如実に示す「Day-O」みたいなカリプソがあったり、それはでも当時たまたま流行していたものを歌っただけでしょうが、ちょっとおもしろいですよね。

 

日本の「さくら」はオフ・ビート・チャ・チャになっていますが、エルヴィス・プレスリーへのアンサー・ソング「Yes, I’m Lonesome Tonight」があって、それにかんしてはおだやかで静かなジャジー・ポップス、ラテン性はありません。

 

ところで横道にそれますが、エルヴィスってロックンロールのオリジネイターの一人と世間では認識されていて、ジャズが握っていたアメリカン・ポップスの主導権を奪った張本人なので(器の小さいセクト主義を持つ)こちらがわの一部からは嫌われているかもしれませんね。

 

でもこうした「アー・ユー・ロンサム・トゥナイト?」みたいな、「ブルー・ムーン」でも「ラヴ・ミー・テンダー」でも、バラードを歌うときのエルヴィスはロッカーというよりはその爆発前夜の甘い爛熟ジャズ・ポップス歌手に変貌していました。ナット・キング・コールあたりに近い感覚で。

 

いかにも初期移行期人物らしき双貌性で、そんなところアメリカン・ポピュラー・ミュージック史の流れを実感できるのがおもしろいじゃないかと、ぼくなんかはいつも興味深くエルヴィスを聴いていますよ。

 

それはそうと浜村美智子。10「Mack The Knife」はドドンパのリズム・パターンなんですよね。演奏は日本人じゃなくてセザール・ヴェラスコ&ヒズ・ソサエティ・オーケストラって、これはフィリピン人バンドか?というのがbunboniさんの推測。

 

いずれにせよドドンパは日本でだけの流行だったので、香港録音でフィリピン人?による伴奏がそうなっているというのはやや不思議。よっぽどドドンパ・ビートが好きで敏感なファンじゃないと気づきにくいかもしれません。でも間違いない。11「Island in the Sun」もちょっぴりドドンパっぽいです。

 

(written 2023.4.20)

2023/04/25

富井トリオ「恋の果て」は名曲

Itd1009693

(1 min read)

 

富井トリオ / 恋の果て
https://open.spotify.com/album/6eFdeDzaPMruwnbgogY7a6?si=lUsM-fUkSXW9-wkEHTUn1w

 

三月下旬にとみー(@1031jp)さんの全曲がサブスクに揃ったので、どうもご本人が入れたらしいんですが、聴きやすいようにさっそくすべてをまとめて一個のプレイリストにしておきました。
https://open.spotify.com/playlist/782p1pBukwxjgFQYXEq63Y?si=8ce483847d3149fd

Img_8226

これを流していてことさら耳を惹いたのが昨年12月リリースだった富井トリオ名義のシングル「恋の果て」。名曲でしょう。それくらい楽しく快適です、ぼくには。歌詞とは裏腹に陽気でアッパー、ほぼ浮かれている曲調だっていうのが大きな理由。

 

とみーさんらしいポップさがはじけているんですが、細部に至るまでていねいに練り込まれているなというのもよくわかりますし、さらにギター・トリオというバンドの一回性生グルーヴもしっかりあってヴィヴィッドだっていうのがいいですよね。ライヴで映えそう。メロディ・ラインも楽しい(特にコーラス終わりでの上昇)。

 

もうホントこればっかりSpotifyを一曲反復再生モードにしてくりかえしなんども聴いてしまいます。気持ちいいんだもん。そういうポップ・ロック・チューンですよこれは。インディーもインディー、とみーってだれ?という向きが多いでしょうが、「恋の果て」はどこに出しても立派に通用する傑作です。

 

(written 2023.3.31)

2023/04/13

逆境をバネに 〜 中澤卓也『HANDS MADE』

Fteldxnacaazmhe

(2 min read)

 

中澤卓也 / HANDS MADE
https://open.spotify.com/album/21ZiIK02YVLcHLIKURY1B7?si=OY_-at6CT0uFJuNQjh1Eug

 

中澤卓也の5/30大阪メルパルク・ホール公演に行くんですが、さきがけて新作アルバム『HANDS MADE』(2023)が4月12日に出ました。5.30はバンド・ライヴなので、やっぱりこの作品からの曲が中心になるんでしょう。

Img_0303

演歌のフィールドでデビューしてやってきた卓也ですが、独立後(インディー活動ともいう)はさわやかJ-POPっぽい路線を走っていて、新作『HANDS MADE』も同じです。全曲自身の作詞。作曲はレギュラー・バンドのメンバーですが卓也も一部でチャレンジしています。

 

アルバム題やジャケット・デザインがすでに手づくりを示していて、こういったことはレコード会社のサポートが得られなくなったせいではありますが、逆境をバネになんとか再起せんと懸命に奮闘している姿に接すると、全力で応援したくなります。そういう魅力が卓也の声にはありますよ。

 

重厚感のある1「SHOW TIME」ではじまって、続く2「Magical Summer」は軽やかに駆ける感じ。しっとりバラードをはさんでの4「Umbrella」は2/4拍子のレトロなスウィング・ジャズふう。ベースだってコントラバスが使われています。時流を読んだってことでしょうね。

 

さらに一曲おいての6「君の未来を願う詩」ではメロディ展開に沖縄音階フレーバーがほのかに香っていて、それもすれちがいざまにふわっと鼻をくすぐるだけのさっぱりした感じで、いいですね。

 

ラスト7「またね」はHome Recording Ver.とあるように、おそらく自宅で簡易に録音しただろうひとりでのアクースティック・ギター弾き語り。つくり込まない卓也の身近で親しみやすい素顔みが出ていて、「手づくり」というアルバムをしめくくるには恰好です。

 

(written 2023.4.12)

2023/04/06

羽をもがれた女性たちのための浄化の歌 〜 青田典子

51bf60tqz7l_ac_sl1080_

(3 min read)

 

青田典子 / Noriko’s Selection -Innocent Love-
https://open.spotify.com/album/45FjHBvKd4ZGD09VIzn1LE?si=5BZYgX7nTxSfSRQcdeC5Ag

 

リリースされたときTwitterのタイムラインで一瞬見かけた気がする青田典子の新作アルバム『Noriko’s Selection -Innocent Love-』(2023)。その後話題になっている気配もありませんが、心に訴えかけてくる作品だとぼくは感じています。

 

典子の歌手活動が熱心な音楽ファンやジャーナリズムにとりあげられることなんてないわけですが、ぼくはぼくでいいと感じたものを自分の気持ちに正直に、だれに遠慮も気がねもせず、書いていくだけですから。

 

それで今作『Noriko’s Selection』はカヴァー・ソング集、それも流行の80sシティ・ポップを意識したようなセレクションなので、オリジナル歌手たちを一覧にして以下にまとめておきます。

 

1 真夜中のドア(松原みき)
2 むくのはね(Kinki Kids)
3 眠りの果て(涼風真世)
4 駅(竹内まりや)
5 化粧(中島みゆき)
6 花束(中島美嘉)
7 たいせつなひと(安全地帯)
8 別れの予感(テレサ・テン)
9 微笑みに乾杯(安全地帯)
10 いのちの歌(竹内まりや)

 

ロスト・ラヴの歌ばかり集められています。典子自身の語るところによれば「(これらの歌に)向き合いながら友人たちが泣いている光景を何度目にしてきたことか」「聴きながら自分をヒロインに立て、慰め、浄化させることを私の同世代は誰もがしてきたんじゃないか」といった曲の数々。

 

だから(基本的に)女性目線の歌ばかり。以前からくりかえしますように日本では性別を超えて自身とは異なるジェンダー立場に身を置ける歌は多く、それでも今作は<羽をもがれた女性たち>という視点がことさら強く出ているようには思いますが、ぼくみたいなオヤジが聴いて感情移入できないわけでもありません。

 

それが音楽のパワーとか浸透力っていうもので、聴き手のほうも想像力と共感力が問われます。さらに選ばれている曲の痛み特性を響かせるため、ヴォーカルには必要最小限の装飾しかほどこされていません。数曲ではまったくのノン・リヴァーヴで、すっぴん声のナマナマしさが曲の痛切を増幅しています。

 

聴くひとによっては共振しすぎ、つらくて聴きとおせないと感じるかもしれないほどの内容で、しかし歌によって、聴くことにより、泣いて、ある種のカタルシスを得ることができる悲しみが存分に宿っている音楽であるがゆえ、心的浄化をもたらしてくれる好作に違いありません。

 

終盤の「別れの予感」「いのちの歌」あたりまで来るとさわやかさがただよっていて、これらはもとからそうした(悲痛感をストレートに強調しない)曲想のものではありますが、仮想のヒロインに立てたリスナーの自分がふっきれて清らかになっていくのを感じることができます。

 

(written 2023.4.6)

2023/03/03

ドドンパ歌謡

C1a8e519b5164b638747040590500d6d

(4 min read)

 

ドドンパ歌謡
https://open.spotify.com/playlist/2ADH4D3UqP5EnIAY4YVRnY?si=42b9f10dc1264e6e

 

ドドンパのなかで最も知られている歌は、やっぱり「お座敷小唄」(1964、松尾和子、和田弘とマヒナスターズ)でしょうか。すくなくともぼくにとってはそう。幼少時代の記憶があります。

 

64年というと二歳なんで、レコード発売時のことを憶えているはずはありません。大ヒット曲だから、その後小中学生のころまでも(ほかの歌手であれ)テレビの歌番組でこれが披露されるのをくりかえし耳にして焼きついたということでしょうね。

 

そのほか1960年代前半にはたくさんのドドンパ・ソングがつくられヒットして、さながらブームのようになっていました。(歌の世界の)ドドンパってなに?っていう向きもいらっしゃるでしょうが、何曲かお聴きになれば「パ、パラパパッパ」という共通パターンはすぐ把握していただけるはず。それがドドンパ。

 

ドドンパという文字列が曲題と歌詞に入るものが大半で、もちろん入らない「お座敷小唄」みたいなヒット・ソングもあったわけですが、ビート・パターンに特徴があったので、いはゆるリズム歌謡の一つとされています。

 

「ひばりのドドンパ」(美空ひばり)、「ドドンパ酒場」(春日八郎)、「東京ドドンパ音頭」(フランク永井etc)、「東京ドドンパ娘」(渡辺マリ)〜〜 これらはすべて1961年発売のシングルで、ほかにも無数にあったので、いかに当時ドドンパが流行していたかわかりますね。

 

ぼく世代くらいまでだと、こども時分にそのパターンをあまりに耳にしていたがため、意識せずとも体内に沁みついていて、トシくっても聴けばなんだか(失ったスケベさと一体の)懐かしさがこみあげてくるドドンパ、しかしこれはほんのいっときだけの流行で終わってしまい、持続することはありませんでした。

 

また(東南アジア経由の)ラテン・ビート由来であるにもかかわらず舶来な印象があまりなく、純和風のものに聴こえてしまうのは、音階ゆえでもあるでしょうし、また歌詞の韻律が七五の都々逸であることも理由でしょう。お座敷ネタとかのせいもあるかも。

 

1960年代初期ほんのいっときだけの一過性の流行で消えてしまったドドンパは、しかし21世紀になっても100%忘れられたわけではなく、2004年に氷川きよしが「きよしのドドンパ」というのをリリースしています。きよしはデビュー期からわりと古めというかレトロっぽい歌を得意としていましたね。

 

といっても「きよしのドドンパ」は歌詞も都々逸じゃないし、例のリズム・パターンも鮮明ではありません。ぼんやり聴いているとどこがドドンパ?っていう内容ですが、その定型は潜航的に下層にもぐっているような感じ。うっすらですが、たしかにドドンパの痕跡くらいはあります。

 

これだけじゃありませんがきよしの歌ってレトロ指向でありながらそのままは使わず、ある程度現代的に咀嚼して仕上げているあたりに、いかにも新世代歌手らしさを演出しようとしたんだなっていう製作陣の意図をはっきり感じます。

 

比較するに、その後さらに10年以上が経過して日本歌謡界でも鮮明な復古ムーヴメントが顕在化して以降につくられたものは、かつてのパターンをそっくりそのまま使っています。徳永ゆうき「平成ドドンパ音頭」(2014)しかり、石川さゆり「昨日にドドンパ」(2017)しかり。

 

これら二曲は露骨な1960年代初期ふうのレトロ・ドドンパで、さゆりのなんか「むかしの歌がよかったねと思うのは自分だけじゃないはず」なんていう意味の歌詞ではじまりますからね。かつてただよっていたちょっぴりエッチなほのめかしはきれいに消えてしまっていますが、それは時代でしょうね。

 

(written 2023.2.26)

2023/02/06

お布施 de 演歌

Img_6927

(4 min read)

 

っていうようなものがあると思うんですね。これをぼくが理解するようになったのは、岩佐美咲の歌唱イベントに通いはじめた2018年11月からのこと。

 

すでに何枚も持っているにもかかわらず、ファンはみんなどんどんCD(主にシングル盤)買いまくるのを目撃しました。そしてぼくもそうなりました。会場でおしゃべりしていると「すでにこれは自宅に100枚くらいあるよ」というかたもいました。

 

もちろん一枚買うごとに一枚の特典券がもらえ、二枚で2ショット撮影権なので、それを目当てに買うわけです。ここはそういうもんだ、そういう世界なんだということをわさみんイベントに参加するようになって、ファン歴二年弱であのころようやく知りました。

 

これはわさみん界隈だけの特殊事情でもなく、ほぼどんな歌手でも演歌応援ではひろく行われていること。演歌は長らくテレビの歌番組でしか聴いてこず、レコードやCDを買ったり現場に参加するなんてことがなかったから、ちっとも知りませんでした。

 

むろん握手&2ショット撮影を事後に行うのでそのためにCD買ってねっていうのはAKB48出身のわさみんらしいところなんですが、そうでなくたって演歌のコンサートやライヴ・イベントの会場では当然その歌手のCDがたくさん売られています。ファンは(すでに持っていても)それを現場で買うんですよね。それが歌手への応援行為であるということで。

 

しかも特殊なのは、演歌界では同じ一つの新曲CDを、カップリング・ナンバーとジャケットだけ変えて何種類もたくさんくりかえし発売するでしょ。通常盤、初回限定盤、特別盤タイプA、B、Cとか、Fまであったり、どれも表題曲は同じものなんですよ、それをい〜っぱい発売するんです。

 

一種の詐欺みたいなもん、というと語弊がありますが、なんかそんな世界ですよね。演歌界の慣習っていうか、あの最大物氷川きよしですら新曲一つを何種類ものシングルCDでリリースしていましたから。で、ファンはそれをぜんぶ買う。曲がダブるのに。

 

アルバムだってですね、同じ代表曲を毎回収録して、ほぼ似たような内容のベスト盤CDが、歌手によってはほぼ毎年のように出ます。都はるみのような引退同然歌手でも美空ひばりのような故人でも「スーパー・ベスト」だの「究極ベスト」だの「全曲集2021」「全曲集2022」とか。

 

真の意味での<全曲集>だったら一種類しか存在しないはずなのに、CDをそのまま使っているサブスクで見ても、内容的にはちょっぴり選曲とジャケットを変えただけのものが、何種類も、同じ曲ばかり収録したアルバムが、毎年出るんです。どれ聴いても「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡船」「大阪しぐれ」があるっていう。

 

こんなことやってんの、演歌界だけですよ。

 

同じようなものにくりかえし毎年寄付のようにお金を払う、だからお布施だってぼくは言うんです。CD買ってもべつにご利益みたいなものが得られるわけじゃないけれど、ファンのほうとしては応援しているという行為を実施することじたいに意味があって、精神の安寧と満足感が得られるし、それが生きがいみたいになって人生が充実するし、楽しいんですよね。

 

推し活ってそういうもんですよ。

 

(written 2023.1.28)

2023/01/21

“一強” だった氷川きよしの休養で男性演歌界はどう変わるのか

Screenshot-20230116-at-131103

(5 min read)

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/4eb820f6d6b75df8bf862e67745511359af4daa4

 

2022年12月31日でもって一年間の休養に入った氷川きよし。どうなんでしょうね、動きが速く激しい芸能界からそんなに遠ざかったら、いかなきよしでも無事復帰できるかどうか、うんでも絶対的エースだったのでだいじょうぶかとは思っているんですけども。

 

きよしのスタイルといえば、ああいった新世代感を強くまといつつ&ポップスやロック・ナンバーも歌いはしたものの、提供される曲もヴォーカル・スタイルもトータルな世界観も、古くさい定型演歌イメージを保持していました。

 

つまり従来的なステレオタイプをひきずったままの(精神的)高齢演歌リスナーをも満足させられる存在でありながら、世代的にはまだ若く将来への希望も大きく明るかったのがきよし。消滅の危機に瀕しているといってもいいくらいな演歌界では最大の光でした。

 

ともあれ(一年間は)いないわけですから、「ポストきよし」方向へと男性演歌界が動きはじめていることは間違いありません。新たなムーヴメントはもうしばらく前からはじまっていて、すでにしっかりした流れを形成しつつあります。

 

きよしのような煌びやかで華やかな世界観提示にかわって、もっと日常的なふだん着感覚に根ざしたような新世代演歌シンガーたちはしばらく前から活躍するようになっています。山内惠介や三山ひろしなどは従来的な「王子さま」路線かもしれませんが、辰巳ゆうと、真田ナオキ、新浜レオン、中澤卓也らはストレート&ナイーヴなニュー演歌のイメージをふりまいています。

 

演歌でも、つくりこんだ世界というより、そのへんの玄関から出てきてそのまま電車に乗ってやってきた近所の身近なおにいちゃんというような、そんなフィーリングで活動しているのが新世代若手演歌歌手です。

 

そうした歌手たちは(演歌とは関係なかったはずの)AKB48的な「会いに行ける」系イベントを積極的に展開し、フレンドリー&ファミリアー感を強調しています。CDショップやショッピングモールなどで歌唱キャンペーンをやり、2ショット撮影&握手会をさかんに開催しています。

 

ファンの接しかたもそれにともなって変化するようになっていて、歌手や会社側の提供するネット活用のサービスについてくるようになっているんですよね。いまやソーシャル・メディア&サブスク時代で、演歌でも新世代はそれらを積極的に活用していますから、ファンもそれを楽しむようになっています。

 

こうしたことは、いまだサブスクに曲がなくソーシャルでの本人アカウントもないような旧世代、たとえば(女性だけど)水森かおりとそのファンなんかとは根本的にありようが異なります。ライヴ&テレビ&レコード or CDでっていうような時代は去りつつあるんですね。

 

演歌みたいに高齢ファンが中心になっているような世界では、もちろんそれらにぜんぶついていくのは厳しいと思っているかたもなかなかいて、たとえば昨年夏に中澤卓也の新曲が出ましたが、配信リリースからCD発売まで一ヶ月ありました。

 

だから最初はストリーミング/ダウンロードで新曲を楽しむしかなくて、卓也本人アカウントのコメント欄を読んでいても、「なかなかむずかしい、孫にやってもらった」と本音を寄せるファンもそこそこいましたから。スマホ一個あればカンタンにできちゃうじゃないかとぼくなんかはイージーに考えていますが、そういうもんじゃないみたいです。

 

新世代演歌歌手は(性別問わず)、ド演歌ではない耳なじみいい曲と歌唱法を選択しているというのも、音楽的には大きいこと。このブログでいままでさんざんくりかえし力説してきたことですが、従来的な濃厚劇的でエモーショナルな演歌ワールドは、きよしが最後の存在だったとみるべきなのかもしれません。

 

むかしながらの演歌がなくなってしまうのかとさびしさをおぼえるファンがいるかもしれませんが、ルーツをたどれば古典演歌だってもともといっときの流行にすぎなかったもの。大衆音楽の世界は時代の変遷とともに姿を変えていくのが健全です。諸行無常。

 

(written 2023.1.18)

2022/12/18

演歌好き

A0d491516db349f48c88dbf171ee2088

(4 min read)

 

My Favorite 演歌スタンダーズ
https://open.spotify.com/playlist/70noNUpuIMBpidBrXoSTLX?si=ef42455bda8e4176

 

もう間違いないので、臆せず正直に言っておきたい、ぼくは大の演歌好き。邦楽のなかでは圧倒的に演歌がNo.1。17歳で米ジャズにハマって以後は長年遠ざけていたものですけれど、思い出したきっかけはやっぱり2017年にわさみん(岩佐美咲)が好きになって応援するようになったこと。

 

ぼくら世代のジャズ狂なんかが演歌好き、それも根っからのそれだというのを告白するのは、ちょっぴり勇気がいることなんですよ。でもブログなんか演歌関係の記事が増えてきて、こいつそうなんだなと周囲に疑いなく思われているだろうと確信するようになりましたので。そもそもが筆致だって違うもんねえ。

 

演歌聴いてりゃ楽しいんだもんなあ。ぼくが好きと感じる演歌は、2010年代以後的な第七世代じゃなくて、いやそれもマジ好きだけど、もっと古典的な1980年代くらいまでのものがいちばん。都はるみ、八代亜紀、石川さゆり、藤圭子、森進一、北島三郎、そのへんです。

 

そういった演歌なら、聴いて快感で、テーマを見いだし考えて楽しくて、文章書くのもらくちんスムース、すいすい書けて、これ以上ぼくの琴線に触れる音楽があるのか?と思うほど(言いすぎ)。

 

そのあたりすべてサブスク(ぼくのメインはSpotify)にあるっていうのもぼく的には意味の大きなこと。実をいうと生まれてこのかた演歌のレコードやCDを買ったことは一度もないんですね。ヒットしているものはすべてテレビジョンの歌謡番組で聴けましたから。それが17歳までのぼくの音楽ライフでした。

 

それを60歳近くになってとりもどしたっていうのは、もう圧倒的にサブスクの力が大きい。検索すればパッと見つかって、自室でもお散歩しながらでもカフェでもレストランでもクリニックの待合室でも、その場で即聴けるっていうのがどれほど大切なことか。もしサブスクがなかったら、ここまで演歌好きの血が甦らなかったのは間違いないですから。

 

共感しているのはもちろん歌詞部分じゃありません。そっちはですね、いま聴くとどうにもならないっていうか、このジェンダー平等が求められる時代にありえない男尊女卑フィール満載で、そこを意識しはじめたらとうてい演歌なんて聴けません。民謡もそうで、そもそもそうした現代感覚を求める世界じゃありませんから。

 

いいなと思うのは陰影のくっきりしたあざやかなメロディ・ラインとか、おなじみのコード進行とかサウンド・メイクとか、ラテン・ミュージック由来の跳ねるビート感とか。北島三郎の「まつり」だって変形クラーベ(1・2)ですから。

 

歌手もみんなうまいし、発声が鮮明で節まわしも楽しい。これはちょっと…みたいなことをふだんよく言うので好ましくないと思ってんじゃないかとかんぐられていそうなぐりぐり濃厚な強いコブシやヴィブラートだって、きらいなんかじゃなく大好き。八代亜紀のそれなんかよだれが出るくらい。

 

古典演歌好きっていうのは、ひょっとしたら古典落語好きとか、ティン・パン・アリーのアメリカン・ポップ・スタンダードをジャズ系歌手がそのままストレートに歌うのが好きとか、つまり一種の伝統芸能愛好ということかもしれないですね。

 

とにかく演歌は聴いて気持ちよく楽しくワクワクする。それだけ。

 

(written 2022.11.27)

2022/12/05

演歌はハレ、歌謡曲はケ

Img_5795

(2 min read)

 

柳田國男の「ハレ」と「ケ」にしたがえば、演歌はハレ、歌謡曲はケ。ハレとは簡単にいって非日常性、ケとはふだんの日常で、演歌はどう考えてもお祭りなどに類するケバケバしい非日常の世界でしょう。

 

特にスタンダードな古典演歌の世界でこれがいえるはず。歌詞もメロディもサウンドもヴォーカルも浮世離れしているっていうか、歌謡曲が日常の生活感覚に根ざしたものなのに比べたら、演歌はどこまでも派手で飾った世界。

 

アメリカン・ミュージックでいえばティン・パン・アリー、それが演歌で、庶民のふだんの生活とはだいぶ違う感覚に立脚しているんですよね。大衆音楽の世界では日常の生活感覚に根ざした音楽こそ自分たちに寄り添うもので、なんというか「すばらしい」のであるという認識が一般的ですが、好みはまた別。

 

つまり個人的にどっちが好きかっていうと、ぼくは圧倒的にティン・パン・アリーや演歌。むろん演歌のなかにも日常性はあるし、歌謡曲だって浮世離れしたような世界観を持つものがありますが、おおむね差があると思うんですよね。厳密な境界線は引けないにせよ。

 

いってみれば夢を見るような世界が演歌であって、つらいけど淡々と現実を直視しようというものじゃないんですよね。だから歌詞もサウンドもヴォーカル・スタイルもドラマティックで激しく強いんです。一般の聴き手はいっときの逃避願望をそこで実現するっていうか、現実をちょっと忘れて気を紛らわせて、またしんどい日常に戻っていく、だからハレなんですよね。

 

そういった世界観には感情移入できないという音楽家やリスナーもそこそこいるはずで、演歌界も近年若手第七世代に代表される日常のストレート&ナイーヴ・フィーリングを大切にした淡白なものが出はじめるようになっているのは、旧来的なハレ演歌からの脱却なんだとみることもできますね。

 

(written 2022.11.23)

より以前の記事一覧

フォト
2023年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ