カテゴリー「書くということ」の26件の記事

2022/10/04

譜とか盤とか

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(4 min read)

 

っていうことばを、ぼくは(フィジカルに言及するときを除き)まったく使わなくなりました。「譜」のほうはどういうケースでも全然言わないんじゃないですかね。みなさんわりと「新譜」「新譜」って言っていて、それはそれでぜんぜんOKなんですけども。

 

ぼくがなぜ新譜と言わないかっていうと、音楽の新作リリース = 楽譜出版のことだった時代、つまり録音技術発明とレコード産業確立の前の時代の名残であるにすぎず、20世紀以後は実態がなくなったことばだからです。いまだって楽譜(シート・ミュージック)も同時出版されているかもですけど。

 

もちろんことばの世界って指し示す実態がなくなっても表現だけ生き続けるものではあります。個人的な感覚では「新譜」だけでなくどんなばあいでもシニフィエが消えてしまったシニフィアンをあまり使いたくないというのが正直な気持ちで、そういう人間なんです。新時代には新時代のことばをっていうか。

 

だからとても個人的なフィーリングなので、新譜とみなさんおっしゃるのに対してどうのこうのという気分はまったくありません。それは楽譜のことなんだけどな〜、みんなも録音された音楽を聴いているんでしょ〜とは感じますけど、ぼくだけが思うこと。

 

ところで音楽そのものは人類史と同じだけの歴史があるはずですが、記譜法が発明されたのは音楽誕生後しばらく経ってのことでで(古代ギリシアにはすでに記録法があったらしい)、いまでは世界で最も普及している西洋式の五線譜スタイルとなればさらにずっと時代がくだって、近代の発明品ですよね。

 

紙にインクでという印刷技術が普及するのは15世紀のことで、バンバン刷る大量生産品として商売になるように確立したのはその後18世紀末になってようやく印刷機械能力が大幅に向上してからなので、楽譜出版が音楽産業の柱として樹立されたのもそれからの話だったでしょう。

 

これは西洋近代音楽の一般市民への開放と時期的にピッタリ一致するので、おもしろいですよね。音楽だけでなく文化一般が市民へも日常的に行きわたり、みんなが楽しめるようになったのが19世紀ごろのことですから、だから楽譜出版がメインだった時代、「新譜」ということばがリアルな実態をともなっていた時代は、あんがい短かったのかもしれません。

 

「盤」のほうはですね、レコードとかCDといった平らな回転式円盤のことでしょうから、いまでもけっこう根強い人気を持ち続けている(人気再燃しつつある?)カセットテープのことなんかは排除されてしまうわけです。音楽を再生する装置と物体はほかにも各種ありますし、サブスクで聴くのにも「盤」はおかしいし。

 

「名盤」とかそういった表現でサブスク全盛の現代でも現役のことばではありますが、やっぱりもうフィジカルではあまり聴かなくなったぼくみたいな人間としては、たとえばそれを「名作」と言い換えれば済むじゃないかと思え、実態のないことばを使い続けるのには個人的に抵抗あるんです。

 

なかにはサブスクで聴いているだけと自他ともにわかっているのに名盤と連発したりするケースも散見され、あなたそれ、どこにも「盤」がないぞ、表現を検討し練りこまないのか?ましてやライターだったなら、とかぼくとしては感じちゃいますが、だいたいソーシャル・メディアでの発言なんかはまぁみなさんそんなもんみたいです。

 

べつにいいんですけど。ぼくだけの書法スタイルなんで。

 

(written 2022.9.3)

2022/08/12

ディスクで聴くか、アプリで聴くか

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※ 写真は2022年現在使っているMacBook Air

 

(4 min read)

 

2015年9月にブログをはじめたおそらく最大のきっかけは、その前年秋に内蔵ストレージ容量1TBのMacBook Proを買ってどんどんCDをインポートするようになったことだったんじゃないかと、いまでは思います。iTunesアプリで聴きまくるようになったんですよね。

 

それまではというと内蔵ストレージたった180GBのMacBook Proを使っていて、あれを2011年初春に買ったときは、それまでのiBookが突然ダメになってあわてて、緊急避難的な意味合いでの購入だったので、経済的に余裕がなかったから最低容量のしか用意できなかったんです。

 

だからiTunesもジュークボックス的な使いかたはしていなくて、ただマイ・ベスト・コンピレCD-Rを作成するためだけに必要なCDのその曲のみをインポートして、焼き終わったらファイルは削除するとか、そうしないとストレージが満杯になったらヤバいわけですから。

 

あとはiPodに音楽を移すためなのと、ほんとうにそういった目的でしかiTunesは使っていませんでした。つまり、自宅にいるときはほとんどの時間ディスクで音楽を聴いていて、もちろんサブスク・サービスなんてまだないし、だからCDやレコードなど買うしか自宅で音楽を聴く手段はなかったです。

 

ぼくがダウンロード購入に対し以前からかなり消極的なのも、ひとえにこの内蔵ストレージの容量制限のせいです。ダウンロードしたらそのファイル分空容量が減りますから。もちろんそれをCD-Rに焼いてその後デリートすればいいんですけど、だったらハナからCD買ったほうがいいかなと。

 

そんなところへもってきて、いきなり1TBストレージのパソコンを買ったから、喜んでどんどん次から次へとCDをインポートしまくるようになって、もうそれしていない日はなかったといっていいくらい。外付け(しかMac界には当時からもはやなかった)光学ドライヴを酷使しすぎたせいで、一回おしゃかになって買いなおしたほどですもん。

 

いくら入れても入れても1TBの空間は広大で、満杯になったりせず、それでもしかし限界はやはりあるわけで、800GBくらい音楽ファイルがたまったあたりの時点でなにかメッセージというかアラートみたいなのが出ましたから(ストレージ空容量がもうないぞとかなんとか)そこでやめました。

 

それで、その後は主にiTunesで音楽を聴くようになったんですよね。それが2014年暮れ〜15年初頭ごろからの話。ディスクだけで聴いていてはどうしてもぼんやりしてしまってなんとなく流れていってしまうところ、アプリで聴けば進行する1秒1秒を分析的に聴けるわけですから、音楽への接しかたがぼくのなかで変わりました。

 

あたまに浮かんだ感想とか考えをメモとして書きとめTwitterに投稿するようになって、連続ツイートみたいになっていったから、それをあとからまとめて整理してテキスト・エディタでファイルとして保存したのが結果的にこれまたどんどん増えていくようになりました。

 

それをそのまま自分でながめているだけでも楽しいけれど、それだけじゃちょっともったいないかもな、公開はTwitterでしかしていないけどそもそもどんどん流れていってしまうサービスで蓄積型じゃないし…、と思いはじめ、しばらく経ってその気になったのがこのブログBlack Beautyです。

 

(written 2022.7.6)

2022/04/09

カテゴリー分けをやりました

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(3 min read)

 

ちょっと前にやったことなので既にお気づきのかたも多いでしょうが、長年ノン・カテゴリーで、というかぜんぶ「音楽」にして、すべての記事をべたっと平たく並べてきたこのブログBlack Beautyも、とうとうカテゴリー分別を実施したわけです。

 

・コーヒー
・ジェンダー
・プリンス
・マイルズ・デイヴィス
・原田知世
・岩佐美咲
・自分語り
・音楽

 

これは表示順です。ほんとうだったら記事数の多い順とか重要に思っている順とかに並べかえたかったですが、どうやらこのココログ(@niftyのブログ・サービス)ではそれができないみたい。

 

パソコンでアクセスなさっているみなさんは右サイド・バーにカテゴリー一覧が出ています。スマートフォンでごらんならば右上のオレンジ三本線をタップするか、

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記事一覧下にある「このブログの人気記事ランキング」の下の「カテゴリー」をタップしてください。

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カテゴリー分けをしたといってもこういう状態なので、なおも九割が「音楽」のなかにごた混ぜになったままです。しかしここをさらに細かく分類するという気にはなれませんでした。相互関連していたり複数の音楽家やジャンル、地域を横断していたりで、整理不可能と思えました。

 

それでも、これも音楽に違いないマイルズとプリンスと知世と美咲を別枠にしたのは、特に数が多いということと、熱心にそればかり聴くオタク的ファンがついていて、それ関連の記事だけまとめて読みたいという声をいただくことがありました。

 

大切に思っていて記事数が多い音楽家は、ほかにもルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどいくつもありますが、分別しすぎは性に合わないので。個人的に上の四人はほんとうにスペシャルな存在です。

 

コーヒーとジェンダー。前者は二個しか記事がありませんが、音楽の話題じゃないし、分けとかないと埋もれてしまうと思い(ぼくの人生で最も重要なものの一つ)。後者はそこそこ記事数があって、2019年来の個人的問題意識を反映しています。性や外見などに関連する偏見や差別を語った記事を書くようになり、なんとか読んでもらいたいと思うようになったのも、カテゴリー分けを考えたきっかけです。

 

自分語りは、ぼくが発達障害の当事者、なかんずくASD(自閉スペクトラム障害、俗に言うアスペルガー)であることを、やはりちゃんときわだつように言っておきたい、そうでないとなにかとコミュニケーションに齟齬が生じたり誤解されたりして、たがいにつらい思いをすることが人生で多かったので。

 

そして、ぼくのそういう部分は、音楽にどう接しどう聴いているか、どんな音楽が好きかといったことをおおいに左右してきたと、いまでは思います。

 

(written 2022.4.8)

2022/02/19

オギとハギ

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(3 min read)

 

荻原さんブログ → https://bunboni58.blog.ss-blog.jp
萩原さんブログ → https://kenta45rpm.com

 

音楽関係で、bunboniこと荻原和也さんと、萩原健太さんのそれぞれブログは個人的に最大の情報源なんですけど、お名前を書くときに、ぼくは漢字の「荻」(オギ)と「萩」(ハギ)という二つの字体を区別できない人間なんですね。

 

書くときだけじゃなく読むときだって、どっちの漢字が来てもあれっオギだっけ?ハギだっけ?ってわからなくなってしまうっていう。

 

ある種のビョ〜キかと思います。

 

この二つの漢字の違いを(デジタル・ディバイス普及前に)ちゃんと学ばないままこの歳まで来てしまったからなんでしょうねえ。よく似ていてまぎらわしいといえばそうじゃないかとは思うんですが、お名前の漢字表記を間違えるなんて、やっぱりやっちゃいけないことですから。

 

といってもMacのかな漢字変換システムに任せてあるんで、おぎわら/はぎわらでスペース・キーを打って出てきたのをそのまま使っているだけなんですが、その際にじっくり確認しなおさないのがよくないんですよねえ。パッと見、一瞬ではわかりにくいような感じですからなおさら。ゴメンナサイ。

 

オギワラさんに一度指摘されたばかりか、ハギワラさんにも、直の指摘じゃなかったんですけど一、二度ご自身のブログ記事中カナ書きで「ハギワラです、よろしく」みたいにおっしゃってあったのは、ひょっとしてそういう意味だったのかも?という気がして、心配で。間違えたこと、ありましたっけ?

 

実を言いますと、ぼくもよく名前の漢字表記を間違えられる人間で、「戸嶋」(としま)なんですけど、頻繁に「戸島さん」「豊島さん」と書かれます。以前はそのたびに修正していましたが、多くてキリがないし、ぼくを呼んでくれているには違いないと思うから、あまり言いにくくなって、最近は。読みだって「とじま」「こじま」と言われることがかなりあります。

 

書きでも読みでも名前を間違えられるとやっぱり気分よくないっていうのをだれより自分自身が長年経験し続けてきているというのに、荻原/萩原を間違えちゃいけませんよね。コツとしては、くさかんむりの下が「あき」なのがハギってことですか。オギはけものへん。まぁそれしか違わないわけですが。

 

実際問題、書くときはパソコンやスマホの変換機能に任せてあります。だからシステムの辞書が間違っていなければ出てくる文字は正しいはずと思いますが(じゃあなぜ以前は一度間違えた?)、テキスト・アプリに表示された漢字をしっかり確認しなおす習慣をつけることにします。

 

荻原さん、萩原さん、今後ともよろしくお願いします。

 

(written 2022.2.5)

2022/02/13

そばに音楽があればいい

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(6 min read)

 

たとえばマイルズ・デイヴィス。1975年夏の一時引退前はもちろんのこと81年の復帰後もしばらくのあいだ、コンサート・ステージで自分の順番じゃないあいだはバンドの演奏が進行中でもソデにひっこんで休憩しちゃうひとでした。

 

たぶんタバコ吸ったりボ〜ッとして、べつなことしたり、あるいはスタッフとしゃべったりもしていたかもしれませんが、そんなあいだもステージでバンド・メンバーがくりひろげている演奏はボスとしてちゃんと聴いてチェックしていて、終演後に気になるメンバーを呼んであれこれ指導していたんです。

 

もちろん自分が演奏しているあいだとか、あるいはスタジオでのレコーディング・セッション中とか、よそ見しながらやっていたわけじゃなかったんでしょうけど、音楽は「音」で(聴力障害がなければ)耳で聴くものですから、だから聴いているあいだ耳だけ集中して、あとは目でなにを眺めていても、手で作業していても、べつにいいんじゃないでしょうか。

 

耳さえ研ぎ澄まされていればですね。毎朝7時前に起きて毎夜24時すぎに寝るまでずっと音楽が止まらず鳴りっぱなしというぼくのばあいだと、その間、ごはんつくって食事したりトイレとかお風呂とか洗濯とか掃除とか、日常生活があります、当然。

 

手が空いてゆったりすわっていてもやっぱりネットでソーシャル・メディアのタイムラインを眺めていたり投稿したり、テキスト・アプリでブログ記事を書いたり、とにかくなにかしていますが、なにをしていても音楽はノン・ストップで流れています。だから、集中して聴いている時間とBGM的になっている時間とがありますね。

 

しかしBGM的なというか流し聴きになっているあいだも、耳は聴こえてくる音楽に集中していて、むろん水を使ったり火を使ったりすれば音が出ますから、重なって背後の音楽のほうはやや聴こえにくくなります。そんなときでも、ふと耳に入ってきた音にハッとする瞬間というのがあって、それをきっかけにアイデアがわき、まとまった文章をしあげることにつながったりも。

 

音楽キチガイというか音楽中毒者は、片時も音楽がない状態は耐えられないっていう人間でしょうから。ちょうど麻薬中毒者がその血中濃度が下がってくるとガマンできなくなってくるように、音楽が鳴っていない時間というのが考えられないっていう、そういうもんじゃないかと思います。

 

すくなくともぼくはそう。自宅にいてなにかしている最中にアルバムとかプレイリストの再生が不意に終わって無音楽になったら、とたんに不安になったりイライラしてしまいます。どんなときでも常に聴こえていてほしいから、実際そうしています。

 

するとですね、ディスクだと再生がいったんは終了する限界時間というのがありますよね。レコードだと片面30分未満くらい、CDならギリギリ詰め込んで最大80分。そこで裏返したり取り替えたりという作業が来ますけど、それがすぐにできない、手が離せない状況というのが日常生活にはそこそこあります。

 

もちろんサブスクだって、リピート再生や終了後に続けて関連曲を流す設定にしていないなら(ふだんぼくはしない)、短めのアルバムなどはそこで終わるから、また別のものをクリックする必要があります。ってことは本質的にディスクで聴くのもサブスクで聴くのも同じではあるんですが、ディスクだとリピート再生設定なんかはできませんよね。長尺のプレイリストを流しっぱなしにしておくということも、できない。

 

サブスクで途切れなく音楽を耳に入れていて、だからもちろん流し聴きの時間もあるけれど、毎日数時間はパソコン画面でSpotifyアプリで表示されるジャケット+トラックリストをジッと凝視したまま微塵も動かず、集中して聴いている時間もあります。パソコンが立ち上がっているけれど、SNSもWebブラウジングもなにもしないで、サブスクで音楽だけに集中して聴き込んでいる時間というのがですね、あります。

 

ディスクだって、パッケージを裏返して眺めたり、ブックレットなどを取り出してテキストを読んだり写真を楽しんだりなどしながら聴いているわけでしょう。ぼくはそうでしたけど、たぶんみんな同じなはず。それがいいんだ(音しかないサブスクに対する)フィジカルの利点だって、いまやみんな言っていますからね。

 

だから裏返せば、音しかないぶん、サブスクのほうが音楽(オーディオ・データ)だけにじっくり正対して向きあうにはいいのかも?というのも日々痛感していることです。

 

サブスクだと演奏パーソネルや各種情報、クレジット関係が(一部しか)わからない、ストーリーを語ったテキストも美麗な写真類も付属しないというのは、間違いなく大きなデメリットですけどね。そこはなんとかならないんですか?> SpotifyさんやAppleさん。

 

(written 2022.2.3)

2021/09/14

オリエンタルとかエキゾティックとか

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(6 min read)

 

っていうことばを、音楽関連でも、今後は使わないようにします。差別的ニュアンスをともなっているように感じるからです。

 

「オリエンタル」にかんしては(ぼくもアジア人だからたぶん当事者意識があるせいで)ずっと前から違和感が強く、いままで一度も使ったことがありません(と思ってブログ検索したら、実はちょっとある…)。

 

ところが「エキゾティック」のほうはこのブログで乱用してきました。そしてorientalと違ってexoticはアメリカ合衆国の連邦公式文書で(2016年以後)禁止されていることばというわけじゃありません。

 

しかし考えてみると、エキゾティックという表現をしたくなるメンタリティの根底には、(音楽的に)自分にあまりなじみがないもの、異なもの、外的な要素を雑にくくって、それをちょっとおもしろがって興味本位でとりあげているということがあったんじゃないかと自分でも思うんです。

 

さらに、エキゾティックという表現で音楽面でのどんな要素を指摘しているのか、実はよくわかりません。日本生まれで日本に住んでいる日本人であるぼくにとっての「異質」「外的」なもの、というだけのことですから、日本の音楽や西洋クラシック音楽やアメリカ合衆国産のポピュラー音楽「じゃないもの」というだけのことでしかありません。

 

中南米のラテン・ミュージック要素(そこにはスペイン由来の旋律とアフリカ由来のリズムがあるわけですけど)もエキゾティックなら、アラブ圏やトルコの音楽だってエキゾティック、アラブ・アンダルースな旋律作法だってそうだし、さらにトルコやアラブの音楽で聴けるキューバン・リズムは二重の意味でエキゾティックだとか、はっきり言ってもうワケわかりませんよね。

 

つまりエキゾティックという表現で、なにか実体のある具体的な意味のある音楽性にはなんら言及していないのです。言っているのは、たんにぼくにとってなんだかちょっと異国情緒がしておもしろ〜いというだけの雑駁な感情でしかありません。

 

それは、むかしの日本人が西洋白人を見ても東南アジア系でもアラブ系でもアフリカ系でも「ガイジン」と言って、黄色東アジア人である自分とはなんかちょっと違う、異な感じがする、というだけでおもしろがって、興味本位ではやしたてたり避けたりする、そんな行為と本質的に差がありません。

 

つまりエキゾティックとは、ホモソーシャルな音楽文化ネットワークのなかにいる自分とはなんだか違う、異なもの、外なもの、を差別するステレオタイプでしかなかったのです。

 

アメリカ合衆国にいるアジア系を「オリエンタル」と呼ぶのは、自分がちょっと優位に立っているかのような視点から排除意識を持つ差別表現であるという点で、当時の大統領バラク・オバーマがこのことばの公的使用を法的に禁止しましたが、ぼくも「エキゾティック」について同様の認識を持たなくてはなりません。

 

へへ〜い、これ、ちょっとヘンだぜ!おもしろいね!っていうフィーリングの表現でしかなかったエキゾティック(とかオリエンタル)。現実の事物というか音楽を知らず妄想の産物でしかない世界、非西洋な音楽要素、違和感や非日常感に対していだく快感 〜〜 それは端的に言って誤解と偏見。それをぼくはまき散らしていたわけです。

 

今後は、ちょっとヘンに感じておもしろいと思う音楽要素を、「エキゾティック」と雑にまとめてテキトーに放り出すんじゃなくて、もっと実体に即して、わかる範囲で具体的・個別的に指摘するように心がけたいと思います。

 

「エキゾティック」ということばは植民地主義的なコンテクストをふくんでいるし、このことばを使うことは外国人排斥や人種差別を強化しかねないということで、『ワシントン・ポスト』紙は2021年7月、食材をエキゾティックと表現するのをやめようという記事をフード部門のスタッフ・ライターが掲載しました。

 

日本人女性がチャイナ・ドレスやアオザイを着ているのをふだんよりセクシーだと思ったり、ばあいによっては和服を着ているのすらこんにちでは非日常的だというのでなんとなく妙というか異に感じて興味本位でジロジロ見つめたりする、そんなメンタリティこそ、エドワード・サイードが指摘した意味での「オリエンタリズム」であり、差別的エキゾティシズムの発露にほかならないと思います。

 

ですから音楽の世界でも、アジア的だったりラテン・アメリカ的だったりアフリカ的だったりする要素をエキゾティックとくくることは、もうやめます。デューク・エリントンの「キャラヴァン」やディジー・ガレスピーの「チュニジアの夜」を、ぼくら日本人リスナーでも異国ふうに感じてなんだかおもしろく思うっていうのは、本土の人間が沖縄の旋律に対してエキゾティシズムを感じるのと同じ、抑圧構造に立脚した差別意識なのですから。

 

音楽について「辺境」ということばが使われるのは1990年代からずっとほんとうに大嫌いなのですが、辺境音楽などという表現を遠慮なくするひとたちと同じ愚を、ぼくもエキゾティックということばを頻用することで犯してしまっていたことになりますからね。

 

(written 2021.9.13)

2021/05/11

アメリカとかイギリスっていうことばはむずかしい

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(5 min read)

 

だってね、そもそもどこのことだか正確にはわかりませんからね、「アメリカ」とか「イギリス」って。洋楽ファンとしては実に頻繁に、頻繁すぎるほど、目にする名詞で、いちおうアメリカはアメリカ合衆国(USA)のこと、イギリスはグレート・ブリテン&北アイルランド連合王国(UK)のことだと、わかってはいますけどね。

 

それでもやっぱりおかしいぞという気持ちを拭いきれません。歴史が古いほうから言いますと「イギリス」。これに相当する英語って存在しないんで、その意味でも妙ですが、もともとイギリスとはイングランドのポルトガル語読みであるエングレスが日本に入ってきてなまったものだとのこと。ポルトガル語なら、戦国〜安土桃山時代あたりに入ってきたんでしょうか。

 

っていうことは、語源的にみればイギリスとはイングランドのことであって、UKのことじゃないんだってことになってしまいますが、そうはいってもいまやUKの意味でイギリスってみんな言っていますからねえ。でもそこにぼくはなんらかの疑問みたいなものを持つわけです。

 

歴史的経緯からすれば、イングランドがウェールズ、スコットランド、北アイルランド(最初はアイルランド全体)を併合して、それでUKが成立したわけですけど、だから、イングランド=UKじゃないわけですから、現在も。それなのにイングランドを指すことばであったイギリスをUKの意で使うのはやや間違っているんじゃないですか。

 

いまでもばあいによってはそれら四ヵ国はそれぞれ独立国扱いであって(サッカーやラグビーの世界など)、スコットランドもウェールズも北アイルランドも、イングランドの属国なんかじゃありません。別個のカントリーであって、ゆるやかに連合しているだけなんですから。

 

音楽ファンとしてはいっそう事情がややこしいっていうか、ウェールズのことはよくわからないですけど、スコットランドや北アイルランドは魅力的なシンガーやミュージシャンをたくさん輩出しているじゃないですか。だから心情的にはよりいっそうスコットランドと北アイルランドに肩入れするっていうか、そこのみんなを「イギリス人」と呼ぶなよなと思っちゃいます。

 

ことほどさようにイギリス、イギリス人という言いかたは雑で乱暴で、無意味でもあるんですけど、「アメリカ」だってちょっとワケわかんないですよ。イギリスと違ってアメリカのばあいは America っていうことばが英語にありますけども、このことばは元来、南北アメリカ大陸を指す地理的名称だったのであって、だから「アメリカ」とだけ言ったらあれら大陸全体のことだと解釈しないといけないのに、なぜかUSAのことしか意味しないですからね。

 

これは当のUSA人もそうで、自国のことをアメリカと呼び自国人のことをアメリカンと平気で言って疑問を感じていないあたりに、アメリカ合衆国人の傲慢さを強く感じるわけです。そんな際、メキシコ人、ブラジル人、アルゼンチン人、キューバ人、ニカラグア人などなどはどう感じるだろうか?とその心中を察するにおだやかな気分ではいられれません。

 

そういう事情があるので、しかしながらぼくもふだんUSAのことにしか言及していないことが文脈上明白なばあいには「アメリカ」と言っちゃっていますけど、ちょっぴり胸がチクリとするのはたしかなことです。ましてや中南米のことを視野に入れた文脈で話をするときには、かならずアメリカ合衆国と呼んできています、長くて面倒でも、それがことばに対する誠意だと思いますから。

 

これまた大衆音楽の世界では事情がややこしいっていうか、中南米音楽(ラテン・ミュージック)のほうもかなりおもしろいし豊穣でもあるっていう、そういうことがありますから、それゆえやっぱりいっそうラテン・アメリカ地域(そう、アメリカ、なんですよ)に肩入れし、北米合衆国のことをアメリカとしか呼ばないのは実にケシカランと思っちゃうわけですよね。

 

イギリスが雑で乱暴なことばであると同時に、USAのことをアメリカと呼んで疑わないのも無神経でガサツなやりかたなんですよね。とはいえひとことで言えて便利だし、通例にもなっているしで、ぼくもふだん使うことは多いです。でも、きょう書いたような視点はいつも忘れずに持っておきたいなと。

 

(written 2021.2.5)

2021/01/15

アーバン(Urban)

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(6 min read)

 

というこのことば、昨年初夏以降、音楽用語としては、かなり使いにくくなってしまったといいますか、もはや禁止されているというに近い(っていうか実態はアメリカ音楽業界内の自主規制ですけど)とまで言ってもいいくらいですよね。

 

理由は端的に言って、むかしの「レイス・レコード」と同様の黒人差別的な意味合いを帯びてしまうようになったからで、直接的には2020年のブラック・ライヴズ・マター(BLM)・ムーヴメントと関係があります。

 

日本ではあまりなじみのないアーバン、アーバン・コンテンポラリーといった音楽用語が、アメリカでいつごろどうやって使われるようになり、その後どのように拡散増殖したか、などについては、調べればくわしい解説記事も出ますので省略するとして。

 

2020年6月8日、ユニヴァーサル・ミュージック傘下のリパブリック・レコーズが、音楽用語としての「アーバン(Urban)」を今後いっさい使用しません、との声明をSNSで出しました。


https://twitter.com/RepublicRecords/status/1268949608664829955


https://www.instagram.com/p/CBD5HfyFnD0/?utm_source=ig_embed

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リパブリックといえば、アリアナ・グランデ、ドレイク、ニッキー・ミナージュ、ザ・ウィークエンド、ポスト・マローンなどがいて、テイラー・スウィフトもいまはいるっていう、まさに現代アメリカの音楽シーンを代表する会社なだけに、この声明は業界に大きな衝撃を与えました。ビルボードもBBCも即反応してこれを報道しましたね。

 

さらにこれを受け、グラミー賞を主催するレコーディング・アカデミーが、「アーバンやめます」との発表を6月10日に行いました。グラミーにはそれまで「最優秀アーバン・コンテンポラリー・アルバム賞」や「最優秀ラテン・ロック、アーバン、オルタナティヴ・アルバム賞」があったわけですが、いずれもアーバンを使わずに言い換えていくことになります。
https://www.grammy.com/grammys/news/recording-academy-announces-changes-63rd-annual-grammys-releases-rules-and-guidelines

 

アメリカ音楽史上、当初、アーバンというこのことばには否定的な意味はなかったものの、時間の経過とともに意味合いが変化し、どのような音楽性であれ黒人音楽家の音楽全般を指すようになっていったというのが事実で、肌の色さえ黒ければ、黒人でありさえすれば、「アーバン」にされてしまうという業界の慣習に異を唱える黒人歌手も増えていましたよね。

 

2020年1月、タイラー・ザ・クリエイターが、グラミー賞のベスト・ラップ・アルバム賞を受けたとき、自身の音楽が「ラップ」や「アーバン」に分類され「ポップ」のカテゴリーに入れられないことを痛烈に批判、「アーバン」というのはたんにNワードをポリコレ的に言い換えただけのことばだとまで発言しました。

 

ビリー・アイリッシュも、人種や見た目、服装などによって音楽がジャンル分けされてしまう業界の現状に苦言を呈し、白人女性なら「ポップ」、黒人女性なら「アーバン」にくくられてしまうと批判し、グラミー賞でのタイラーの発言への共感を示すというようなこともありました。

 

考えてみれば、たんに「ヒップ・ホップ」「ラップ」「R&B」と、それそのものが指向している音楽性を指せばいいだけなのに、「アーバン」はこれらぜんぶをムリにたばねようとしていて、それゆえに問題視されたわけですよね。

 

平たく言うと、黒人がつくった今日的なポップ音楽のほとんどすべてを包括することばが「アーバン」なわけで、そこには(白人ではなく)黒人歌手だからアーバンと呼ぶという、つまりは人種差別的な考えかたが無意識にせよ業界内にあったと指摘されても反論できないはず。

 

白人/黒人、というだけで音楽用語を分けて呼ぶ、そこに実質的な音楽内容の差異が聴きとれなくても、ジャンルをまたいでいても、肌の色だけで区別してきたのが「アーバン」だったわけですからね。1990年代〜21世紀になって音楽性が人種の垣根を完全に超えているにもかかわらず、です。

 

カンタンにいえば、人種で、肌の色で、ひとまとめにするんじゃないよ!というのが「アーバン」という呼称廃止の動きの原動力となっている精神性なんですね。とみにここ最近、当事者である黒人歌手たちから評判の悪かった呼称が「アーバン」でしたから。

 

やっている人の肌の色で区別する必要など、あるわけがない、人種隔離政策じゃあるまいし、とぼくも思います。その一方で「ブラック・ミュージック」という表現はぼくもよく使います。黒人音楽、と言っても同じです。これもたんにその音楽をやっている人種だけで区別したことばで、2020年初夏のBLMとアーバン廃止以後、ブラック・ミュージックと言うときには胸がチクっとするといいますか、これでいいのだろうか?という疑問が刺さっているのは事実です。

 


※「アーバン」という音楽用語の発祥・展開については、この記事がよくまとまっていると思います。
https://note.com/ebs/n/nc77fa2ccb05d

 

(2021.1.14)

2021/01/13

文章書きは楽器演奏にちょっと似ている

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(7 min read)

 

この文章が完成したら、ブログ用の文章ストックが54個になります(2021年1月12日時点では60個)。どうしてそんなにためこまないと気が済まないのか、自分でもわかりません。54個(60個)って、ぼくは毎日一回ブログを更新する習慣ですけど、それでも一ヶ月半以上もかかっちゃうじゃないですか。そのあいだも毎日書き続けるでしょうから、ストックは減りませんよね。

 

毎日一回必ず更新したいから、平均したら一日一個のペースで文章を書いていくっていうことを維持しないといけないわけですけど、2019年までは書かない日がけっこうありました。というのはわさみんこと岩佐美咲ちゃんのイベントによく出かけていっていましたから、イベント当日と前後の移動日は書かないんですよね。そのほか、音楽コンサートにときたま行っていましたし。

 

ところが、2020年2月末ごろからのこのコロナ禍情勢下、わさみんだけでなくどんな音楽系イベントもコンサートも、客入れするものはほぼいっさいなくなってしまったでしょう。もう毎日どこにも行かないでずっと家にいるわけですよ。それでやることがないから常時音楽を聴きながらネットやったりなどでパソコンかタブレットかスマホを触っているという具合。

 

それで思いついたことをちょこちょこメモしているうちに、いつの間にか一個、二個、三個と文章ができあがってしまうわけです。2019年までみたいに書かない日があるからその分書きためておくということじゃなくなって、どこにも行かず毎日書くのにもかかわらず、さらにやっぱり複数個書ける日もけっこうあるから、それでストックが増えていく一方なんですね。

 

完成した文章のストックと同じくらいの数、これについて書こうという意味のメモもたまっていて、これもあれこれ音楽を聴きながら、あっ、これはいいアルバムだなとか、このテーマはおもしろいかもとかで、「準備中」というメモ・ストックもやっぱり50個以上あるんですね。

 

思いついたときにすぐに書かず、一ヶ月以上が経過してから聴きなおして書く、書き上げてもすぐにはアップロードせず寝かせておいて、やはり一ヶ月半くらいが経過してから上げる(いずれも例外あり)というのは、ぼくみたいな人間にとっては文章が穏便に落ち着くという効果、メリットもあります。

 

こ〜りゃいい!と感じたそのときのもりあがっている気持ちの勢いで書くと、文章がやや激しい感じになってしまうんですね、ぼくのばあい。鉄は熱いうちに打て、とは言いますが、そうでもない面だってあるんじゃないでしょうか。熱い気持ちを封じ込めるというか忘れないようにメモしておいてから、気持ちがほどほどに落ち着いてから書くと、文章が過激化しないんですね。ぼくは語気が強くなりがちな人間ですからね。

 

同様に、書き上がったものをすぐにアップせず、一ヶ月半以上寝かせておいてからもう一回読みなおし、修正・推敲してから上げる、というのも、文章のトゲトゲしさやカドをとって丸くする効果があって、ぼくみたいな人間だと結果的におだやかな文章に決着することができて、ある意味メリットなんです。

 

上で例外もあると言いましたように、まさに「熱いうちに」打っといたほうがいいだろうと判断できるような、時宜を逃すと意味を失ってしまうような、そんなタイムリーな話題のときは、すぐ書いてすぐ翌日くらいにアップしているんですけどね。でもそんなときはちょっと心配です、ぼくはこんな人間ですから、文章がとんがってしまうのではないかと。

 

毎日欠かさず書いているという一つの理由は、だからヒマで音楽ばかり聴きながらずっと部屋にいるからで、聴いて書くことがすっかり習慣化してしまっていて、特にこれといった用事もないなんでもない日に書かないでいると、もはや一種の気持ち悪さを感じるようになっているからですけど、もう一つ、技術を維持したいからでもあります。

 

っていうのは、文章を書くのって、自転車に乗ったりするのとはちょっと違うんですよね。自転車って一回乗れるようになれば、長く離れている期間があっても、やっぱり乗れるでしょ。コツをつかめば一生いけるっていうタイプのことはほかにもあります。料理なんかもそうかな、一回おぼえたら休眠期間があってもできるっていう。

 

でも文章を書くのはそういうのよりも、楽器演奏にちょっと似ていて、しばらくやらないでいるとレベル・ダウンしてできなくなっちゃうんですね。続けていないと維持できないものなんです。そこが文章書きと楽器演奏のちょっとした共通点ですね。

 

楽器って続けていないと、いつも触っていないと、演奏力が落ちてしまう、そもそも音が出せなくなってしまうものですよね。歌もそうかな、いつも歌い続けていないと、ずっと休んだままでいると、喉や腹筋が衰えてヘタクソになってしまいますよね。それでも放置しておくと、歌うための声すら出なくなってしまいます。語学もそうですね、常に触れ続けていないと、レベル・ダウンしてしまいます。

 

それを取り戻すのには、維持し続けているのよりもはるかに強く激しいリハビリ・トレーニングが必要。文章書きというのはちょっとそういった音楽活動、語学活動に似た面があるんですね。ずっと毎日ちょっとづつでも、軽くでも、続けていれば技術を維持できるけど、休み続けているとできなくなっちゃうんで、それもあってぼくは毎日休まず書いています。

 

(written 2020.9.23)

2020/12/21

「あなたの記事が話題です!」(noteで)

Screen-shot-20201219-at-105530

(4 min read)

 

https://note.com/hisashitoshima/n/nc63a2b3c3923

 

今年一月ごろから、それまでどおりブログBlack Beautyに毎日音楽関係の文章を発表するのと同時に、そのまま同じものをnoteとMediumにも毎日公開するようにしています。ちょっとどんなもんか興味があったんですよね。そのまま現在までずっと続いています。

 

といっても、Black Beautyのほうはもう五年半以上継続しているブログなので、過去記事も相当数になっていますけど、それらをnoteなどに転載することはまったく考えていません。新記事だけBlack BeautyとnoteとMediumの三つに同時アップするようになったんですよね。

 

それで、ぼくのばあい、noteでは各記事につく「すき」(いいねのことをnoteではこう言う)がいつも2個、3個、多くても6個程度なのに、こないだ一週間ほど前に公開した「現代に再創造されたブルー・ノート・クラシックス〜『ブルー・ノート・リ:イマジンド』」に突然大量のすきが付きはじめ、こりゃいったいなんだろう?と思ったんですね。

 

そうしたら、先週木曜日12月17日の夜に、この記事がnote公式マガジン「#音楽 記事まとめ」に選ばれて、次いで土曜19日の朝には「編集部のおすすめ」に選出されたみたいなんですよね。どうりでヴューやすきが急激に爆増したわけですよ。

 

それで現在12月20日午後時点で、note記事「現代に再創造されたブルー・ノート・クラシックス〜『ブルー・ノート・リ:イマジンド』」には計50個のすきが付いています。ヴューも9千回以上。いずれもぼくにとっては異常な数です。

 

公式だけじゃなくユーザーのマガジンにも、二本か三本、追加されたりして(noteは執筆者がそう設定してある記事を他のユーザーが自由に自分のマガジンにいろいろ追加して編纂できる)、気に入ってもらえているんだなあという気がします。

 

「編集部のおすすめ」選出が土曜日だったでしょう、だから週末にちょこっとnoteにアクセスして、さてどんなおもしろい記事があるかな?とさがして読んでみるみなさんにとっては絶好のタイミングでぼくのその記事がおすすめの上位に来てしまっていたわけですよね。

 

すきやヴューだけでなく、クリエイター(とnoteは呼ぶ)としてのぼくをフォローしてくれるかたもぐんと増え、さすが公式のまとめとかおすすめとかの威力は絶大なるものがあるんだなあと、いまさらながら実感しておりますね。どうしてぼくのその『ブルー・ノート・リ:イマジンド』の記事が選ばれたのかはわかりませんけれども。気持ちの入った好記事と自分では思うものをもっと書いてきたつもりでしたけどね。

 

ブログにしろ、その更新のお知らせを書いたツイートにしろ、noteにしろMediumにしろ、好意的な反応がたくさんあればそりゃもちろんうれしいものです。これからもそんなことがあるように、日々精進していきます…、と言うところかもしれませんが、ぼくはぼくでいままでどおり、なにも変わらずずっと同じように続けていきたいと思っています。

 

音楽を聴き、楽しんで、ポジティヴな感想がうかんだものについてはちょこっと自分なりの文章を記して、公開する 〜〜 たったこれだけの、いままでと同じことを今後も同じ気持ち、同じペースで続けます。よろしくどうぞ。

 

(written 2020.12.20)

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