カテゴリー「書くということ」の31件の記事

2023/08/17

iPadでけっこう書いている

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最近はブログ用の文章もモバイル・ディバイス、特にiPadである程度書いています。といってもまだまだMac中心ではありますが、iPhoneやiPadなどちょこちょこ使うようになっているんですね。

 

サブスク中心の音楽生活になってしばらく経って以降の変化で、特にiPadをよく使うようになりました。最大の理由は「これについて書こう!」と決めたアルバムをしっかり聴き込む作業では、Spotifyのデスクトップ・アプリをフル・スクリーン表示にしてトラックリストを凝視したままだからです。

 

だからそのあいだはパソコンのほかのアプリ触れないんですよね。触れないってことはないけど気が散るから避けたい。ただひたすらトラックリストをにらんで聴こえてくる音楽だけに集中したいんで。でもそのあいだ思いついたことをちょこちょこメモするのに別の機器が手元に必要なので、iPadを使うようになりました。

 

iPhoneでもじゅうぶんいけるんですけど、ソフトウェア・キーボードのキーの大きさの問題でタブレットのほうがタイピングは容易なんです。文章執筆などには向かないという見かたの多いこうしたモバイル・ディバイスではありますが、そこは慣れです。

 

ぼくもまだまだパソコンの物理キーボードがずっとずっと使いやすいですが、数年の慣れによってタブレットの仮想キーボードもほぼ近い感覚で使いこなせるようになりました。音楽記事執筆だけでなく日常からさまざまな用途に頻用しているからこその慣れですけどね。フリック入力ではなく(パソコンと同じ)QWERTY配列のローマ字ソフトウェア・キーボードをやはり使っています。

 

最初はショート・フレーズを単発的にパラパラっとメモる程度だったのが、だんだんセンテンスやパラグラフ単位でメモするようになり、っていうか最初からそういうかたまりであたまに浮かぶように最近はなっているので、それを連続しているうち気がついたら完成品の約半分から1/3程度はiPadでのメモ段階で執筆終了してしまっていることもあります。

 

それをそのままMacに移し、というかぼくの使っているテキスト・アプリBearは複数端末に同じものがあってiCloudで中身を自動シンクロしてくれるので、続きをシームレスにMacで書いて仕上げるといった具合です。

 

そう、Bearというテキスト・アプリはほんとうに便利で、Apple製機器で動作するもののうちではベストだろうと信じています。なによりいいのはMac、iPad、iPhoneと三つにそれぞれ同じBearアプリが用意されていて、年額¥1,500のサブスクで三つ間でのテキスト内容自動シンクロが実現するところ。

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これがあるからこそ、あっちで書いたりこっちでその続きを作業したりが可能なんですからね。テキスト画面も美麗でひたすら心地いいし、これ以上のテキスト・アプリはApple機器の世界に存在しないと断言したいくらいです。

 

そんなわけで、たとえば外出先のカフェやレストランで音楽聴きながら思いついたことはささっとiPhoneで書いておくし、そのメモが自宅ではそのままMacとiPadにあるし、部分的に二種のモバイル端末でちょこちょこやりながらiPadでかなりな部分書いちゃうっていうのが最近のぼくの執筆生活です。音楽と文章はどこにでも持ち運ぶというそんなスタイル。

 

(written 2023.7.31)

2023/03/16

誹謗中傷コメントはやめましょう

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(4 min read)

 

おととい小倉優子の記事にも一個ついたんですけど、ひどいこと書いてあるコメントが当ブログに寄せられることもたまにあります。尊厳を侵す人格否定に近いようなものはできればおやめいただきたいと思います。ののしったり、ブログの存在意義や人間としての自尊心を毀損するコメントはよくないですよ。

 

ここはコメントを承認制にしておらず、どんなことでも書いてボタンを押した刹那その場でそのまま表示される仕組みにしてあります。意味不明の文字記号列がならんでいるだけというようなスパム・コメント以外は削除せず、なんであれすべて表示してきました。

 

たとえこういう個人の趣味ブログでも、だれがどういう発言をしたのか、意味のあるものならどんな内容でも記録文書を残して公開し、みなさんの目に触れるようにしておくのが重要なことだと思っているからです。

 

なかにはかなりなことが書いてあるコメントも以前からあって、ぼくは日本人なんですけど人種差別的に「中国人か!」とか、あるいは「言説がガイジしている」(ガイジとは障害児の蔑称)とか、さまざまにありました。すべてそのまま表示してあります。

 

投稿者名の欄だって空欄でもいいということにしてあって、意見を言いたいかたがたのなかには、なんらかの事情があって名乗れないとか、コメント・ネームすらむずかしいといったケースもひょっとしたらあるんじゃないかとおもんばかってのことです。

 

ですから無記名や匿名でひどいことを書くかたもなかにはいらっしゃいますよね。人間なんでも勉強だ、最低の劣悪コメントからも学ぶことがある、それを踏まえて人間としてブロガーとして成長できる、すべては肥やし、と思って甘受してきましたし、また衆人の目にさらしておいてあげようというちょっぴりイジワルな気持ちもぼくにはあってですね。

 

代わりにというか、書き手のぼくのほうも書きたいことを書く、いっさいなんにも気にせず自由になんでも書いてのびのび公開したいし、じっさいそうしてきました。それを世界中のだれもが読める状態にしてあるわけですから、イビツな、お笑いぐさの内容であれば、それなりのコメントがついたり、「もう読まない」と思われたりもするでしょう。

 

どうあれ、これからも自由に書いていきたい、どんな内容であれ言いたいことを言っていきたいと思っていますから、したがってどんなコメントが来るかわからないと、それなりの覚悟みたいなものを持っているわけです。つまりハラをくくっているので、ですから、いいんですけど。

 

それでもできうればあまりにもひどい内容をいっときの感情が走るがまま書きなぐってボタンを押すなんてことは、それをやる前に一瞬立ち止まり冷静になって考えていただきたいのです。熟慮のあげくやっぱりこれは言っとかないといけないと判断したものならいいです。

 

わが子のように大切に大切に育ててきたブログです。コメント欄も交流の場だと考えて開放してきましたが、ひどい内容が今後も続出するようであれば承認制にするか全閉することになるかもしれないし、誹謗中傷の度が過ぎているものは法的措置を検討せざるをえない可能性だってあります。各コメントのIPアドレスはすべてわかっていますから。

 

(written 2023.3.15)

2023/03/06

土日は休みます

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(3 min read)

 

2015年9月3日以来23年3月6日現在まで9年近く、総記事数2740以上、マジで一日も休まず、なにがあってもどこにいても、更新し続けてきたこのブログ Black Beauty 。今週から土曜日曜はお休みすることにしました。平日(祝日をふくむ)はいままでどおり書いていきます。

 

といいましても昨年11月来毎前夜23時に上がるよう予約アップロードを設定していますから、正確には金曜深夜と土曜深夜の更新をお休みするということになります。実質的に日付が変わったタイミングの土日がお休みということで。

 

毎日更新するということは平均して毎日一個以上の新記事を必ず書かないといけない計算で、そのための題材(新作アルバムなど)も毎日一つ以上見つけなきゃならないわけです。いままで9年近くそれを日々たゆまずずっと実行してきました。

 

が、60歳を越えてさすがにちょぴり息切れ気味になりはじめていて、完全に息切れて終了しちゃうとヤバいので、この先さらに10年15年とブログを持続していくためにこそ、余力のあるうちにレギュラーな休息タイムをつくっておいたほうがいいだろうと思いました。

 

だいたい映画を観にいくことすらできなかったですからね。もちろんちょこちょこ映画も遠征ライヴも行っていましたが、そのためには日に二つ三つと書きためておかなきゃダメで、それがむずかしいときはストックを減らすばかりで、やっぱり精神的にちょっとあれです。

 

いまこれをとても聴きたいぞっていう音楽があっても、執筆準備のためにはこっちを聴かねばと思ってガマンするということもあったりしてですね、ですから自分の気の向くままの音楽リスナー生活を送りたいわけです。長年自由な聴取時間はお風呂上がりから寝るまでにかぎられていましたから。

 

9年近くほんとうに一日も休まず続けてきたので、来訪してくださるみなさんにそろそろちょっとは認めていただけているんじゃないかという現状認識が(アクセス解析など見れば)なんとなくあります。休まない毎日更新と自分で決めたルールにみずからしばられるのはバカらしいですから。

 

本格論考でなくていい、軽く短い感想文でいいんだぞとこのごろは自分に言い聞かせるようになりましたが、それでも根っからの作文好きという小学生時分からの傾向はあいかわらずで、なんども聴き込まないと書けない性分ですし、ね、だから、ちょっとお休みしてもいいでしょ?

 

(written 2023.3.6)

2022/10/29

スマホとソーシャル・メディアが日本語の表記を変えた

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(6 min read)

 

ここ10年くらいは日本語表記の変革期で、ぼくらはそれをリアルタイムでじかに目撃しながら生きているんだという実感があります。

 

近代日本語史でみればこの表記変革は、おそらく明治期の言文一致運動、そして第二次大戦後の1946年11月16日、内閣訓令第8号&内閣告示第33号により現代かなづかいと当用漢字が制定されたことの二回、かな漢字文がガラリ一変して以来の大きなものじゃないでしょうか。

 

2010年代以後のこの変化は、もちろんスマートフォンやパソコン、特にスマホのビッグ・バン的大普及により書記法がデジタル機器に任されるようになり、それでもって同じころブームになってすっかり定着した感のあるソーシャル・メディア(Twitter、Facebook、Instagram、LINEなど)にみんなが日々なにかを書くようになったことに起因するものです。

 

そうなる前は、文章を書くのが習慣だっていう人間のほうが例外的でした。毎日どんどん書いているなんていうのは作家か、なにかのライターか、新聞や雑誌などの記者のたぐいとか出版関係者とか、学者研究者教師など、限定されていて、そういったみんなのあいだでは書きかたの一定ルールみたいなものがコミュニティ内の学習伝播により共有されていました。

 

もちろんそうじゃなくとも日記(的なもの)をつづる習慣のあるかたもいたでしょうが、そういったひとがどう書くかっていうのもプロ作家などの書きかたにある程度倣っていたんじゃないかなと思うんです。読書習慣がなければ書こうと思わないですし。

 

それをデジタルかな漢字変換システムとソーシャル・メディアの普及が一変させたんです。あちこち見ていると、どうやらこれは日本語ユーザーのあいだだけでの話でもなく、各国語で同様の表記法変化があるようなんですが、きょうは日本語だけを話題にします。

 

スマホとソーシャル・メディアにより日本語の表記がどう変わってきているか、個人的にことさら目立つなと思う部分だけ思いつくままピック・アップして箇条書きにしておきました↓

 

・中黒(・)を使わずベタっと続ける
・書題などに二重括弧を使わず
・句点(。)なしで文を終わる
・読点(、)も省略したり
・その代わりに改行する
・その際一文字の段下げはなし
・「何」「無」の必然性のない多用
・変換システム任せで漢字を頻用する
・手書きではムリな難漢字の使用
・絵文字、顔文字
・日用的なしゃべりことばの流入(している → してる, etc)
・歴史的仮名遣はかえってやりやすくなった

 

歴史的仮名遣の使用は2009年にやめ、そして上述のような新スタイル書記法をあまり使わず以前どおりの書きかたをソーシャル・メディアでもやっているぼくなんかは、もう旧弊っていうか古いタイプの書き手だってことなんでしょうね。文末を句点かなにかとにかく約物でしめくくらないと生理的にムリだっていう。

 

句読点については、通常の文章で省かれるようになったのと時を同じくして「モーニング娘。」「藤岡弘、」といった表記が、それもオフィシャルで採用されるようになったのは興味深いところ。モー娘。だってぼくがファンだった90年代末〜21世紀初頭はこうじゃありませんでした。

 

大勢のみんなが毎日のようにどれかのソーシャル・メディアで日常のことや好きなこと趣味のことを書く、つながっているひとたちがそれを目にしていいねしたりコメントし会話になる、っていうのは、思わぬ副反応を引き起こすケースがあるものの、悪いことじゃないと思います。

 

なにより日々が楽しくなりましたし、アドバイスや情報ををもらえたり共感されたりして助けられます。デジタル執筆機器の普及前にライティング・スタイルを確立していたぼくみたいな人間は変換システムにイラつくこともあるとはいえ。

 

言語や書記法の、時代にあわせての変化や流転に、「よくなった」「悪くなった」「正用/誤用」なんてものはありません。保守的・規範的な考えかたを持っていると(ぼくもそうですが)ちょっとさびしいとか枠から外れたとか感じたりしますが、川の流れのようなものをおしとどめることなどだれにもできないのです。

 

それにだいたいぼくがいまこうやって書いて、その行為じたいはむかしから紙にインクというやりかたで実行していたものですが、それもデジタル機器の使用によってはるかにやりやすくなったし、さらにそれをソーシャル・メディアやブログなどで公開するなんてのはもちろんパソコンやスマホがないと不可能。

 

毎日こんだけ大量の文字情報がWebにあふれかえってカオスと化す、なんていう世界はぼくだって想像していませんでた。精査も推敲も淘汰もされていないそれはたしかに玉石混交というかゴミみたいなものだってたくさんありますけれども、「みんなが書けて発信しコミュニケートできるようになった」というのはすばらしいことに違いありませんから。

 

紙にインクで、という世界はべつにどうといって変わっていないと思うんですが、日常の言論活動は主にインターネット空間でやるというのがあたりまえになっている現代において、これはとても大きな変化だと思うんですよね。

 

(written 2022.10.4)

2022/10/08

「やる気がなくてもやりはじめる」がやる気を出す唯一の方法

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(3 min read)

 

ということを、八年以上一日も休まないブログ更新でぼくも経験上実感しています。心構えとしておっしゃるかたは多く、科学的にも立証されていることみたいですしね。世のなかには「やる気さえ出れば…自分だってやれるんだ…やる気スイッチどこ…」とかぼんやり考えているひともいるかもしれませんけど。

 

やる気なんてちっともなくても「とにかく開始してみる」「とりあえずまず仕事にとりかかる」ということが肝要なんです。そうすればですね、やっているうちにじわじわとやる気が湧いてくるし、徐々に気分が乗ってくるんではかどりはじめるからさらにやる気が増すっていう相乗効果。

 

なにもせずただじっとたたずんで「さぁ、やらなくちゃなぁ」と思っているうちはやれるわけありません。ぼくのばあい音楽聴いての感想を書くのが日課なので、まずその音楽をかけて、テキスト・エディタを開き、キーボードをなにか打つ 〜 これをまず、なにも書く気がしなくとも、開始するんです。

 

そうすれば、じわじわちょっとづつことばを重ねていくうちに芋づる式に文章が自然に出てきますから。なにもせず、エネルギー充満になったらはじめよう、なんていう考えでは人間なにもできません。まずとりかからないと。やっていればやる気は自然についてきます。

 

つまり「やる気 → 行動」の順番ではなく「行動 → やる気」です。これしかない、間違いないというのを個人的には日々の執筆活動で骨身に沁みて痛感するようになったので、それ以後はこのポリシーでやっていますね。そして実効性のある正しい行動原則だというのもわかっています。

 

おしゃべりなんかでも、しゃべっているうちに気分がぐいぐい乗ってきてハイになり、ますます調子があがって饒舌が増すということはよくあるし、楽器奏者のインプロ・ソロなんかでもそうじゃないかと思うし、一般歌手、たとえばぼくも現場をよく知る岩佐美咲なんかも出だしの1曲目はまずまずだけど、2、3曲目とノリがよくなってきて歌の内容がアップするのをほぼ毎回目撃(聴撃)していました。

 

やっていれば、はじめてしまえば、やる気が自然と出てくるんです。それによって仕事の質が向上し、ちゃんと完成しますから。だから(やる気のあるなしにかかわらず)とりあえずまず開始しないとね。すべてはそこから。

 

(written 2022.8.8)

2022/10/04

譜とか盤とか

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っていうことばを、ぼくは(フィジカルに言及するときを除き)まったく使わなくなりました。「譜」のほうはどういうケースでも全然言わないんじゃないですかね。みなさんわりと「新譜」「新譜」って言っていて、それはそれでぜんぜんOKなんですけども。

 

ぼくがなぜ新譜と言わないかっていうと、音楽の新作リリース = 楽譜出版のことだった時代、つまり録音技術発明とレコード産業確立の前の時代の名残であるにすぎず、20世紀以後は実態がなくなったことばだからです。いまだって楽譜(シート・ミュージック)も同時出版されているかもですけど。

 

もちろんことばの世界って指し示す実態がなくなっても表現だけ生き続けるものではあります。個人的な感覚では「新譜」だけでなくどんなばあいでもシニフィエが消えてしまったシニフィアンをあまり使いたくないというのが正直な気持ちで、そういう人間なんです。新時代には新時代のことばをっていうか。

 

だからとても個人的なフィーリングなので、新譜とみなさんおっしゃるのに対してどうのこうのという気分はまったくありません。それは楽譜のことなんだけどな〜、みんなも録音された音楽を聴いているんでしょ〜とは感じますけど、ぼくだけが思うこと。

 

ところで音楽そのものは人類史と同じだけの歴史があるはずですが、記譜法が発明されたのは音楽誕生後しばらく経ってのことでで(古代ギリシアにはすでに記録法があったらしい)、いまでは世界で最も普及している西洋式の五線譜スタイルとなればさらにずっと時代がくだって、近代の発明品ですよね。

 

紙にインクでという印刷技術が普及するのは15世紀のことで、バンバン刷る大量生産品として商売になるように確立したのはその後18世紀末になってようやく印刷機械能力が大幅に向上してからなので、楽譜出版が音楽産業の柱として樹立されたのもそれからの話だったでしょう。

 

これは西洋近代音楽の一般市民への開放と時期的にピッタリ一致するので、おもしろいですよね。音楽だけでなく文化一般が市民へも日常的に行きわたり、みんなが楽しめるようになったのが19世紀ごろのことですから、だから楽譜出版がメインだった時代、「新譜」ということばがリアルな実態をともなっていた時代は、あんがい短かったのかもしれません。

 

「盤」のほうはですね、レコードとかCDといった平らな回転式円盤のことでしょうから、いまでもけっこう根強い人気を持ち続けている(人気再燃しつつある?)カセットテープのことなんかは排除されてしまうわけです。音楽を再生する装置と物体はほかにも各種ありますし、サブスクで聴くのにも「盤」はおかしいし。

 

「名盤」とかそういった表現でサブスク全盛の現代でも現役のことばではありますが、やっぱりもうフィジカルではあまり聴かなくなったぼくみたいな人間としては、たとえばそれを「名作」と言い換えれば済むじゃないかと思え、実態のないことばを使い続けるのには個人的に抵抗あるんです。

 

なかにはサブスクで聴いているだけと自他ともにわかっているのに名盤と連発したりするケースも散見され、あなたそれ、どこにも「盤」がないぞ、表現を検討し練りこまないのか?ましてやライターだったなら、とかぼくとしては感じちゃいますが、だいたいソーシャル・メディアでの発言なんかはまぁみなさんそんなもんみたいです。

 

べつにいいんですけど。ぼくだけの書法スタイルなんで。

 

(written 2022.9.3)

2022/08/12

ディスクで聴くか、アプリで聴くか

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※ 写真は2022年現在使っているMacBook Air

 

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2015年9月にブログをはじめたおそらく最大のきっかけは、その前年秋に内蔵ストレージ容量1TBのMacBook Proを買ってどんどんCDをインポートするようになったことだったんじゃないかと、いまでは思います。iTunesアプリで聴きまくるようになったんですよね。

 

それまではというと内蔵ストレージたった180GBのMacBook Proを使っていて、あれを2011年初春に買ったときは、それまでのiBookが突然ダメになってあわてて、緊急避難的な意味合いでの購入だったので、経済的に余裕がなかったから最低容量のしか用意できなかったんです。

 

だからiTunesもジュークボックス的な使いかたはしていなくて、ただマイ・ベスト・コンピレCD-Rを作成するためだけに必要なCDのその曲のみをインポートして、焼き終わったらファイルは削除するとか、そうしないとストレージが満杯になったらヤバいわけですから。

 

あとはiPodに音楽を移すためなのと、ほんとうにそういった目的でしかiTunesは使っていませんでした。つまり、自宅にいるときはほとんどの時間ディスクで音楽を聴いていて、もちろんサブスク・サービスなんてまだないし、だからCDやレコードなど買うしか自宅で音楽を聴く手段はなかったです。

 

ぼくがダウンロード購入に対し以前からかなり消極的なのも、ひとえにこの内蔵ストレージの容量制限のせいです。ダウンロードしたらそのファイル分空容量が減りますから。もちろんそれをCD-Rに焼いてその後デリートすればいいんですけど、だったらハナからCD買ったほうがいいかなと。

 

そんなところへもってきて、いきなり1TBストレージのパソコンを買ったから、喜んでどんどん次から次へとCDをインポートしまくるようになって、もうそれしていない日はなかったといっていいくらい。外付け(しかMac界には当時からもはやなかった)光学ドライヴを酷使しすぎたせいで、一回おしゃかになって買いなおしたほどですもん。

 

いくら入れても入れても1TBの空間は広大で、満杯になったりせず、それでもしかし限界はやはりあるわけで、800GBくらい音楽ファイルがたまったあたりの時点でなにかメッセージというかアラートみたいなのが出ましたから(ストレージ空容量がもうないぞとかなんとか)そこでやめました。

 

それで、その後は主にiTunesで音楽を聴くようになったんですよね。それが2014年暮れ〜15年初頭ごろからの話。ディスクだけで聴いていてはどうしてもぼんやりしてしまってなんとなく流れていってしまうところ、アプリで聴けば進行する1秒1秒を分析的に聴けるわけですから、音楽への接しかたがぼくのなかで変わりました。

 

あたまに浮かんだ感想とか考えをメモとして書きとめTwitterに投稿するようになって、連続ツイートみたいになっていったから、それをあとからまとめて整理してテキスト・エディタでファイルとして保存したのが結果的にこれまたどんどん増えていくようになりました。

 

それをそのまま自分でながめているだけでも楽しいけれど、それだけじゃちょっともったいないかもな、公開はTwitterでしかしていないけどそもそもどんどん流れていってしまうサービスで蓄積型じゃないし…、と思いはじめ、しばらく経ってその気になったのがこのブログBlack Beautyです。

 

(written 2022.7.6)

2022/04/09

カテゴリー分けをやりました

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(3 min read)

 

ちょっと前にやったことなので既にお気づきのかたも多いでしょうが、長年ノン・カテゴリーで、というかぜんぶ「音楽」にして、すべての記事をべたっと平たく並べてきたこのブログBlack Beautyも、とうとうカテゴリー分別を実施したわけです。

 

・コーヒー
・ジェンダー
・プリンス
・マイルズ・デイヴィス
・原田知世
・岩佐美咲
・自分語り
・音楽

 

これは表示順です。ほんとうだったら記事数の多い順とか重要に思っている順とかに並べかえたかったですが、どうやらこのココログ(@niftyのブログ・サービス)ではそれができないみたい。

 

パソコンでアクセスなさっているみなさんは右サイド・バーにカテゴリー一覧が出ています。スマートフォンでごらんならば右上のオレンジ三本線をタップするか、

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記事一覧下にある「このブログの人気記事ランキング」の下の「カテゴリー」をタップしてください。

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カテゴリー分けをしたといってもこういう状態なので、なおも九割が「音楽」のなかにごた混ぜになったままです。しかしここをさらに細かく分類するという気にはなれませんでした。相互関連していたり複数の音楽家やジャンル、地域を横断していたりで、整理不可能と思えました。

 

それでも、これも音楽に違いないマイルズとプリンスと知世と美咲を別枠にしたのは、特に数が多いということと、熱心にそればかり聴くオタク的ファンがついていて、それ関連の記事だけまとめて読みたいという声をいただくことがありました。

 

大切に思っていて記事数が多い音楽家は、ほかにもルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどいくつもありますが、分別しすぎは性に合わないので。個人的に上の四人はほんとうにスペシャルな存在です。

 

コーヒーとジェンダー。前者は二個しか記事がありませんが、音楽の話題じゃないし、分けとかないと埋もれてしまうと思い(ぼくの人生で最も重要なものの一つ)。後者はそこそこ記事数があって、2019年来の個人的問題意識を反映しています。性や外見などに関連する偏見や差別を語った記事を書くようになり、なんとか読んでもらいたいと思うようになったのも、カテゴリー分けを考えたきっかけです。

 

自分語りは、ぼくが発達障害の当事者、なかんずくASD(自閉スペクトラム障害、俗に言うアスペルガー)であることを、やはりちゃんときわだつように言っておきたい、そうでないとなにかとコミュニケーションに齟齬が生じたり誤解されたりして、たがいにつらい思いをすることが人生で多かったので。

 

そして、ぼくのそういう部分は、音楽にどう接しどう聴いているか、どんな音楽が好きかといったことをおおいに左右してきたと、いまでは思います。

 

(written 2022.4.8)

2022/02/19

オギとハギ

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(3 min read)

 

荻原さんブログ → https://bunboni58.blog.ss-blog.jp
萩原さんブログ → https://kenta45rpm.com

 

音楽関係で、bunboniこと荻原和也さんと、萩原健太さんのそれぞれブログは個人的に最大の情報源なんですけど、お名前を書くときに、ぼくは漢字の「荻」(オギ)と「萩」(ハギ)という二つの字体を区別できない人間なんですね。

 

書くときだけじゃなく読むときだって、どっちの漢字が来てもあれっオギだっけ?ハギだっけ?ってわからなくなってしまうっていう。

 

ある種のビョ〜キかと思います。

 

この二つの漢字の違いを(デジタル・ディバイス普及前に)ちゃんと学ばないままこの歳まで来てしまったからなんでしょうねえ。よく似ていてまぎらわしいといえばそうじゃないかとは思うんですが、お名前の漢字表記を間違えるなんて、やっぱりやっちゃいけないことですから。

 

といってもMacのかな漢字変換システムに任せてあるんで、おぎわら/はぎわらでスペース・キーを打って出てきたのをそのまま使っているだけなんですが、その際にじっくり確認しなおさないのがよくないんですよねえ。パッと見、一瞬ではわかりにくいような感じですからなおさら。ゴメンナサイ。

 

オギワラさんに一度指摘されたばかりか、ハギワラさんにも、直の指摘じゃなかったんですけど一、二度ご自身のブログ記事中カナ書きで「ハギワラです、よろしく」みたいにおっしゃってあったのは、ひょっとしてそういう意味だったのかも?という気がして、心配で。間違えたこと、ありましたっけ?

 

実を言いますと、ぼくもよく名前の漢字表記を間違えられる人間で、「戸嶋」(としま)なんですけど、頻繁に「戸島さん」「豊島さん」と書かれます。以前はそのたびに修正していましたが、多くてキリがないし、ぼくを呼んでくれているには違いないと思うから、あまり言いにくくなって、最近は。読みだって「とじま」「こじま」と言われることがかなりあります。

 

書きでも読みでも名前を間違えられるとやっぱり気分よくないっていうのをだれより自分自身が長年経験し続けてきているというのに、荻原/萩原を間違えちゃいけませんよね。コツとしては、くさかんむりの下が「あき」なのがハギってことですか。オギはけものへん。まぁそれしか違わないわけですが。

 

実際問題、書くときはパソコンやスマホの変換機能に任せてあります。だからシステムの辞書が間違っていなければ出てくる文字は正しいはずと思いますが(じゃあなぜ以前は一度間違えた?)、テキスト・アプリに表示された漢字をしっかり確認しなおす習慣をつけることにします。

 

荻原さん、萩原さん、今後ともよろしくお願いします。

 

(written 2022.2.5)

2022/02/13

そばに音楽があればいい

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(6 min read)

 

たとえばマイルズ・デイヴィス。1975年夏の一時引退前はもちろんのこと81年の復帰後もしばらくのあいだ、コンサート・ステージで自分の順番じゃないあいだはバンドの演奏が進行中でもソデにひっこんで休憩しちゃうひとでした。

 

たぶんタバコ吸ったりボ〜ッとして、べつなことしたり、あるいはスタッフとしゃべったりもしていたかもしれませんが、そんなあいだもステージでバンド・メンバーがくりひろげている演奏はボスとしてちゃんと聴いてチェックしていて、終演後に気になるメンバーを呼んであれこれ指導していたんです。

 

もちろん自分が演奏しているあいだとか、あるいはスタジオでのレコーディング・セッション中とか、よそ見しながらやっていたわけじゃなかったんでしょうけど、音楽は「音」で(聴力障害がなければ)耳で聴くものですから、だから聴いているあいだ耳だけ集中して、あとは目でなにを眺めていても、手で作業していても、べつにいいんじゃないでしょうか。

 

耳さえ研ぎ澄まされていればですね。毎朝7時前に起きて毎夜24時すぎに寝るまでずっと音楽が止まらず鳴りっぱなしというぼくのばあいだと、その間、ごはんつくって食事したりトイレとかお風呂とか洗濯とか掃除とか、日常生活があります、当然。

 

手が空いてゆったりすわっていてもやっぱりネットでソーシャル・メディアのタイムラインを眺めていたり投稿したり、テキスト・アプリでブログ記事を書いたり、とにかくなにかしていますが、なにをしていても音楽はノン・ストップで流れています。だから、集中して聴いている時間とBGM的になっている時間とがありますね。

 

しかしBGM的なというか流し聴きになっているあいだも、耳は聴こえてくる音楽に集中していて、むろん水を使ったり火を使ったりすれば音が出ますから、重なって背後の音楽のほうはやや聴こえにくくなります。そんなときでも、ふと耳に入ってきた音にハッとする瞬間というのがあって、それをきっかけにアイデアがわき、まとまった文章をしあげることにつながったりも。

 

音楽キチガイというか音楽中毒者は、片時も音楽がない状態は耐えられないっていう人間でしょうから。ちょうど麻薬中毒者がその血中濃度が下がってくるとガマンできなくなってくるように、音楽が鳴っていない時間というのが考えられないっていう、そういうもんじゃないかと思います。

 

すくなくともぼくはそう。自宅にいてなにかしている最中にアルバムとかプレイリストの再生が不意に終わって無音楽になったら、とたんに不安になったりイライラしてしまいます。どんなときでも常に聴こえていてほしいから、実際そうしています。

 

するとですね、ディスクだと再生がいったんは終了する限界時間というのがありますよね。レコードだと片面30分未満くらい、CDならギリギリ詰め込んで最大80分。そこで裏返したり取り替えたりという作業が来ますけど、それがすぐにできない、手が離せない状況というのが日常生活にはそこそこあります。

 

もちろんサブスクだって、リピート再生や終了後に続けて関連曲を流す設定にしていないなら(ふだんぼくはしない)、短めのアルバムなどはそこで終わるから、また別のものをクリックする必要があります。ってことは本質的にディスクで聴くのもサブスクで聴くのも同じではあるんですが、ディスクだとリピート再生設定なんかはできませんよね。長尺のプレイリストを流しっぱなしにしておくということも、できない。

 

サブスクで途切れなく音楽を耳に入れていて、だからもちろん流し聴きの時間もあるけれど、毎日数時間はパソコン画面でSpotifyアプリで表示されるジャケット+トラックリストをジッと凝視したまま微塵も動かず、集中して聴いている時間もあります。パソコンが立ち上がっているけれど、SNSもWebブラウジングもなにもしないで、サブスクで音楽だけに集中して聴き込んでいる時間というのがですね、あります。

 

ディスクだって、パッケージを裏返して眺めたり、ブックレットなどを取り出してテキストを読んだり写真を楽しんだりなどしながら聴いているわけでしょう。ぼくはそうでしたけど、たぶんみんな同じなはず。それがいいんだ(音しかないサブスクに対する)フィジカルの利点だって、いまやみんな言っていますからね。

 

だから裏返せば、音しかないぶん、サブスクのほうが音楽(オーディオ・データ)だけにじっくり正対して向きあうにはいいのかも?というのも日々痛感していることです。

 

サブスクだと演奏パーソネルや各種情報、クレジット関係が(一部しか)わからない、ストーリーを語ったテキストも美麗な写真類も付属しないというのは、間違いなく大きなデメリットですけどね。そこはなんとかならないんですか?> SpotifyさんやAppleさん。

 

(written 2022.2.3)

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