カテゴリー「歌手は歌の容れ物」の3件の記事

2017/04/23

歌手は歌の容れ物(その4)〜 ジャズ楽器奏者篇

 

 

 

 

一切誰にも頼まれていないのに、僕が勝手に自分でシリーズ化して自分だけが得意満面のいままで三回は全てヴォーカリストの話だった。今日はジャズ楽器奏者について似たようなことを書いてみたいと思う。しかしこう言うと、<歌の容れ物>みたいになれるのはポップ・シンガーの場合であって、ジャズ楽器奏者は原曲のメロディを崩しまくるどころか、自在なアド・リブを展開するのこそが命の人たちなんだからありえないというのが普通の感覚だろう。

 

 

最近の僕は、というよりも実はわりと早く大学生の頃から、ジャズについてだけ、似たような発想があった。それはジャズ・メンがやりたがるウィズ・ストリングスもののことだ。ああいったものはシリアスなジャズ・ファンや専門家のあいだでは「極めて」評価が低かった。極めて低いなんてもんじゃない、ほとんどとりあげられすらもしないような具合だった。大学生の頃からこりゃオカシイぞと僕は感じてきたんだよね。

 

 

ジャズ・メンがやったウィズ・ストリングスもので最も有名なのは、チャーリー・パーカーのものとクリフォード・ブラウンのものだろう。前者は1947〜52年のヴァーヴ録音、後者は55年のエマーシー録音で、どっちも『〜〜・ウィズ・ストリングス』のアルバム名でリリースされている。僕はどっちも素晴らしいとむかしから思っているのだが、その頃までのほとんどのジャズ専門家はクソミソに貶すだけ。

 

 

それでも一般のジャズ・リスナーまで同じだったかというとそんなこともなく、弦楽器アンサンブルのサウンドが好きで、流麗なその響きに乗ってバードやブラウニーがスタンダード・バラードを美しく吹くそれらのアルバムの愛好家は、僕だけじゃなく、かなりたくさんいたという実感がある。しかしながら、あれらは全て<駄盤>だとする専門家の言説が流布していて影響力を持っていたので、好きだとおおっぴらに言いにくかっただけだ。だから愛好家はみんな地下に潜伏して話をしていた。

 

 

さすがに専門のジャズ・ライターさんで、いまでもそういう故粟村政昭さんみたいなことを言う人は、一部例外を除き残っていないように見えるのだが、厄介なのはそういった過去の文章はいまでも、特に比較的お若い方で、1940〜60年代のジャズを最近聴きはじめた人たちのあいだでこそ読み継がれていて、結構信じられているみたいなんだよね。

 

 

僕たちの世代は以前からそんな文章をたくさん目にしてきて、おおやけには言えないものの内心は、これほど美しい音楽を<駄盤>の一言で切り捨てる(のは実は粟村さんだけだったが)ことのできる神経なんて、これっぽっちも理解できないぞ、本当はあなたの音楽的感受性になにかが決定的に欠けているんじゃないでしょうか?という気分で(が、それを粟村さんに向かって言えないだろう?)ウンザリだったのだが、モダン・ジャズを最近聴きはじめた人たちにそんな気分はないはずだから、そのまま鵜呑みにしちゃうんじゃないかな。

 

 

それにはっきり言うがいまだって、専門のジャズ・ライターさんたちが『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』や『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を激賞し、どこがどういいのか詳細に書いている文章にはお目にかかれない。極端にひどい悪口も言われなくなったかわりに、なかなか褒められもしないので、やっぱりああいうウィズ・ストリングス・アルバムの真価が(一部を除く)ジャズ・リスナーのあいだに伝わっていないかもしれない。

 

 

そこで今日僕が…、なんて大それたことのできる能力も気持もないが、少し書いておきたいのだ。それらのジャズ・メンがやったウィズ・ストリングス・アルバムがどれほど素晴らしいものなのかということをね。影響力ゼロの僕みたいな素人がいくら賞賛の言葉を重ねようと、ファンが増えるなんてわけないだろうけれど、長年の鬱憤を吐き出してウサ晴らしをしておきたい気持ちもあってさ。

 

 

ウィズ・ストリングスものをやったジャズ・メンは、もちろんバードとブラウニーだけでない。ディジー・ガレスピーのもの(1952年『ディジー・ガレスピー&ヒズ・オペラティック・ストリングス・オーケストラ』その他)や、スタン・ゲッツのもの(61年ヴァーヴ盤『フォーカス』)も有名だし、あるいは比較的最近なら、復帰後1980年のアート・ペッパー『ウィンター・ムーン』や、84年ウィントン・マルサリス『ホット・ハウス・フラワーズ』もあって、全て悪くないと思う僕は、単にストリングス・サウンドが好きなだけってことなんだろう。

 

 

だが『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』と『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』、特に後者ブラウニーのものが一番傑出していると僕が考えている最大の理由は、このトランペッターがまさに<歌の容れ物>になっているという部分にあるんだよね。このアルバムでのブラウニーは全く一切アド・リブ・ソロを吹いていない。収録の12曲全てがスタンダード・バラードだが、その原曲の美しいメロディをそのままストレートに歌い上げる(吹き上げる)だけなのだ。

 

 

一切アド・リブ・ソロを吹かないというこの点も、ストリングス・サウンドは甘ったるく、安易で不必要なコマーシャリズムに堕すものだという勘違いと一緒になって、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』が駄盤扱いされてきた大きな理由に違いない。そりゃそうだろう、だってソロを吹かないジャズ楽器奏者の作品なんてねえ、評判が悪いに決まっている。

 

 

全人類共通の認識だが、ブラウニーは自由自在で奔放なインプロヴィゼイションを駆使できまくる才能が最高級だったジャズ・トランペッターだ。ジャズ・トランペット全録音史上、彼を上廻っていると判断できるのは、1920年代後半のルイ・アームストロングだけ。それほど20年代後半のサッチモ(がナンバー・ワン)と50年代半ばのブラウニーはものすごかった。そりゃもうなんでも自在に即興演奏できて、しかもその即興メロディが、あたかもあらかじめ作曲されていたかのような完璧な構築美に聴こえるもんなあ。

 

 

そんなジャズ・マンだったブラウニーが一切アド・リブ・ソロを吹かず、美しいストリングスの流れるような響きに乗せて、スタンダード・バラード原曲のメロディをフェイクせず、ただひたすらその原曲の美しさをそのまま表現しているだけだっていう、そんなアルバムを創ったのだっていう、この事実の意味を一度真剣に考えてみてほしい。

 

 

いや、別になんらかの深い意味なんか考えなくたって、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を一度でも虚心坦懐に聴いてみれば、<普通の>音楽愛好家であれば、そのサウンドの美しさに降参するはず。こりゃもうたまりませんとなってしまうはずだ。それほどの美しさを、このアルバムのブラウニーのトランペットは表現している。

 

 

もしまだお聴きでない方のために、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』からちょっとだけ参考音源を貼っておこう。書いているようにアルバムの全12曲がことごとくスタンダード・バラードなんだけど、なかでも特にブラウニーのトランペット・サウンドが絶品の音楽美を表現していると僕が思っている二曲を。

 

 

 

「ポートレイト・オヴ・ジェニー」https://www.youtube.com/watch?v=-_CEARXm9-U

 

 

これら二曲を、予備知識なしで誰か(面倒くさいことを言わない)音楽好きに聴かせれば、全員がノック・アウトされ、なんて美しい吹き方ができるトランペッターなんだと感動するはずだ。実はわりと最近、三週間ほど前かな、ジャズ・メンがストリングスと共演したものがダメだという評価はオカシイとツイートするサム・クック狂(本当にキチガイなのだ ^^)の方と話をしていて、しかしブラウニーのはまだ聴いていないと言うので、上掲二つの音源を貼ってご紹介した。そうしたらその方は涙を流さんばかりに猛感動し(は大袈裟だが)、その日のうちに速攻で『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』を買ってくれた。

 

 

そういうのが普通の音楽愛好家の耳、正常な判断と言動だぞ。僕の方はソウル・ミュージックのことをたくさん教えていただいているそのサム・クック狂の男性音楽ファンの方には言わなかったのだが、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』がそんなにも美しく仕上がっている最大の理由は、ブラウニーが<歌の容れ物>と化して、原曲メロディの美しさに手を加えずフェイクせずアド・リブ・ソロもやらず、ただひたすらとりあげているスタンダード・バラードが元から持っている魅力をそのまま伝えてくれているからじゃないかと、僕は思うんだよね。

 

 

上で「ローラ」「ポートレイト・オヴ・ジェニー」の二つだけ音源を貼ったけれど、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』は全編がこんな具合なんだよね。甘美なバラード(含むトーチ・ソング)を、フランク・シナトラとの仕事もある名アレンジャー、ニール・ヘフティのアレンジしたストリングス・サウンドに乗せて、ブラウニーがそのまま、ひたすら美しく吹いているだけ、本当にただそれだけの至福の約41分間。

 

 

最初にリンクを貼った三つのうち二番目の岩佐美咲の記事でも書いたが、原曲の持つその優れたところをフェイクせずそのまま素直に歌って、曲自体の持つ魅力をストレートに聴かせてくれる 〜 そういうのこそが真の意味での「良い歌手」なんじゃないのかなという、この僕だけじゃない大勢のみなさんの捉え方は、普段はフェイクしまくって自由自在に即興ソロを演奏するジャズ楽器奏者にも当てはまることなのかもしれない。そういうやり方が実は一番難しいからね。ましてや変えないとダメだというようなジャズの世界だったら、なおさら一層難しい。

 

 

普通、ジャズ楽器奏者は、そんな<歌の容れ物>的な世界とは正反対の世界で生きている人たちだと思われている。原曲を崩さずそのまま演奏したりしたら、アド・リブ・ソロがなかったりなんかしたら、そうか、できないんだなとたちまち失格の烙印を押される。クリフォード・ブラウンだって普段は奔放なインプロヴィゼイションを展開している。そしてそうする時の、いつものブラウニーは、ジャズ史上一・二を争う最高級の腕前だ。だからこそ、それほど素晴らしい楽器奏者だからこそ、ひるがえってフェイクなし、アド・リブなしのストレート表現、すなわち<歌の容れ物>的表現をした時に、聴き手を激しく感動させられるんじゃないかな。

 

 

そしてそういうことができるジャズ・メンこそ真の実力の持主だと言えるんじゃないかと、最近の僕は考えはじめているのだ。パティ・ペイジ、鄧麗君、岩佐美咲のようなヴォーカリストたち同様にね。ジャズ楽器奏者が、ファンならみんな知っているスタンダード・バラードを、みんな知っているそのままのメロディのまま演奏するなんて、真の実力と、そして相当な勇気がないとできない。クリフォード・ブラウンの素晴らしさは、『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』みたいな作品でこそ、実はものすごくよく分るのだ。

 

 

あぁ、こっちも素晴らしいと思う『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』や、案外悪くないと僕は思っているウィントン・マルサリスのウィズ・ストリングス・アルバム『ホット・ハウス・フラワーズ』(僕の愛する「星に願いを」があるし、サッチモの得意曲だったからやったに違いない「アイム・コンフェッシン」もあるし、また「スターダスト」もあるからブラウニーのウィズ・ストリングス・ヴァージョンと比べると面白いし)の話は、ちっともできなかった。

 

 

とにかくですね、音楽は出来上がりが美しいかどうか?〜 この一点のみで判断していただきたい。

2017/03/25

歌手は歌の容れ物(その3)〜 エルフィの「シリン・ファルハット」

 

 

 

カマトト女は大嫌いだって以前言ったよね。だからその正反対の魅力を振りまいているような歌手エルフィ・スカエシは大好きだ。つまり濃厚に妖艶でお色気をムンムン漂わせているようなセクシー・シンガーだよね。エルフィは、中村とうようさんの読者である方々には全く説明不要の有名人で、知らない人なんているわけがないけれど、僕のブログの読者層の中心はたぶんジャズ・リスナーだろうと思うので、いちおう以下で少し説明しておこう。最近<エルフィ・スカエシ>の文字を見る機会もガクンと減っているしね。

 

 

エルフィ・スカエシ(Elvy Sukaesih)は、1951年生まれのインドネシアの女性歌手。音楽一家に生まれ育ったせいか子供時分から歌っていて、10歳の頃にはラジオで歌を披露していたそうだ。彼女はダンドゥットという音楽を代表する女性歌手なんだけど、10歳ということは1961年(僕の生まれる前年)になる。その頃、まだダンドゥットは確立されていなかったはず。

 

 

インドネシアの大衆歌謡音楽ダンドゥットの成立の時期をどのあたりに置くと見るかは難しいと思うけれど、大統領がスカルノからスハルトに代わって、西側諸国寄りの経済重視政策に転向した1960年代後半あたりじゃないかなあ。そのあたりからロックやその他アメリカ産大衆音楽や、それで用いられる電気楽器などもどんどん導入され、それ以前からあったオルケス・ムラーユに音楽的なディープさをくわえるようになって、さらにスリン(竹笛)やグンダン(タブラ風太鼓)も使われるようになって、ダンドゥットとしての演奏スタイルが確立した。

 

 

「ほとんどゼロからのスタートだった」とか「もともと根なし草音楽」とかおっしゃる方もいるけれど、それはどうなんだろう?インドネシアの音楽史や現地の文化事情などをよく知らない僕が言うのも気が引けるけれど、音楽でもなんでも文化って、まず最初の姿がゼロだとか空白だったものってあるのかなあ?ダンドゥットだって1960年代中頃までのインドネシア音楽文化の流れに根ざしている部分があるように僕には聴こえるんだが、やはりあまり言わないでおこう。

 

 

アメリカ産ロックなどの影響でということを書いたけれど、使用楽器や音楽要素などはそういう部分が確かにあるにしても、マーケット的な事情は正反対だ。アメリカやヨーロッパ各国の音楽資本が入り込んで支配している国や地域(つまり日本もこれに含まれる)ではない場所では、1970年代に主流メディアが LP からカセットテープに移行したようだ。カセットの制作・販売の方がはるかに手軽だし大資金を要しないので、どんどんメーカーができて販売され、実際、消費が大きく拡大した。

 

 

欧米各国や日本などではない世界の音楽マーケットでは、いまだにそういう部分があるんじゃないかなあ。日本ではカセットが音楽流通メディアの主流になったことはおそらく一度もない(一部演歌の世界を除く)はずなので、僕は実感がなく、また最初からカセットで販売されている音楽を買った経験も極めて少ない。移転前のエル・スール実店舗でユッスー・ンドゥールのカセットを少し買ったことがあるだけじゃないかなあ。

 

 

がしかしインドネシアでのエルフィ・スカエシもカセットでたくさん販売され流通していた(いる?)ようだ。外国の現地でカセットでしか流通していない音楽を、日本国内でそのまま入手することは容易ではない。だから僕もエルフィを CD でしか聴いたことがない。むかし LP レコードがあって買ったような気がするけれども、記憶がかなり薄れているし、間違っているかもしれない。買っていないかもしれない。

 

 

エルフィのことを知ったのは、やはり中村とうようさんの『大衆音楽の真実』のなかで絶賛されていたからだ。この本を僕が渋谷の東急プラザ内にあった紀伊国屋書店で買ったのが1988年か89年かそのあたりのこと。それで是非聴きたいぞと思ったのは間違いなく僕だけではなく、大勢いらっしゃるはず。

 

 

とにかくインドネシア現地ではカセットで売られれいるわけだから、そのままでは日本国内の音楽マーケットでは流通させにくい。それで日本で編集されたベスト盤 CD が何種類か以前からあって、僕もそんなものでエルフィを聴いていたし、いまでも同じ。いまの僕が普段最もよく聴くエルフィのアルバムは、田中勝則さん編纂のライス盤『ザ・ダンドゥット・クイーン』で、2005年リリースの名唱集。

 

 

その他何種類かあるし、久保田麻琴プロデュースの一枚とか、あるいは最近、確か四・五年前に、プルナマ時代のカセット音源六つを 2in1で計三つの CDにしたものが、やはりライスからリリースされた。これも飛びついて買った僕。付記しておくが、ここまで書いたエルフィの CD は全ていまでもアマゾンなどで普通に、それも中古ではなく新品の流通品として買えるぞ。もしまだの方は速攻でポチってほしい。

 

 

プルナマ時代のと書いたが、ライスのベスト盤『ザ・ダンドゥット・クイーン』は、まさにそこ、1970年代中期から84年までの音源集で、田中勝則さんが選りすぐった名唱集なので、やはり普段の僕はこれを一番よく聴く。上記の(CD では)計三枚のプルナマ音源集と、やはり一部重なる。正確には「Krishna」(クリシュナ)「Karena Pengalaman」(経験ゆえに)の二曲だけがダブっているみたいだ。

 

 

CD で計三枚のプルナマ音源集(は全体のごくごく一部でしかない)もいいものがたくさんあって、上記二曲以外『ザ・ダンドゥット・クイーン』には収録されていないので、是非聴いていただきたいのだが、『ザ・ダンドゥット・クイーン』では田中勝則さんが実に懇切丁寧な解説文を書いてくださっているので、その点全く愛想のないその三枚よりは、入門者のみなさんにも気軽に推薦できる。

 

 

また『ザ・ダンドゥット・クイーン』の方をオススメしたいもう一つの理由として、冒頭の一曲目「セクシー・シンガー」(Penyanyi Sexy)がプルナマ時代の録音じゃないからだ。田中さんは、おそらくレコマ録音と書いている。エルフィのレコマ録音というと、オルター・ポップからやはり田中さんの選曲でベスト盤が出ていたが、いまは廃盤で入手困難のようだ。

 

 

だがその「セクシー・シンガー」がかなりチャーミングなんだよね。これが『ザ・ダンドゥット・クイーン』に収録されているのは、このライス盤はマレイシアのライフ・レコーズからリリースされているものに基づいているので、ひょっとしてライフは「セクシー・シンガー」も、プルナマ時代ではないけれど、リリースしていたということかなあ?

 

 

とにかくその「セクシー・シンガー」が魅力的で、曲名通り、そして今日最初に書いた通り、妖艶な官能歌手としてのエルフィ・スカエシのどのへんがそうであるか、大変に分りやすい。だからこれが一曲目にあって、二曲目以後は全盛期のプルナマ録音が続き、末尾を最高の名唱「シリン・ファルハット」で締める構成のライス盤『ザ・ダンドゥット・クイーン』を強く強くオススメしておきたい。

 

 

「シリン・ファルハット」は、中村とうようさんもエルフィの歌で一番好きだと言っていたのだが、僕はといえば、長年この歌をさほどいいとは思っていなかった。どうしてかと言うと、この曲はサッパリ爽やか路線みたいな感じで、エルフィもサラリと歌い、いつものような濃厚なお色気満点のため息やコブシが聴けないのだ。言ってみれば清純派歌手みたいになっているもんね。

 

 

繰返すが、僕は濃厚で妖艶なセクシー路線でエルフィが大好きになったわけで、『ザ・ダンドゥット・クイーン』なら一曲目の「セクシー・シンガー」とか、六曲目の「経験ゆえに」(このへんから歌本編の前にカデンツアのイントロが入るようになる)とか、八曲目の「許して」(Izinkanlah)とか、九曲目の「乾き」(Gersang)とか、13曲目の「恋人」(Pacaran)とか、14曲目の「蜜のシャワー」(Mandi Madu)とかが好きでたまらず、聴きながら…(以下略)。

 

 

だから爽やか清純派路線であるかのように長年聴こえていた「シリン・ファルハット」はイマイチ、どこか二つも三つも物足りない感じだったんだよね。恋愛歌ではない童謡みたいな素朴なメロディだしなあ。でも今年2017年になって『ザ・ダンドゥット・クイーン』をなんどか聴き返していたら、二つも三つも足りていないのは明らかに僕の認識の方だったという事実に気が付いたのだった。

 

 

「シリン・ファルハット」におけるエルフィ・スカエシは、今年僕が書いた記事でなら岩佐美咲について書いた際に強調した(上掲リンクのその2を参照あれ)、 ナチュラルでストレートな自然体の歌唱法なのだ。決して無理に喉に力を入れすぎておらず、しかしながら声に素直で適度な艶と伸びと張りがあって、繊細な歌い方をしながらも、聴き手である僕に緊張感を与えずリラックスさせてくれる。心地良いんだよね。

 

 

ってことはつまり、同じインドネシアの歌手ならヘティ・クース・エンダンとか、中国語圏の歌手なら鄧麗君(テレサ・テン)とか、そしていまの日本でなら岩佐美咲みたいな、そんな持味の歌手たちと同質のフィーリングを、僕はエルフィの「シリン・ファルファット」に感じるし、実際、同じ歌い方なんじゃないかなあ、あの歌では。エルフィって、普通そういうのとは正反対の歌手だと思われているに違いないし、僕のこの言い方もオカシイかもしれないが。

 

 

 

この事実を1980年代なかばに指摘していた、というかはっきりと上記のようには言っていないが間違いなく同じ意味のことを感じて書いたであろう『大衆音楽の真実』の中村とうようさんは、やっぱりすごかったよねえ。あの耳の洞察力は慧眼だったとしか言いようがない。というわけで、そのエルフィの、いまなら僕も最高の名唱だと信じる「シリン・ファルハット」だけは音源を貼ってご紹介しておこう。

 

2016/05/28

歌手は歌の容れ物〜鄧麗君、パティ・ペイジ、由紀さおり

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昨2015年3月に鄧麗君(テレサ・テン)のレコードを台湾や香港の会社が紙ジャケットでCDリイシューしたもの全83枚を一挙にまとめてエル・スールで買った(その際はエル・スール店主原田さんに無理を言って面倒をかけました)。当然一度に全部は聴けないので、少しずつ聴いてようやく先日全部聴終えた。

 

 

その鄧麗君の紙ジャケ・リイシューCDシリーズ、出るたびにかなり気になってはいたのをなんとなく見逃したままだったのが、2014年暮れにどうしようもなく猛烈にほしくなって、それで全部まとめて売ってくれとエル・スールさんに言ってしまうというアホな買い方をしたわけだ。

 

 

出るたびにちょっとずつ買っていけばいろんな意味で楽だったのに、そうしなかった僕がバカだった。そして原田さんは香港・台湾に発注し、何ヶ月かかかって「本日税関を通過しました」なんていうメールが来た時は、嬉しい反面、一体金額はいくらになるのか恐ろしくて震えていたという。我ながらアホだとしか言いようがない。

 

 

もちろん日本の歌謡界で日本語で歌ったもの以外でも『淡淡幽情』など評価の高いものは既に持っていて聴いていたんだけど、『淡淡幽情』含め面倒くさいのでダブるのを承知で全部買ってしまった。紙ジャケ好きだしね(それまで持っていた『淡淡幽情』他はプラスティック・ケース入り)。

 

 

それら83枚を一年以上かかってようやく全部聴いて、それで僕は初めて分ってきたことなんだけど、ポピュラー・ミュージックの真に優れた歌手ってのは「歌の容れ物」なんじゃないかなあ。これはこないだ僕の夢のなかでの自分の発言に出てきて、それで初めてはっきりと自覚したことなんだよね。

 

 

僕は見た夢の内容をはっきりと憶えていることがあるんだけど、そのつい一週間ほど前の夢のなかで僕は「歌手というのは歌の容れ物なんだぞ、そういうのこそ大衆音楽の真の姿なんだぞ」と、なぜだか母校の高校での教育実習中の学校の廊下か教室で生徒に向って力説していた。「歌の容れ物」というのはその夢のなかで初めて出てきた表現。

 

 

その夢はちょっとオカシイんだ(夢ってそういうもんだけど)。なぜかと言えば教育実習をした大学生の頃の僕はジャズのレコードばかり買っていて、複雑・難解で個性の強い音楽表現こそが最高に素晴しいものだと信じて疑っていなかったもんね。1ミリたりとも疑っていなかった。そしてそれはジャズだけでなくブルーズでもロックでもあらゆる音楽について全く同様に考えていた。

 

 

上京して20代後半頃からワールド・ミュージックをどんどん聴くようになってからもこの考えは全く変らず、サリフ・ケイタとかユッスー・ンドゥールとか(最初はアフロ・ポップ中心だったから)も、なんて素晴しい個性の持主なんだ、こんな声を持ちこういう歌い方ができるって凄い個性だなと思っていたわけだ。

 

 

だから中学生か高校生の初めの頃まではテレビの歌番組などでよく見聴きし、なかにはドーナツ盤を買ったりしていた日本の歌謡曲の歌手はバカにするようになってしまい、テレサ・テンも時々出演して歌っていた「つぐない」や「時の流れに身をまかせ」などもフ〜ン上手いねと思っていただけ。

 

 

テレサは言うまでもなく台湾出身の歌手だから中国語(台湾語)で歌うのが本領だけど、1974年に日本の歌謡界に来たのは、日本のレコード会社関係者がアジアでは既に大スターだった鄧麗君の人気に目を付けて、台湾や香港に通って日本でやらないかと彼女を説得したからだったしい。当時テレサ21歳。

 

 

しかしホント僕はある時期以後わりと最近まで歌謡曲の世界を軽んじていたわけだから、日本のテレビ歌謡番組で歌うテレサについても歌の上手い女性歌手だなとしか思ってなくて、中国語で歌った歌の魅力やアジアでの大スターぶりなんてちっとも知らなかったんだよなあ。台湾出身の先例、欧陽菲菲と似たようなもんだと思っていた。

 

 

鄧麗君がどれほど素晴しい歌手かってのを初めて意識したのは、やはりこれまた中村とうようさんの文章を読んだからだった。どの文章・本で読んだのか、どんな内容だったかもすっかり忘れてしまったけれど、なんだか本当に絶賛してあったよね。それにとうようさんは『俗楽礼賛』のなかでもパティ・ペイジを褒めている。

 

 

『俗楽礼賛』(含め仕事関係以外の全ての書籍)は即座に手に取るのが面倒くさいところに置いてあるから、ひょっとして鄧麗君について一章を割いていたかどうか確かめられないんだけど、あの本はポピュラー音楽とは<通俗的>であることにこそ真の価値があるのだという主張で貫かれていて、最初(1995年頃かな?)に読んだ時にはあまり好きじゃない歌手も含まれていた。

 

 

あまり好きじゃない歌手とは僕の場合パティ・ペイジのこと。『俗楽礼賛』に出てくる他の歌手、例えばエルヴィス・プレスリーや美空ひばりやボブ・ディランやキャブ・キャロウェイもあったっけ、そういう人達は既に大好きだった。唯一カルメン・ミランダ(もあったと思う)は、僕は当時まだブラジル録音を聴いていなかったはず。

 

 

でも僕はそういう既に好きだった歌手はやはり「強く個性的」で「独自」の歌唱表現の持主だからこそ素晴しいんだと長年思って聴続けていたのであって、彼らに混じってパティ・ペイジみたいな独自の個性的なところを感じられない、当時の僕にとっては「普通の」歌手が並んでいるのはどうしてかなあと思ったんだよね。

 

 

とはいえパティ・ペイジも僕はまだそんな本格的には聴いていたわけじゃなく、一番有名な「テネシー・ワルツ」は日本でも江利チエミが歌っていたし、その他数曲パティ・ペイジの歌を知っていた程度。だいたい彼女は三拍子のワルツ・ナンバーばっかりなもんだから、あまりワルツが好きじゃない僕にはイマイチだった。

 

 

CD時代になってベスト盤リイシューCDを一枚買った程度だったパティ・ペイジをちゃんと聴いたのは、僕の場合田中勝則さん編纂による2014年のディスコロヒア盤『ニッポン人が愛したパティ・ペイジ』というマーキュリー時代初期録音集でだった。なんて遅いんだ!アメリカでは言うに及ばず日本でも昔は一時期大人気だったらしいのにね。

 

 

ディスコロヒア盤のパティ・ペイジだって、田中勝則さん編纂のディスコロヒアは信頼していて全部買うと決めているから買っただけで、パティ・ペイジにはさほど期待していなかった。ところが田中さんの解説を読みながらそれを聴いてみたら、この人素晴しいなあと感心しちゃった。こりゃいい歌手だよね。

 

 

こういうなんというのかなあ、強い個性のない、というかそもそも個性的表現だとか自己主張だとかのかけらもない、ということは要するにアーティスティックなところが微塵もないポピュラー・ミュージック歌手のその通俗的な輝きを、その魅力を、僕はディスコロヒア盤のパティ・ペイジでおそらく初めて理解した。

 

 

そうなるとパティ・ペイジのどんな歌を聴いても素晴しく聞えるようになり、どんどん買って集めるようになった。しかしながら今の僕が一番よく聴くパティ・ペイジは、前述ディスコロヒア盤をエル・スールで買うと付いてくる特典CD-Rなんだよね。1950年代に録音したジャズ・スタンダード曲集。

 

 

デューク・エリントンの「アイ・ガット・イット・バッド」にはじまり全12曲計36分ほどのその特典附属CD-Rこそ現在の僕が最も愛するパティ・ペイジだ。ブンチャッチャ・ブンチャッチャというワルツがどうしてだかやっぱり苦手だからこういうものの方がいいっていう完全なる個人的趣味嗜好の話。そして本格的ジャズ歌手が同じ曲を歌ったのよりパティ・ペイジの方がいいかもしれない。

 

 

だってパティ・ペイジはどのジャズ・スタンダードでも原曲のメロディを崩さずストレートに歌っているよ。そこがいいんだ。強い個性を出さず歌のメロディの美しさをそのまま表現するってところがいい。本格的ジャズ歌手は個性を出そう、独自の表現をしようとするあまり原曲のメロディをフェイクしすぎてしまうのが、ビリー・ホリデイなど一部を除き、僕はもうイマイチなんだなあ。

 

 

強い個性を主張せず歌本来の持味をそのままストレートに活かし伝える。そういうのが僕の言う「歌手は歌の容れ物」だという意味なんだよね。ピンク・マーティーニが「タン・ヤ・タン」を採り上げたことで一躍再ブレイクした由紀さおりもそうだよね。ピンク・マーティーニとの全面共作『1969』なんか最高だよ。

 

 

あの『1969』では由紀さおりは全編日本語でしか歌っていないのに世界中でヒットして、なんでも聞いた話ではギリシアの iTunes ではダウンロード売上げ第一位になったんだそうだ。このことからしても、音楽を楽しむということと歌詞の意味の理解とはなんの関係もないってことがよく分るよね。

 

 

『1969』でも「タン・ヤ・タン」を由紀さおりが再演してくれていたら(『草原の輝き』収録ヴァージョンではチャイナ・フォーブス)文句の付けようのない最高のポップ・アルバムなんだけどなあ。「♪わたしはギターなの♫」(だから鳴らして)なんて言われると、オジサンはもうタマランのだよ(歌詞の意味なんかどうでもいいと言ったそばからこれだ)。

 

 

鄧麗君では最高傑作に推す声が多い『淡淡幽情』はもちろん文句なしだけど、個人的趣味で言えば『一封情書』の方が好き。なぜかというとこのアルバムには「何日君再來」と「夜来香」の二曲があるからだ。前者は周璇が、後者は李香蘭(山口淑子)が歌った有名ヒット曲。僕はやっぱりスタンダード好きなんだなあ。

 

 

パティ・ペイジでもジャズ・スタンダード集が好きだとか、鄧麗君でも有名曲が入ったアルバムが好きだとか、由紀さおりでも昔のヒット曲の再演を聴きたいだとか(『1969』には「夜明けのスキャット」があるけれど)、こういうのはクラシックの名曲や古典落語を聴きたいというのと共通した心理なんだろうか?どっちの世界もよく知らないからやっぱりやめておこう。

 

 

いずれにしても、強い個性とか自己主張とかアーティスティックな部分のかけらすらもない通俗的でポップで明快なものこそ大衆音楽の真のありよう、真の輝きだと僕は思うね。このことが50歳過ぎてようやく自覚できるようになった僕だけど、シャバコさんみたいに20代から既にお分りの方もたくさんいらっしゃるから、やっぱりダメだなあ僕の耳は。
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